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第二百十六話 快気祝い


 不思議なことだが、薫は土方がぜんぜん怖くない。

 沖田が怒ると(一応)怖いのに、土方が怒ってもぜんぜん平気だ。


 今も・・不機嫌になった土方を、薫はぼんやり眺めてるだけだ。

 鼻白んだように土方がプイッと踵を返すと、ちょっと拍子抜けしてしまった。


 (行っちゃった・・)

 自分で怒らせておいてザンネンがっている。


 部屋に戻ろうと道場の前を横切ると、野太い掛け声が聞こえてきた。

 「よぉぉーしっ!!バチ来ぉーいっ!!!」


 戸の隙間から覗くと、ゴローたちが体術の訓練中だった。


 (あ、ゴローママだ)

 すでに呼び方が変わっている。


 薫と炊事場にいる時とは全く違う勇姿である。


 すると・・戸の隙間から顔を出している薫にゴローが気付いた。

 「あら、薫~。どうしたのよ」


 戸の方に歩いて来ると、薫の前にしゃがみこむ。


 「ちょっと、ゴローママの声が聞こえたから」

 薫がテレ臭そうに答えると、ゴローが眉をひそめた。

 「ゴローまま?なによ、それ。おまんまのこと?」


 「違う。う~ん、と・・ママってゆうのは、お母さんとか女将さんのことだよ」

 薫が見上げると、ゴローが目を開く。

 「へぇー・・ま、悪くないわね」


 「土方さん、いないよね」

 薫は道場の中をキョロキョロ見渡した。


 「トシ様?いないわよ~」

 ゴローはつまらなそうに首を振る。

 「どうかしたの?」


 「さっき怒らせたから」

 「なにしたのよ?」


 「・・なにも。勝手にプリプリしちゃって」

 薫は悪びれていない。


 「ダメよぉ~。トシ様、このところゴキゲンナナメなんだから」

 「いつもナナメだけどね」


 すると、突然ゴローが声を上げた。

 「あ、トシ様だわ~」


 振り向くと、当の土方が道場に向かって歩いて来た。


 ゴローの声に気付いたのか、顔を上げるとすぐに足を止める。

 クルリと180度方向転換して、元来た方に戻って行った。


 「あ~ん、もぉぉ~っ!」

 ゴローが悔しそうに立ち上がる。


 (前から思ってたけど・・土方さんって、ゴローママのこと意識してるのかな?)

 薫のズレた妄想を土方が聞いたら、今度こそ怒髪天を衝くだろう。






 伊東たちが九州に行ってる間、伊東一派の屯所残留組が、篠原を中心に新選組から離脱するための活動を活発化させていた。


 正当な理由なく隊を抜けると局中法度に触れるので、大義名分を掲げて離隊するしかない。

 近藤と土方に否と言わせないためには、新選組が絶対に逆らえない人物からの口添えを取り付ける必要がある。


 実際・・篠原は武芸精妙というだけでなく、人脈作りにも長けていた。

 この日も時間をみつけては色々な人物に逢いに出向き、離隊のための青写真を描いていた。


 屯所に戻って来た時、ちょうど出かけるところだったシンとすれ違う。

 シンがペコリと頭を下げると、篠原が肩に手を置いた。


 「にしゃ・・こげなとこおってもどうもならんたい」

 ボソリと低い声を出す。

 「ねまっとるけんね」


 「は?」

 シンが思わず訊き返した。


 この頃、監察方は山崎が不在のため、島田と川島と篠原が中心になって動いていた。


 シンも仕事上、篠原とはそれなりにカラミはあるが、深い話はしたことがない。

 とゆうより・・篠原の訛りがキツいのでマダラにしか理解できないというのが正解だ。


 「・・なんて?」

 突然、前置き無しで話しかけられたので驚いている。

 (7割方、聞き取れねぇし)


 「こぎゃんとこで、えずい気ぃでおってもしゃあないけん」

 篠原は立ち止まって、背の高いシンを見上げた。

 「幕府はもうこっぱげとうよ」


 シンは黙っている。


 「見とんしゃい」

 そう言って、篠原が門から出て行った。


 後ろ姿を見送りながら篠原の言葉を反芻してみる。

 (訂正・・9割方、聞き取れねぇ)


 シンは息をついて首を傾げた。

 以前、伊東から唐突に話しかけられたことを思い出す。


 (オレ、ひょっとして勧誘されてんのかなー?・・あっち側に)

 ボリボリと頭を掻いた。


 だが・・御陵衛士の発足は油小路の変につながっていく。

 伊東が惨殺される・・あの悲劇に。


 (先のこと知ってるって・・サイアクかもな)

 知っていることを口に出せない、どうにもならない葛藤は、いつもシンの心を重くする。






 体調が戻った大助は、祇園の『山絹』に来ていた。

 職場復帰した途端、同僚から快気祝いに連れて来られたのだ。


 単に飲みたい連中の集まりなのだが、建前は大助が主役なので、呼びたい芸娘を事前にリサーチされた。


 そして今・・大助の隣りには月乃が座っている。

 大助の腕につかまるようにして、身体をもたせていた。


 呑みの席なので酌をすべきだが、月乃は嬉しさからか逃がすまいとしてなのか大助の袖を掴んで放さない。


 厠に立とうとすると一緒に後ろについて来る。

 正直・・たまったものじゃない。


 大助が月乃を呼んだのは、純粋に約束を果たすためである。

 負けたら床入りという賭けのツケを払うためだ。


 座敷での呑めや歌えが終わって、各自選んだ女と部屋にシケこむ。

 大助の相方はもちろん月乃だ。


 床入り部屋で、緋無垢に着替えた月乃が大助が来るのを不安気な顔つきで待っていた。

 襖を開けて大助が部屋に入ると、月乃がすぐに立ち上がる。


 「ダイスケはん!」

 相変わらずの大胆さで大助の胸にタックル。


 大助はため息をついて、月乃の髪に手を置いた。


 「うれしぃ~!」

 若干、むせび泣いてるような声だ。


 「あー・・」

 大助は困り顔だ。


 月乃がうるんだ目で大助の顔を見上げる。


 「月乃・・」

 「ダイスケはん」

 月乃がゆっくり目をつむる。


 それを見下ろしながら、大助がつぶやいた。

 「すまねぇ」


 「え?」

 月乃が目を開ける。


 「玉代(ぎょくだい)は払える分だけ置いてくから・・それで花札負けた分チャラにしてくんねぇか?」

 大助の淡々とした声が部屋に響いた。


 「え?」

 月乃の顔から表情が消える。


 「オレは祇園に通うような甲斐性はねぇ。おめぇが執心するようなオトコじゃねぇってこった」

 子どもに言い聞かせるような優しげな声だ。


 大助に抱き付いていた月乃の腕から力が抜ける。

 身体を離すと放心したように立った。


 「うっ・・ふっ・・」

 蝋燭の灯りに照らされた月乃の頬に、大粒の涙が伝い落ちる。


 「月乃・・」

 女の涙に負けてはいけない。

 大助は・・必死に自分自身を鼓舞していた。





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