第二百十二話 沙盆
1
「沙盆(シャボン)?」
南部が訊き返すと、環が頷く。
「はい。ご覧になったことありませんか?」
南部はシケッた煎餅を、さも不味そうに食べながら答えた。
「ある。長崎でな」
「長崎?」
「んだ。医学伝習所にいだ時、何回が使わせでもらっだごどある」
「医学・・伝習所?」
環は首を傾げた。
長崎奉行所西役所医学伝習所、長崎養生所のことである。
日本最初の西洋式近代病院であり、オランダ人医師ポンペの進言で幕府が設置。
明治に長崎府医学校病院と改称し、長崎医科大学(長崎大学医学部)の源になった。
「使ったのは2~3回だったな。貴重品だもんで、おいそれどぁ、触れねがったがら」
南部はその頃を思い出すような表情だ。
(そんなに貴重品なんだ・・)
環はため息をついた。
やっぱり石鹸造りは諦めるしかないのかもしれない。
「けんど、むがぁし宇田川っちゅう医者が沙盆どご作っだって話だ」
南部は、どっこいしょという感じで座り直す。
「医者が?」
(やっぱり石鹸って医療品なのかな?)
「んだ。けど、それらしぎもんだったってぐれぇだ。長崎で使わせでもらっだなぁ、動物の脂と海草灰で作っだもんだっで聞いだな」
南部が腕を組んでほんの少し首を傾げた。
「・・・」
ハァーッと環が深いため息をつく。
平成時代だったら簡単に出来ることが、江戸時代では相当に努力をしても難しいということがとにかく多い。
それがつくづくと身に染みた。
(ある意味、この時代の人ってスゴイかも・・)
すると・・玄関がガラリと開いた。
「よぉ、先生いるかい?」
振り向くと、フラリと入って来たのは大助だった。
2
「おう、大助くん。今日はなした?」
南部が手を上げると、大助が奥に入って来る。
「あれ?環ちゃんも来てたのかい」
大助が話しかけると、環が身体をズラして席を譲った。
「お、悪ぃね」
言いながら、あぐらをかく。
「・・ちょっと風邪気味でな。薬もらおうと思って」
見ると・・大助は頬に赤味が差して、肩もグッタリ下がっている。
かなりダルそうだ。
「まんず、診察しでがらだな」
南部が立ち上がる。
大助について来るように促すと、奥の診察室の襖を開けた。
大助も立ち上がるが、息使いが早い。
(井上さん・・熱が出てるんじゃない?)
心配そうに見上げる環の視線に気づいた大助が、背中を丸めたままで笑った。
「大丈夫ですか?」
環が膝立ちして手を貸そうとすると、大助がすぐに背を伸ばす。
「ヨユー・・ってゆーか、環ちゃんにつかまったりしたら、屯所の野郎どもからオレがシメられる」
ノッソリした足取りで、大助が奥の座敷に入った。
しばらくすると・・
「大助くん、熱あるな」
南部の声が漏れ聞こえる。
「はい、アーン」
環は襖の前に座った。
「あら」
また南部の声だ。
「喉真っ赤だな、こりゃ」
(どうやら風邪みたい・・インフルエンザじゃなきゃいいけど)
心配で、つい耳をそばだててしまう。
幕末にはすでにインフルエンザの名称は蘭学者によってもたらされており、流行性感冒と訳された。
すると突然、襖が開いて、環がギョッと顔を上げた。
「お、なんだ?環ちゃん。こんたどごさ座って」
襖の真ん前にいる環を見て、南部が立ち止まる。
「いえ、あの・・その・・なにか手伝うこと無いかなって」
(なんか・・盗み聞きしてるみたい)
3
「葛根湯用意してけるが?地竜も」
南部に指示されて、環が奥に並んだ瓶の中から漢方薬を数種類取り出す。
桂枝湯(桂枝・芍薬・生姜・大棗・甘草)に葛根・麻黄を加えたものが葛根湯である。
それらを丁寧に並べて、順番に適量をすりつぶす。
南部は蘭方医だが、内科(ほんどう)に関しては漢方医療を上手く取り入れていた。
「井上さん、やっぱり風邪ですか?」
「ああ、2~3日こごさ置いどくべ」
「え?」
「風邪ひいで戻っだって、奉行所の方で迷惑だべ」
「はぁ」
(つまり入院させるってことかな?大事を取って)
環がゴリゴリと生薬を擦っていると、玄関の戸が開いた。
「ただいま戻りましたぁ」
買い物に出ていたミツである。
土間にならんだ草履に目をやった。
「お客はんどすか?」
「ああ、おミツちゃん。おかえり」
南部が顔を上げる。
「大助くんがどうやら風邪ひぎでな」
「井上はんが?」
駕籠に入れた野菜を置いて、ミツが板の間に上がった。
大助の容態が気になるのか、奥の診察室の襖に手をかけて中を覗く。
「きゃっ」
ミツが声を上げて飛び退いた。
襖の向こうで、背の高い大助が桟に手をかけて立っていた。
ひどい顔色をしている。
「井上さん?」
環が思わず立ち上がる。
「ダメです、寝てなきゃ」
環がミツの隣りに並んで襖を全開にした。
「オレぁもう帰ぇる」
大助が襖をくぐろうとするのを、環とミツが押し戻す。
「ダメですって」
「井上はん、無理したらあきまへん」
「ダイジョーブだって・・」
無理矢理、前に出ようとする大助の足元がヨロめいた。
頭からユラリと前に倒れ込む。
「ちょっ」
「きゃっ」
ドスンッ・・
環とミツを下敷きに、畳の上に大の字になってしまった。
「大助くん・・」
南部がしゃがみこむ。
「いぐら病人だっつってもな、やっていいごどど悪ぃごとあるべ」
「・・違うって、先生・・押し倒したんじゃねぇよ、誤解だって」
虫の息で・・大助が己の潔白を主張していた。




