万象の龍②
学生の本分は学業にあるのだろうが、それ以前に人間の本分とは生きることにこそあると俺は思う。例えば「この世で最も必要な力は?」と訊かれたら俺は迷うことなく『生命力』だと答える。生きると言う力は、人間が人間である根源で、これ以上に強い力はないだろう。
しかし生命力も当然ながら単体で万能の力と言うわけじゃあない。『重力』も『電磁気力』も『大きな力』も『小さな力』も必要だし、この『大地』も『大気』も『海洋』もなくてはならない。
そして『財力』。こいつは人間が作った歴史も浅い力だろうに、現代社会では無視できない力として君臨している。
そんな協力無比な力を手に入れる為に、俺は土曜の朝からバイト先の古本屋に向かっていた。バイトなんてせずに真面目に勉強をして『学力』否、『学歴』なりを手に入れた方がいいかもしれないけれども、何かと学業には金が入り用で、お袋や妹のことを考えると、自分の学費くらいは自分で稼がねばならなかった。
自慢ではないが(いっそのこと、恥ずかしながらと言いたいくらいだ)俺の家は貧乏だ。まったく生活が不可能と言うレベルではないが、まともな生活が不可能な程度には金がない。親父は身を粉にして働いており、一週間に一度でも帰ってくれば良い方だし、お袋は事故でずっと意識不明のままベッドに寝ており、妹は産まれたことを祝福する間もなんくいつ死んでもおかしくないと医者に脅され続けている。
お袋と妹の治療費は親父の稼ぎでギリギリなんとかなっている(多分、家族が全員健常であれば、内は結構裕福な家庭になっていると無意味に推測してみる)が、食費や学費を捻出するほどの余裕はない。
そんなわけで、粗大ゴミの中から引っ張り出した自転車のペダルを踏む。錆だらけで、自転車の死体と言っても過言ではないが、市の外れにある木造のぼろいアパートに住んでいるので、どんなボロでも交通に絶対必要なのだ。
しかしまあ、不平不満は言いつつも、別段に不幸だとは思わない。なんて言ったって、俺は生きているわけだから。もっとも重要な物を持っているのだから、誰かを恨むような、運命を呪うような、ここにいない誰かに原因を求めるようなことはしない。
そんな風にポジティブに、無策に人生を考えながら自転車を進める。前に前に、だ。
神知教の農業の工場化が進んだ近年では珍しい田園の風景の中、俺は音楽の選択授業で習った歌を口ずさむ。教師の趣味なのか、英語との同時学習が目的なのか、知らない人間を探すのが難しいくらい有名なその曲が風に流れて行く。金のかからない、俺の息抜きであり、趣味でもある。ハーモニカもそうだが、音楽系の特技は受けが良い。
料理や裁縫も得意なのだが、それは生きる上で仕方なく身に付いたスキルであり、褒められてもあまり嬉しくない。「いや、それが出来ないと俺は死んじゃうから」ってな感じだ。
逆に、生き抜く為に特別重要ではない音楽は、その無意味さがいっそのこと清々しく、生きることに余裕のある存在だと自分を慰めることもできるし、それを褒められると言うことは、自分は有意な人間だと錯覚できる。
そんな俺自身の存在価値を確かめる行為を中断したのは、家を出て十分もした頃だった。青々とした田圃と、何処かの御大尽の屋敷がある山に続く道があり、言ってしまえば特に言うべきことのない場所だ。普段であれば猫の一匹もいない寂しい場所ではあるが、今日に限っては話が違った。
人がいるのだ。しかも幼女が。断っておくと、俺は別にそう言う趣向があるわけじゃあない。単純にここに人がいるのが珍しく、それがたまたま幼女だっただけだ。七つくらいだろうか? 蹴飛ばせば骨なんて簡単に折れてしまいそうな華奢な身体をしていて、頭もびっくりするくらい小さい。あれで本当にまともな思考が出来るのだろうか?
