魂の価値⑤
私はあの後すぐに病院に運ばれた。春休みに薫兄が運ばれた病院だった。偶然と言うことはなく、単純に学校から一番近いから選ばれたようだ。私は日本人らしい謙虚さで必死に拒否をしたのだが、悲しいかな、身体が思うように動かなかった。体育教師の汗臭い腕に抱かれ(よりによってお姫様抱っこだ! 唇お化けと!)、私は学校の車で病院まで連行されたのだ。車のシートが汚れるからと言う理由でブルーシートの上に置かれたのも屈辱的だった。しかも、ブルーシートが来るまで十分近く待たされた。違う病気だったら死んでいるかも。徹頭徹尾笑えない。
検査の結果は問題なし。いや、問題は十分にあるんだけど、足の方は軽い打ち身で、腹部の出血は原因不明らしいが、大きな切り傷等はなく、肌から染み出してきたようだったと言う。やっぱり、安心できる要素が何処にもない。医者も心の奥ではそう考えているらしく、私は一晩を病院で過ごすことになった。
そう『一晩』を、過ごさなければならない。私が……違うか、夢の中の私であるラウラが交通事故に遭ったあの夢の続きを見る必要があると言うことだ。昨晩はまともに眠れず、授業中の昼寝も失敗してしまった私に、徹夜をする体力は残されていない。
もし次、あの夢を見たら私は一体どうなってしまうんだろうか? 夢の中でラウラが死んでしまったら、それは一体何を意味するのだろうか? 医者の言った問題ない流血と、今も痛みを引きずる足の怪我は、あの夢とどう関係しているのだろうか? 少なくとも無関係だと思い込めるほど、私は太平楽な性格をしてはいない。
昔、薫兄に聴いたことがある。死刑囚の手首を切り、血がポタポタと落ちる音を聴かせる。その血の滴る音が途切れた時、囚人は死んでしまったそうだ。ここだけ聴くと当たり前のような気がするが、実際は囚人の手首に傷は入っておらず、血がなくなったと言う恐怖が、彼の心臓を止めてしまったらしい。似たような例は他にもあるらしい。熱くないストーブで火傷したとか、双子の弟の傷が自分にも出たとか、とある救世主と同じ傷が突然刻まれるとか、思い込みが肉体に影響することは珍しいことじゃあないらしい。
聖痕と呼ばれるその想像による肉体への影響の話を医者にしたら笑われてしまったが、今回の変異の原因は疑うことなく、あの夢だろう。夢で見たラウラの傷と、私の出血と打ち身の箇所は完全に一致しているのだ。確信と言うか、こんな偶然があってたまるか。
じゃあ、寝たら? 私がもし寝てしまったら? 夢の続きをみてしまったら? もし、夢の中で私が死んでいたら? 私はどうなってしまうのだろうか? 夢の中の母親の最後が嫌でも思い出される。死体特有の表情と言う物に、私は慣れそうもない。
そうやって、答えの出ない、だからと言って試すわけにもいかない問答を続けている内に、私は眠りについた。
暗闇だ。気が付くと、私は暗闇の中に放り出されていた。粘度の高い液体のような空間は息苦しく、それでいて冬のような乾燥した冷たさに支配されていた。一体ここは何処なのだろうか? 今迄はなんとなく自分が何処にいるのか理解できたのだけど、今回はさっぱりわからない。視点もラウラの物ではなく、私自身の物だ。肉体(夢の中の自分の身体をどう表現すればいいのだろうか?)も私の物で、自由に動かすことができる。こうも唐突な場面変換は、夢で間違いないと思うのだが、今まで見ていた夢とは勝手が違うことに、私は戸惑った。
「か、薫兄いる?」
私は何となく薫兄の名前を呼んだ。薫兄なら、こんな唐突な場面でも私の要求に答えてくれると信じたかった。光のない凍えた空間に、私の声が木霊する。ん? 木霊すると言うことは、この空間には壁があるのだろうか? 壁……少なくとも反響するような何かがなければ木霊は起きないだろう。夢とは言え、私の場合はなんでもありのご都合主義的な世界ではないのだ。
私はもう一度だけ「薫兄」と呟くと、一歩目を踏み出した。地面は柔らかくぬるぬるとしていて、私の素足は踝まで埋まった。小さな頃、田圃に入った時のことを思い出した。あの時は、自力で出ることができなくなって、大泣きしたな。たまたま通りかかった高校生に助けて貰って、その後は田圃の所有者にこっぴどく怒られたんだったけ?
