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URBAN LEGEND  作者: 安藤ナツ
Case6.

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地獄期間④

「『殺人鬼』塚原寧々で良いな? ちょっと用事があるんだが、付き合ってくれるか?」


 ダンスの申し出のように、幽鬼染みた男が女に手を差し出す。その手は絶望のように白く一切の傷がない。私の趣味とは違うが、綺麗と言えなくもない


「そう言うあんたは、新里世界だったっけ? あんたの活動範囲はもう少し中央寄りじゃあなかった?」


 それに対して、寧々は一歩後ろに下がることで答える。近距離用の武器を持ちながら後退を選ぶのは、臆病か慎重どちらの表れだろうか? 


「ま、修行だよ。修行。ちょっとばかしミスやらかしてな」


 無視された自分の手を緋色の奇妙な瞳で眺めながら、世界が答える。自身の失敗を恥じる様子もなく、堂々としていてこれっぽっちも悪気などそこには見えない。自分ではない、世界が悪いのだとすら聴こえる。


「罰ゲームとして、お前みたいな殺人鬼を捕まえることになったんだよ」

「私は、あんたと同じ台詞を言った人間を三人知っている。そいつらは全員、食事中だけどね」

「……シェイクスピアだったか? まあいい。奇遇なことに、俺もお前と同じ台詞を言った人間を四人は知っている。そいつらは全員、蛆虫と食事中だがな」


 互いに言葉を交わしながら、二人は間合いを測る。寧々の方はナイフの鋭さを前面に押し出しながら、世界は両の手をポケットに突っ込んだ不敵な格好のまま。武器を持っている寧々の方が完全に守勢に回っている。


「なあ、一つ訊きたいんだが」


 ナイフを噛み砕くほどに人間を逸脱した世界が、技術で造られたナイフを恐れる理由もない。単純に、遊んでいるのだろう。強者特有の(弱者は油断と呼ぶが)余裕や心の広さが、彼を決して急がせない。


「どうしてお前は人を殺すんだ?」


 しかし世界の口から出た言葉は、予想だにしない弱々しいもので、寧々だけでなく、私すらも噴き出しそうになってしまう。そんな道徳の時間のような質問は、この闘争に相応しくない。


「あんた、意外とモラリストなのね」

「ほっとけ。ほっとけ。彼女に言われたんだよ。『どうして世界君は人を殺すんですか?』ってさ。難しい質問だろう? 考えたこともなかったからな。最近は殺す前に訊くことにしてるんだよ」


 なんとも下らない理由だ。あの威風堂々とした歩調には胸が躍ったが、これは世界に対する評価を改めざるを得ない。


 結局のところ、『人を殺す』ことが『悪』であると言うのは、ただの信仰でしかない。と言うのが私の心情だ。そう信じていたいだけの話であり、人は権力や暴力を利用することにより、その信仰を真理だと思いこもうと必死なだけだと言うことを私は長い間見て来た。自身の祈りを現実にする為に、人は戦い続けて来たのを知っている。


 そして、その根源には弱者の怨恨が見える。羊が言う『鷹は私を食べるから悪い生き物だ』そこまでは良い。笑って見過ごしてやろう。しかし続けてこんなことまで言うのだ『鷹を殺さない私は良い生き物だ』と。


 自身の弱さを、強さだと言い張るその態度には吐き気を催す。善良な人間の行為の方が、悪人の行動よりもよっぽど性質が悪い。


「まあ良いわ。冥土の見上げに教えてあげる」世界の言葉を鼻で笑った後、寧々が答える。「幸せになる為よ」

「はあ? 人を殺すのがお前の幸せなのか? だったら、お前はクレイジーだ」


 殺人と言う行為に幸福を感じる。これはまあ、そこまで珍しくないだろう。奪うことのできる強さを持った人間が、自分から動くことに幸福を感じるのはごく自然だ。うーん。そう言う意味では寧々の方が私の望む人材に近い。


 ただ、世界は世界で足元に転がるスキンヘッドの死体に唾を吐き捨てて嫌悪を示している辺りに確立された自己の信仰が隠れて見える。


「死体に唾を吐き捨てる人に言われたくないわ。地獄期間ちゃん」


 地獄期間? 文脈的に通り名だろうか?


