万象の龍③
俺のバイト先は、二年間一貫して国道の傍に在る古本屋だ。老人が趣味でやっているような物ではなく、全国チェーンの有名な店舗だ。勿論、有名だからと言って進学校のように倍率が高いわけでもなかった。高校に入るなり、履歴書を持って面接に行けば禿げ頭の店長に『明日から来てね』と言われたことは今も覚えている。
バイト代的には飲食系の方が良いらしいが、作り笑顔が苦手な俺は接客業を選ぶことができなかった。そもそも、外食をすることがまずなかったので、飲食系のバイト先の可能性に気が付いたのが一年程前だったりするんだが。
自転車にチェーンを付けて(本当に必要あるのかどうかと訊かれたら謎だが。何せ、自転車の死骸だ)、勝手知ったる他人の家と言わんばかりにスタッフルームの扉を開ける。二年前から禁煙となったスタッフルームには、商売道具でもある漫画を読んでいる店長が一人だけ椅子に座っていた。開店一時間半前ともなれば、そんな物だ。生鮮な物を扱うわけでもないから、開店前の準備のような物は少ないのだ。
「おはようございます。店長」
「ああ、おはよう、英悟君」
俺の爽やかな挨拶に、店長が歯切れの悪い答えを返す。禿げかかった頭通りに、普段は明朗な感じのお方なのだが、また奥さんと何かあったのだろうか?
「いや、奥さんとはラブラブだから」
因みに、奥さんはバイトに来ていた女子高生らしい。犯罪の臭いがする。
「実は、君をここでバイトさせるわけにはいかなくなったんだよ」
「は?」
「いや、昨日の夜ね。君の学校の生徒指導の先生から電話があったんだとよ。『今年度から、バイトは禁止だと』ね」
「禁止?」
それは有り得ない。俺は態々バイトの可能な授業料の安い高校を選んだんだぞ?
「私もそう言ったよ? 高校の許可証も有るし、君の働きぶりは素晴らしい。仕事の損失にもなるし、君の家庭の事情も理解しているから。だから、バイトを続けさせて欲しいとお願いしたんだよ。それでも駄目だった。ありゃあ頑固な奴だね。俺の時代にもいたよ、ああ言う先生は」
半分以上店長の話を聞き流す俺の頭には、今年度から信任して来た教師の顔が浮かんできた。背筋のピンとした若い男で、正義と言う鉛を規則と言う形に流し込んだような熱血漢。学生の本分は学業だと疑わず、部活の活動時間すらも無駄だと言うような奴だと、友人達が文句を垂れていた。
「……黙って雇って貰えませんか?」
苦し紛れに、俺は店長に縋るように呟く。その裏で、様々な数字が跋扈する。学費、食費、家賃、入院費、等々だ。算盤がクルクルと回り続ける。回っているのは火の車かもしれない。
「そうしたいのは山々だけど、流石にばれた時のリスクを考えるとね……」
それはそうだ。別に絶対遵守しなければならない規則ではないが、世間体と言う物がある。この答えは簡単に予想が出来ていた。それでも訊ねずにはいられなかったと言うだけの話だ。
「そうですか……今日の分は?」
「他の子に代わりを頼んであるから、本当にゴメンね。取りあえず、今月のバイト代だけは出すからさ」
「そうですか」
ここれ以上、店長にゴネても意味はないか。この二年間、本当に店長は俺に良くしてくれた。これ以上の迷惑をかけることはできない。大人しく諦めるしか選択肢がない。何より、俺は学生だし、ルールには従わなければならない。
あー、ないない尽くしで腹が立つ。が、腹を立てた所で何かが変わるわけでもない。こう言う理不尽には短い人生で少なからず慣れているので、俺は「しかたがない」と魔法の言葉を呟く。生きているだけで十分に俺は幸せなのだと言い聞かせる。
気持ちの整理を付けると、俺は店長に頭を下げて出口のドアに手をかける。その際に、「いつでも立ち読みにおいで」と、店主として何とも言えない言葉と共に、売れ筋の人気コミックスの三十巻の連冊が入った紙袋を渡された。悪魔が人間を唆し、人を破滅に陥れると言う薄暗い話にも関わらず、どの店でも全巻が高額で買い取られている俺には理解できない人気漫画だ。売って足しにしろと言うことだろうか? バイトをしていない時間を潰せと言う意味だろうか?
「お別れ会もやるつもりだからさ。あ、お金のことは気にしないでね。英悟君」
「本当に、ありがとうございます」
それ以外の言葉がない。感謝を伝える陳腐な言葉と共に、俺はドアノブを回す。壊れかけたパイプ椅子や、水平が取れない机ともおさらばか。理不尽には慣れてはいたが、別れには慣れていないんだよな。少し寂しい。
「じゃあ、また今度。客として来ます」
なるべく調子を落とさないように心掛けて俺は再開を約束して扉を潜る。店長は何も言わなかった。
スタッフルームを出ると、真っ先に錆付いた自転車の買い物かごに貰った漫画を載せる。漫画も三十冊となれば中々に重い。ひもが手に食い込んできて、一刻も早く手放したかった。今度はかごが外れないかが、凄く不安だけど。
さて、一日……否、明日まで考えるとまるまる二日休みが出来てしまった。久々にやるべきことのない休日をどう使おうか。取りあえず、サドルに跨ると行く当てもなくペダルを回す。
春の風を頬に感じながら、その清々しい生命の息吹のような暖かさに合わない溜め息を吐き出す。
俺は、休日が嫌いだ。何を馬鹿なと思われるかもしれないが、休日とは俺にとって苦痛に等しい。奇病を持った妹が産まれて以来、両親は土日もなく働き、俺は何処かに遊びに出かけた思い出がない。それ所か、親戚がいなかった(何でいないかは知らないが、いない者はいない)ため、俺は毎週土日になると施設に預けられた。孤児院か何かだったのだろうか? 五六人子供がいて、人の良さそうな伯母さんが二人で回していた。皆、仲良くしてくれたのだが、どうしても他人の家にいるような居心地の悪さがあり、俺は料理や洗濯を教わって、早く留守番が出来るようになろうと毎週思っていた。それに、土日は月に一回か二回、両親と病院にも行っていた。妹の具合を見る為に。正直に言えば、俺は妹の姿を見たことがない。常人では、直視に耐えないのだと看護師が行っているのを聴いたことがある。そんな妹の容態の観察と、これからの治療の方針を話し合っている間、俺はいつも病院の育児スペースに預けられていた。消毒と死の臭いがするあの空間が、俺は大っ嫌いだった。
そう言った幼少時代のトラウマから、休みの日が好きになれない。自分が一人だと改めて実感してしまってどうしようもない。何処かの詩人が、人ごみの中でこそ孤独を感じると言っていたが、俺はその例外だった。
そんな休日を、高校に入ってからはバイトの慌しさで埋めていたのだが、それも今日まで。友人達と同じように遊びまわる余裕は俺にはないし、我が家に帰るなんて問題外。あそこがひょっとしたら、一番孤独を感じる場所かもしれない。