小学生の時の間抜けな失敗を繰り返さないよう、私は慎重に進んでいく。もっとも、目的も持たずに直進している私のことを慎重と認めてくれる人間なんていないんだろうけど。
どれだけ歩いても変わらない景色のせいで、距離感も時間間隔も私の中から消えうせた頃、私は遠くに何かを見つけた。それは地面に物のように無造作に転がっていた。
近付いて見れば、それはここにあっても不思議ではないものだった。流れるような金髪に、華奢な肩、少し出て来た腹部に、腰から下のない上半身と、少し離れた所に見る影もなく潰れてしまった下半身。疑う余地なく、それはラウラの身体だった。それを認識した瞬間、心臓の鼓動が爆発的に加速し、全身から嫌な汗が噴き出した。喉の奥がカラカラになって、目の奥が痒い。
近づくべきか否か。答えを出すよりも早く、足が彼女の元へと動いた。無意識(夢なんだから無意識で当然なのかな?)の行動であり、勿論理由なんてない。だが、ラウラに呼ばれている気がしてならなかった。
「魂。精神。肉体。人間にはこの三つの要素があるわ」
あと少しで手が届く距離まで近寄ると、血まみれのラウラは開口一番そんなことを言った。いかにも薫兄が喜びそうな台詞だ。
「肉体は物理的な存在。形而下の存在。あることが認めやすい存在。それ故に変動し、確定しないもっとも頼りない存在」
ラウラの口調は、私に呼びかけると言うよりは、自分に言い聞かせている風に見えた。
「では、精神はどうだろうか? これも物理的な存在だ。所詮、感情や記憶は脳の起こす化学反応であり、形而下の存在であることに疑いはない。他愛のないことでその意味を変え、肉体の損傷によって脆くなる。さらに言えば有限であり、限界のある物でもある」
ラウラの上半身が腕だけを使って私の方に向ってくる。身体を引きずる腕には生気が感じられず、恨みがましい眼で私を睨みつけるその表情は、地獄を詰め込んだような悍ましさで、私は思わず一歩だけ後ろに下がった。
「しかし、魂は違う。紛れもなく形のない存在だ。形而上であり、心臓の鼓動よりも確実で、深層意識や無意識より傷つかず、形も変わることない永遠の存在だ。その役割は命その物であり、形而下の存在に意味を与える」
身体を引きずりながら、ラウラがジリジリと滲み寄ってくる。それは昔ゲームでやったゾンビに似ていて、荒いポリゴンでも泣き出してしまった私には刺激が強すぎる。私は慌てて背を向けて逃げた。それでも、ラウラの声が、恐怖が私の回りから消えることはなかった。
「ただ、魂は無限なのだろうか? 形而上の物だとは言え、無限などと言う言葉遊びが許されるだろうか? 魂の数にも限界があるのではないだろうか? 大気中の酸素濃度や陸地と海のバランスのように、ベストな数字と言う物が存在するのではないだろうか? だとしたら、クライオニスクされている人間の魂はどうなるだろうか? 生きているとも死んでいるとも取れない魂は、残しておくべきなのか、破棄するべきなのか? それを決めるのは誰なのだろうか?」
粘度の高い地面に、足を取られ、私は無様にその場に転んだ。すぐさま立ち上がろうと腕に力を籠めるが、泥濘に力が分散され上手く立ち上がれない。どうして死体が動くのに、そんな所だけは現実的なの?
「何故、二つの肉体と精神に、一つの魂などと言う暴挙に出たのだろうか。あの名状しがたい者は」
ラウラの右手が、私の右足首を掴む。その手の冷たさに、に死を感じる。
「二つの精神が魂の混沌に呑まれるとは考えなかったのか?」
腕が、私の足を上って来る。弱々しい、死人の腕が、私の足を伝って近づいて来る。
「しかし今は感謝しよう。魂で繋がるもう一つの精神を殺せば、この魂の正当なる支配者に返り咲くことも可能だろう」
死が、私の身体を支配していく。力が抜け、意識が消え、ぼろぼろと記憶が抜け落ちて行く。恐怖も、未練も、全てが溶かされていく。最後に、私はもっとも信頼する者の名前を呟いた。せめて、彼のことだけは忘れないように。
『やれやれ、ぎりぎりセーフかな?』
私が死んでいく。その散り際に、私は薫兄と一羽の猛々しい猛禽の後ろ姿を見た。