「死体にはもう人権もないだろう。どうせ、回収されて肥料か材料のどっちかになるんだ。俺の唾がかかろうと、誤差みたいなもんさ。それよりも、論じているのはそんなことじゃあないだろう?」


 言って、世界はスキンヘッドの男の頭を踏み抜いて見せる。人間を越えた脚力は、易々と頭蓋を踏み砕き、周囲に生温い液体が飛び散った。掃除をする人間が大変だと思うのだが、その辺りはどうなのだろうか?


「それにさ、生きているって何なんだよ? タンパク質の塊りが生きているって言われても、俺には理解できないんだよ。結局のところ、生きるってのは外部の刺激を受けて、反応するだけのことだろ? じゃあ、それってリモコンで動くテレビやエアコンと差があるのか? 脳みそだって電気で動いているんだろ? 反応が少々複雑なだけさ。生きているって、動いているってことだろ? 電気ってすげーよ」


 両手を大きく広げて、世界が殺人鬼に問う。生とは何か。


 これは私ですらわからない難問だ。否、答えがないのならそれは問題ですらないか。もっとも、世界の意見は私のように肉体をあまり持たない存在や、もっと大きな意味での生には通用しない稚拙な物だ。生とは、決して電気のことではありえない。だからと言って、世界の考えが的外れだとは言わないが。


 余談だが、私流に応えるならば、生とは苦痛だ。『何故、苦しまなければいけないのか』と言う最大の苦痛に向き合う時間のことだ。


「……なるほど、命を命と思わないその精神は地獄期間に相応しいわね」


 寧々がハッキリと否定を口にする。殺人鬼らしく命には拘りがあるのか、世界の言葉が醜悪な怪物だと言わんばかりに鋭いナイフを向ける。「それに、私の『幸せになる為』って言うのは、多分あんたが考えているのとは意味が違うわ」


「って言うと?」

「あんたは、人類全員が幸せになれると思う?」


 今度は、世界が鼻で笑う番だった。「無理だろ。幸せを掴めるほど人は全員強くない」


 その言葉に、私は同意を示す。幸せとは自らの力で掴み取る物であり、強者の特権である。今の世の中に蔓延っている『幸せ』など、妥協や勘違いの産物であることがほとんどだ。そして、そう思いこめない人間が、自分の弱さを棚に上げて不幸を嘆く。


「そう言えば、今日は選挙だったな。投票行ったか? あいつら、必死に俺達の生活を保障しようとしているが、誰も幸せは保証してくれないよな」

「そうね。そもそも『幸せ』は人によって形を変える物だからね」


 ふむ。形を変える幸せか……そう言う考え方もあるのか。しかしこの二人、余程雑談が好きと見える。一体、幸せと殺人活動に何の関係があるのだろうか?


「でもさ、『幸せ』の形が一人一人違うって言うのはおかしくない?」


 舌の根も乾かぬ内に。そんな比喩表現が相応しい前言撤回をする寧々に、世界がうんざりとした表情を浮かべる。私も、表情なんて言う人間らしい物を持っていたら同じ顔をしているだろう。


「だって、全員の『幸せ』が違ったら、それらを『幸せ』って単語で纏めることなんて出来ないんじゃあないの?」


 なぜ、『山』を『山』と呼ぶのか。そんな子供の質問のように難解な寧々の台詞に、世界の表情が一斉に厳しくなる。

「どういう意味だよ?」

「例えばさ、妙な研究をしている時が幸せな男がいるとする。幼馴染の先輩のことを考えるだけで幸せな女の子がいるとする。単純な日常が幸せな高校生もいるだろうし、掃除をするのが楽しくて仕方がない人間だって探せばいるかもしれない。彼等は、別々なことに幸せを感じているのに、どうして同じ『幸せ』なんて単語で説明できるのかな? 不思議じゃあない?」

