第二百二十話 葱鮪汁
1
斎藤が土方の部屋に呼ばれた。
「伊東さんが、今日あたり大坂に到着する」
土方が前置きなしに話を切り出す。
「明日か明後日には京に戻るだろう」
「へぇー」
斎藤は、さして興味も無さそうに相槌を打った。
「だが・・屯所にゃ戻らねぇ。その前に、オレと近藤さんに話があると言ってきた」
土方は袖から文を取り出すと、畳の上に投げ置く。
斎藤がチラリと目をくれる。
「脱退する話だろう」
土方は薄笑いを浮かべていた。
「おめぇも誘われてんだろ」
「・・・」
斎藤は黙ったままだ。
「行くのか?」
土方の問いに、斎藤がやっと口を開く。
「いや・・」
「平助はどうだ?」
「さぁ・・」
しばらく間を置いてから、土方がボソリと言った。
「おめぇ、伊東一派と行動を共にしろ」
「は?」
「連中の動きを探れ」
斎藤は目を見開いた。
「・・オレに間諜になれってことですか?」
「そうだ」
土方がこともなげに答える。
「土方さん・・向き不向きがあらぁな。オレにゃあとうてい」
言いかけた言葉を塞がれた。
「だからだよ」
斎藤は眉を潜める。
「山崎や川島に行かせたら、すぐバレんだろ。だが・・おめぇなら、向こうも間諜だとは思うまい。・・平助もな」
土方の言葉に、斎藤の目が曇る。
「土方さん・・オレぁ」
斎藤はウソが苦手だ。
「斎藤。これは命令だ」
感情の無い土方の声が、部屋に低く響いた。
2
薫はゴローに習った葱鮪汁(ねぎまじる)を作っている。
葱鮪汁は、マグロのトロとネギを醤油で煮込んだ鍋物である。
江戸時代にはマグロも食されていたが、赤身を醤油に漬けたヅケが主な調理方で、醤油を弾く脂身が多いトロは廃棄されるか肥料に回される部位だった。
しかし庶民は捨てずにトロの部分も食していたのだ。
「すごいなー・・大トロ、中トロがタダ同然だもんねー」
思わずつぶやきが漏れる。
実は・・薫は江戸時代に来るまで(ネギトロ以外の)トロを食べたことが無かった。
実際食べてみると、あまりにも脂が乗り過ぎて、薫にとっては食欲が湧く材料でなかったが。
環は平成時代でも良く食べていたようだが、さほど好きではないようだ。
『脂っ濃すぎる』というのが理由だ。
だが葱鮪汁にすると、汁に脂が抜けてネギの香り付けもされるので、刺身よりは食が進む。
キノコとこんにゃくと豆腐を入れて煮込むと、けっこう豪華な鍋物である。
すると・・後ろから声をかけられた。
「今日の晩メシそれ?」
振り向くと、板の間に沖田が立っている。
「あ、はい。もうすぐ出来ますから」
薫が炊事場から見上げると、沖田がボソリとつぶやいた。
「胸焼けすんだよなー・・葱鮪汁食うと」
沖田は不服そうに眉を潜めている。
もともと脂っ濃すぎる食べ物はニガテなのだ。
「え?」
薫が困った声を出す。
(沖田さん・・口がコドモなんだよねー)
「じゃ、お茶漬けでも出しましょうか」
薫の提案に、沖田がさらに重ねて訊いてきた。
「ナニ茶漬け?」
「ナニ茶漬けって・・」
(この上、さらに注文つける気?)
沖田のワガママに慣れてる薫でも、たまにイラッとする時がある。
「焼きおにぎりでお茶漬け作ってあげます。美味しいですよ」
薫が言い聞かせるように人差し指を立てると、沖田が首を傾げる。
「なんか分かんないけど・・それでいーや」
納得したのか、沖田はさっさと姿を消した。
「ったくもー」
薫が思わず息をつく。
(まぁでも・・平和でいいや。こーゆーの)
3
南部診療所では、環が解剖の説明を受けていた。
「今度、豚を解体する時、環ちゃんも見でみるが?」
南部の言葉に、環が顔を曇らせる。
学校の授業でカエルの解剖を行った時は平気の平左だったが、哺乳類となるとどうだか分からない。
おそらく内臓の造りなどは、かなりリアルだろう。
(・・吐いたらどうしよう)
環が黙ったままでいると、南部がニコニコと声をかけた。
「ま、無理にどは言わねがな」
「はい」
イエスともノーとも言えない返事を返す。
すると・・玄関の戸がガラガラと開いた。
「おっす、先生。いるかい」
大助である。
「おう、井上くん。なした?」
南部が背伸びして声をかけた。
「干し柿持ってきたぜー。先生、好きだろ」
大助は中に入って来ると、環の姿に目を止める。
「環ちゃん、来てたのか。ちょうど良かった」
環が振り返った姿勢で見上げると、大助が環の目の前に干し柿を突き出す。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
環が受け取ると、大助がニコニコ笑って言った。
「風邪ひいた時にゃあ、世話になったからな。こっちこそ、ありがとよ」
どストレートな感謝の言葉を聞いて、なんとなくくすぐったい心地になる。
大助は板の間に上がると、あぐらをかいて座り込んだ。
「元気そうだな」
南部が声をかけると、大助があぐらに両肘をつける。
「ああ・・少し体調に気をつけることにしたんだ」
「そりゃ、えがったな」
「もうゴメンだかんなー。ケツにブタの胃袋入れられるなんざ」
大助が腕を組んで首を曲げた。
「ブタの胃袋?」
環が怪訝な顔をすると、南部が答える。
「ああ、ながなが大助くんの熱下がんねぐてなー。寝る前に、豚の胃袋で尻の穴がら薬入れだんだ」
「座薬ですね」
環がアッサリ答えると、南部が少し驚いた顔をした。
「環ちゃん、座薬知っでんのが」
「は?・・はぁ」
環はコクリと頷く。
平成では超メジャーな投薬方法である。
「なんが・・環ちゃん、日本人どは思えねなー」
南部が言うと、大助が意味深な眼差しを向けてくる。
(どうしよ・・また余計なこと言っちゃったのかな)
環は本の影に顔を隠した。