しかし幼女如きにビビって歌うのを諦めるような俺ではない。俺が歌うのを中断したのは、その幼女の在り方に有った。何と言うのか、『薄い』のだ。瞬きの間に消えてしまいそうな、風が吹くだけで輪郭が消えてしまいそうな、そんな儚い幼女だった。まるで間違い探しの間違いのような存在感で、一見すれば何もないようにすら思える。
口ずさみながらでは、彼女のことを覚えていられないくらいに。
俺は自転車を降りると、屋敷に繋がる道へと歩く彼女になるべく興味なさそうな風を装って声をかけた。
「君、ここで何してるの?」
意味もなく後頭部に右手を当て、空なんか見ちゃってる。決して誘拐目的ではなく、こんな場所に人がいるなんて珍しく、それが幼女ともなれば尚更だからだ。一番近い住宅街でもここから自転車で十分はかかり、幼い子が一人でいるには不適切過ぎた。純粋に心配から出し、これ不審者扱いされないよね?
俺が声をかけてから十秒ほどの時間がたった。幼女からの返答は一切ない。無言で擦れ違われた……。あれか、最近の子供は不審者対策が息届いているのだろうか? いや、どちらかと言えば、俺が話しかけたこと自体に気が付いていないと言う風だ。そもそも、俺の方を見ていないし。
諦めずにもう一度同じ言葉を投げかける。少し声を大きめにしたのが功をそうしたのか、彼女の足がゆっくりと止まった。そのまま幼女は首だけでこちらに振り返る。その瞳に、俺はぶるりと震える。彼女の大きな目は、ただ『在るべき場所に在る』以外の意味の見出を見いだせなかった。まるで、人形のボタンで造られた瞳のようだ。
「おまえ、わたしがみえるのか……めずらしい」
唇を少しも動かさず、彼女が喋る。高くも低くもない、特徴のない静かな声。一体、彼女は今、何を口にしただろうか。少しでも間を置くと、頭の中から彼女の全てが消え去ってしまいそうな喋り方だった。
「えっと、こんな所でどうしたの?」
既に半分以上忘れてしまった幼女の言葉を無視して、俺は会話を続ける。
「迷子なら送ってあげようか?」
「いや、いまからゆうじんのいえをたずねるところさ。かぜのうわさでしんだときいたから、そのしんぎをたしかめにね」
やはり、何を言っているかがわからない。聴いた端から忘れてしまい、全て聴き終えた時には、何か会話をしていたと言う印象が残るのが精一杯で、その内容を覚えることができない。
「さすがにかいわまではむずかしいか。けいけんにたよるようなうちはまだまださ。なりおえたかねのねをかぞえまちがえることこそが、けいけんなのだから」
何も理解できず、俺は阿呆みたいに口を開けて意味もなく頷く。幽霊と会話をすると、こんな感じなのだろうか?
「もうすこしつよく、たかくなってからわたしのまえにきなさい」
ふわふわと、捉え所のない言葉が何処かに通り過ぎて行く。もう既に、この女の子が何を喋っていたのか、否、本当に彼女が物を言っていたのかどうかも、俺には覚えがない。
「もっとわるくなってからでもわるくはないがな」
眉一つ動かさなかったが、幼女は静かに笑った気がした。いや、気のせいだったかもしれない。そもそも、目の前のこの少女が本当に実在する人間なのか、俺は今更気になった。鏡に映りそうもないこの薄い女の子は、本当に俺と同じ人間なのだろうか? と。
その俺の考えを肯定するように、俺が彼女の言葉の意味と存在を考えている間に幼女の姿は消えていた。足音もなく、最初からここには存在していなかったとしか思えないような去り方だ。
しかしその有り得ない消え方も、俺には十分と納得できる。と言うより、既に半分以上彼女の存在を忘れてしまっていて、陽炎のような幼女の存在を認めるよりは、最初からいなかったと思う方がどれだけも楽だった。
「なんだったんだ?」
まさか、俺まで変な病気じゃあないだろうな? 一抹の不安を抱き、それを笑い飛ばしながら、俺は自転車に跨るとペダルを踏み込んだ。今日も今日とて、バイトに行かねば。