「ああ。なるほど。赤い林檎も青い林檎も絵に描いた林檎も兎さんにカットされた林檎も、その持つ意味が違うのにどうして林檎って呼ぶのかってことか」


 話の内容よりも、世界のような体格のいい男の口から『兎さん』と言う言葉が飛び出したことを、私は以外に思ってしまう。もしかしたら、瞳や髪の色から同胞意識でもあるのかもしれない。


「そう言うことよ。で、だから私は思うのよ。『幸せ』の本当の意味さえしれば、人殺しの私でも幸せになれるんじゃないかって。万人と言う万人が幸せだと思うに値する何かがこの世に在ると信じて、私は幸せの意味を聴いて回っているの。この世の人間全員に訊けば、きっと私にも幸せの意味がわかる!」


 先ほどまでとは打って変わって、自らの内から溢れる高揚を隠しきれない様子で寧々が叫ぶ。


「いや、だからさ、それと殺人がどう関係するんだよ」

 対して、世界は話の退屈さに髪の毛を掻き混ぜながら相槌を打つ。


「その話じゃあ、別に殺す必然性はないだろ? 自分のブログでやれよ」


 鋭い突っ込みに、「だって、同じ人間に二回も質問しちゃったら、時間の無駄でしょう?」寧々が『あたりまえじゃないの』と言わんばかりに答えた。


 なるほど。ビンゴゲームの出て来た数字の欄を潰すのと同じ感覚で、彼女は人を殺しているのか。彼女にとって他人の命とは、読むのと片づけるのが少し面倒で複雑な形をした本と同じ意味合いなのだろう。


 電化製品と書物。どちらが人間の本質として近いのだろうか。どちらも面白いとは思うが、私の趣味とする所ではないな。


「さて、地獄期間の新里世界。わかったら帰ってくれる? 私は忙しいの。あと七十億人の人間に話を聴かなくちゃあいけないのだから」

「おいおい。俺には聴かなくていいのか?」

「人殺しの幸せなんか当てになるわけないでしょう?」


 自嘲とも思える言葉をその小さな口から発すると同時に、寧々は右手に握っていたナイフを世界目掛けて放つ。


 しかし奇襲で失敗したそのナイフの攻撃が成功するはずもない。世界はそれを器用に人差し指と中指の間で掴んで受け止める。


「そうかい。じゃあお喋りは終わりだな」常に一定の間合いを――互いに殴りかかるには一歩遠い距離を保っていた世界が、初めて前に足を踏み入れる。「人殺しの現行犯だ。塚原寧々、死ね」


 瞬間。世界は倒れるように姿勢を低くすると、ナイフを後ろに投げ捨て、その長い脚で地面を跨ぐようにして大きく踏み込む。一ミリでも前に一秒でも早く進もうと言う意思に、常人ならざる肉体が答える。その一歩は数里にも値すると言われ、大地を縮めるようだと言うことから『縮地』と呼ばれる歩方である。


 その字の如く、世界と寧々との距離が刹那の間に消え失せる。


「っち」


 その高速の移動技術に、寧々が対応しきれずに舌を打つ。真っ直ぐにしか移動できないと言う大きな欠点を持つ縮地ではあるが、その絶対的な神速はナイフを投げるよりもよほど奇襲に向いているようだ。


 そして舌打ちの音が聞こえるか否かのタイミングで、世界の固く握られた白い拳が、寧々の眼鏡がのっかる低い鼻にめり込んだ。縮地からの右拳によるこの攻撃には一切の淀みがなく、世界がこの一撃に費やした時間と自信が美しさとして現れているように、文句のつけようのない攻撃だった。


 流星のような世界の拳は、寧々のメガネのフレームを曲げ、レンズを砕き、鼻の骨を折る。華奢な寧々の身体は殴られた顔に引っ張られるようにして後ろに吹き飛んでいく。寧々がコンクリートの壁に叩き付けられた瞬間に、ビルディングが僅かに揺れ、フロア中の埃が一斉に舞った。


 やはり、強い。思わず、私は顔がにやけてしまう。


 精神は未熟であり、その思想も固まっておらず、力すらも発展途上だろうか、十分に及第点だ。人はまず、弱さを言い訳にしなくても良いほど強くなくてはならない。


 そして、戦闘の前の和やかな会話が嘘のように、世界の攻めは熾烈を極める。壁に半ばめり込んでいるような形の寧々に追撃を喰らわせようと、大股で再び走り始める。今度は縮地ではなく、通常の人間のそれだ。右手に食い込んでいるメガネの破片を鬱陶しそうに投げ捨てるのが見えた。


「舐めるなよ! この糞がァ!」


 先制の強烈な一撃を受けたはずの寧々が、そのダメージを感じさせない大きな声で叫ぶ。どうやら、彼女も大きく人間を逸脱しているようで、ただ単に殴られた程度では少しもまいらないらしい。


 それに顔を殴られた屈辱が、痛みを遥かに勝ったようで、彼女の顔は怒り一色に染まっている。爆発するような感情が、彼女の身体を突き動かしていた。人を殺すに足る感情が、物言わぬナイフに載せられ世界を迎撃せんと振りかぶる。


「舌、噛むぜ?」


 しかし寧々のナイフが振りおろされることは叶わない。楽しそうに笑う世界は右足で地面を強く蹴ると、走る勢いをそのままに、足から寧々に向かって飛び込んだのだ。


 仮面の改造ヒーローを思わせる綺麗な跳び蹴りが、容赦もなく再び寧々の顔面に突き刺さる。全体重が乗った一撃は、寧々の頭部でコンクリートの壁を砕き、寧々の顔よりも大きな世界のブーツから、何かが潰れる音が聴こえた。どうやら舌を噛むどころの騒ぎでは終わらなかったようだ。恐らく、眼球の片方は確実に潰れただろう。コンクリートに叩きつけられた頭骨もかなり怪しい。そう、ヤバいと言う奴だ。


 それを証明するように、寧々の身体はその場で崩れるよう床に倒れこみ、身動き一つしない。世界の方は、ライダーキックの着地に失敗して少し恥ずかしそうに立ち上がっている所だ。


 両の足と自らの意志で立つ者と、意志もなく地に這いつくばる者。二人の差を明確に表すのに、これ以上相応しい構図があるだろうか? 間違いなく、勝負ありだ。


 なんだかんだと文句を言いながらも、最後まで見てしまったな。中々に面白い見せ物だった。出来ることなら、携帯電話で何処かに連絡を取っている世界に褒美を取らせたい所だが、どうも向こうは私を認識できていないようなので諦めるしかない。


 さて、そうなると、次は何処に行こうか。このまま暫く世界の後ろを追いかけて回るのも楽しそうだが、誰かを追うなど私の趣味ではない。それに日本にも随分と長居をしている気がする。久々に外国をぶらぶらとするのも悪くない。


 しかしその前に、まだ一つ見なければならない物があるようだ。どうやら世界もそれを認知したようで、面倒臭そうに舌打ちをすると髪の毛を乱雑にかき混ぜた。


「まだ動けるのかよ、塚原寧々」


 二度に渡る顔面への強力な攻撃を受けてなお、立ち上がる寧々に引導を渡すシーンが、今宵の幕引きには絶対に必要だからな。


「とどめを刺さないなんて、随分と温いじゃあない。地獄期間」


 息も絶え絶えと言う風に、寧々が答える。口と言わず鼻と言わず眼窩と言わず、顔のいたる所から滝のように血を流しながら、とどめを刺すように敵に勧めるとは、どれだけ自虐趣味なのだ、この女。


「いや、お前が頑丈なだけだ。殺す気で殴って、お前が生きている。俺をけなすよりも、頑丈に産んでくれたかーちゃんに感謝しな」


 言いながら、世界の瞳に殺意がドス黒い炎のように浮き上がる。殺し損ねた自分の実力不足に腹が立って仕方がないと言う風だ。


 しかし今の寧々は生きているとは言っても、死んでいないと言うだけだ。世界風に言うのであれば、電源が入っているだけで砂嵐しか映っていないテレビだろうか? 結局一度も世界を傷つけていないナイフを握る手も弱々しく震え、前に進もうとあがく足はいつ倒れてもおかしくない。


 私には世界の不手際と言うよりは、寧々の生命力が悪いとしか思えない。ここまで醜悪な姿を晒してまで、彼女には得たい物があるというのだろうか?


「随分と上手から物を言ってくれるわね。同じ人殺しの癖に偉そうにしやがって」

「偉くはないが、俺の方が強いことは確かだろう?」


 顔を押さえながら、地獄の底のような声を出し、寧々がナイフをズボンのポケットから取り出す。それを握る手は弱々しく、そもそも万全の状態で一度も当たらなかったそれが、今更になって通用するとも思えない。


「で? 殺されたいなら殺してやるが、お前はどうすんだ? 殺人鬼」


 それを見て、世界が拳を作って胸の前で構える。どうやら、彼女の容態とその態度の差に少し様子を見ているようだ。慎重とも臆病とも取れるこの判断は、恐らく失敗だろう。


 立ち止ってしまうと、人間は余計なことばかり考える。経験と呼ぶ薄っぺらな記憶を覗き見て、同じことを繰り返してしまうのが常だ。


 それを証明するように、寧々が動いた。それは素早くもなければ、圧倒するような物でもない。しかしそれはこの盤面をひっくり返すに値する行動だった。彼女が顔を隠していた手をどけた瞬間、世界の瞳から滾っていた熱が引いて行く。


「貴方を殺しますよ? 世界君」


 甘ったるい声がビルディングに小さく反響する。その声は先程までの寧々の物ではなく、十代の少女のように暖かだった。裏声だとか発声方法ではありえない、まるで声優のキャストが変わったかのような豹変振りだ。


 そして、変わったのは声だけではない。理知的な眼鏡が似合っていた表情から、直視に堪えない物に変貌していた彼女の顔が、十代半ばのような童女の物へと変わっているのだ。怪我など何処にもなく、来ている服もスーツからセーラー服へと変わっており、一瞬の間に舞台に立っている人間が摩り替ったとしか認識できない。


「向日葵?」


 その変貌に、世界が恐ろしい物を見たように後ずさる。あどけない少女の姿には、いかなる武装もなく、ハムスターにだって殺されそうなほどにその肢体は細い。世界が恐れるに足りことなど何一つないはずなのだが?


「へー。ひまわりちゃんって言うんですか? 世界君のたーいせつな人は」


 姿を変えた寧々が、茶化しを入れるように笑いながら世界に近寄る。世界は後退こそしなかったが、ひきつった表情で彼女から視線を逸らす。


「驚いてますか? 驚いてますね? これが私の『のーりょく』ですよ。メタモルフォーゼ! いえーい!」


 何がそんなに楽しいのか、十秒前まで怪我人だったとは思えない調子で寧々がその場で跳ね回る。彼女はその現実を『能力』と自称する。別段と珍しい現象ではない。自己克服と言う命題が人類と言う種に停滞を許さず、常に先へ先へと呼びかけているのだから、今まで誰も出来なかったことができる人間が産まれて来るのは必然だ。


 しかし変身能力とは珍しい。どうやら怪我も回復しているようだし、中々に優秀な能力だと言えるだろう。今日は本当に良い日だ。


「違うな」


 私の感動に水を指すように、世界が短く言葉を吐き捨てる。少し乱れてしまった呼吸を整えながら、彼は落ち着けと自分に言い聞かせているようだ。


「何が違うんですか? 世界君。私は私ですよ? 貴方の向日葵ちゃんですよ」

「お前のは、変身能力じゃあないんだろ? 林檎ぶつけるぞ、このアマが」

 何故、林檎なのかと私は首を捻ったが、すぐにその意味を理解する。意外と彼は読書家なのだろうか?


「お前が向日葵の姿を知っているわけがないからな」


 言われて、私は確かに彼女の能力に少し違和感を覚える。違和感と言うか、もっともな疑問なのだが、『何故にあんな少女の姿を取るのか』だ。少なくとも、向日葵と世界が呼んだ外観よりも強そうな物に変身したほうが少しでも戦力の向上になるだろう。


 それなのに、寧々はかよわい少女の姿を取った。それに、最初に彼女は自分が何に変身したかもわかっていなかった。


「塚原寧々。お前の能力は精々の所、俺の認識をすり替える程度だろう?」以上のことを踏まえ、世界が寧々の能力を看破する。「自分と言う存在を、他人として認識させる能力。それがお前のしょうもない能力の正体だ」


 苦虫を潰したように渋い顔をしながら、世界が右手の人差し指を寧々に突き付ける。よほどあの少女が苦手らしい。


 しかしこの勝負は既にあったも同然だろう。能力を見抜かれると言うことは、賭場で財布の中身を知られるのと同義だ。底が知られる。格が付いてしまう。何故、私までその向日葵ちゃんの姿を見ることができるのかは不明だが、その程度の能力が今更戦局を変える物とは思えない。


「ピンポンピンポ~ン! 大正解ですよ、世界君! 私は私は、あなたの『幸せの形』を模倣した妄想夢想想像ですよー。もっとも、世界君がそう感じているのであって、私自身は普通に話しているだけですから、その向日葵ちゃんの姿形や人柄はわからないんですけど。さっき話していた彼女さんですか?」


 だと言うのに、寧々はハイテンションを貫いて自らの勝利を疑わない。実際はもっと落ち着いた風なのかもしれないが、世界の認識する向日葵とはこう言う人間なのだろう。彼も、恋人の前ではこれくらい軽い性格になるのだろうか。


「黙れ。それ以上向日葵の姿で喋るな」弱々しく世界が呟く。

「あれ? こんな程度で参ってしまうんですか? そうですよね、そうなっちゃいますよね。自分の幸せを殺すこと何て誰にも出来ないですもんね。幸せは大切な生きる意味ですからね」


 世界の態度ににやにやと、下卑た笑みを浮かべながら、寧々が世界に近寄って行く。彼女は飛んだり跳ねたりを繰り返して移動しており、中々に世界の所まで近づかない。世界の読みが正しいのであれば、怪我が治ったわけでもないのだろう。


 寧々は今、渾身の力を振り絞って前へと一歩ずつ進んでいるのだろう。


 しかし世界は攻め入れない。かつて敵軍が神聖視する猫を盾に縛り付けて戦った戦争があったが、それと同じだ。自分が信じる物を人間は汚すことができない。幸せを盾にすると言う寧々のその能力は、能動的ではないが無敵の盾と言えるかもしれない。


「ははは。良い気分ですね。地獄期間なんて大層な二つ名を持つ男をこうやって見下せるなんて。世界君の力がなんなのかは一切合財知りませんが、『地獄』の名を持つ人間は、さぞかしお強いんでしょうね」


 けたけたと笑いながら、寧々がついに世界の間合いに入る。


「さあ! 貴方は私の幸せを殺せますか?」

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