第二百八話 茜屋
1
その後、なかなか屯所にいない伊東をみつけて、洗い物屋の場所を教えてもらえたのは、それから一週間後だった。
「ここだよ」
伊東が案内してくれたのは、意外にも屯所からほど近い町角の、小さな店構えの古い建物だ。
「ごめんよ」
伊東が『茜屋』と書かれたのれんをくぐると、奥から声がかえってくる。
「はーい、いらっしゃいませ」
現れたのは、クリクリした眼の可愛い男の子だった。
「あれぇ、伊東さん。おひさしぶり~」
やけに明るい口調でノリが良い。
「茜ちゃん、元気そうだね。商売繁昌かい?」
伊東が袖に腕を入れて、にこやかに訊いた。
(アカネちゃん?)
女の子みたいな呼び名に環が驚く。
「ぼちぼちでんなぁ~・・なーんちゃって」
茜と呼ばれた男の子が、環の方を見た。
「あれぇ、伊東さん。今日は随分と可愛い彼女連れてるね」
「いやぁ~、彼女だなんて。テレるね」
伊東が相好を崩すと、隣りの環が眉間にシワを寄せる。
(・・誰が彼女だって?)
「わたし、伊東さんの彼女じゃありません」
愛想もクソも無い口調で環がボソリとつぶやくと、茜が驚いた顔で大きな目をさらに見開いた。
「あれぇ、伊東さん。フラれちゃったねー」
伊東はわざとらしく肩をすくめると、冗談混じりに答える。
「そーなんだ。片思いなんだよ、僕の。淋しいよねー」
冗談でも、あまりの寒さに環は一瞬ゾワッとした。
(やめてよね・・)
「茜ちゃん。このコ、環ちゃんっていうんだけど。シャボンのことを知りたいらしい。なにか知ってたら教えてあげてくれないか」
伊東の言葉を聞いて、茜が小声で訊き返した。
「シャボン?」
「ああ」
伊東が頷くと、環が言葉を続ける。
「シャボンとかセッケンとか、聞いたことありませんか?」
「・・あるけど、貴重品過ぎて生は見たことないよ」
茜は興味深そうに環の方を見た。
「そ、そうですか・・」
環はガックリと肩を落とす。
(やっぱり・・貴重品なんだぁ~)
2
「どうする?環ちゃん」
伊東が声をかけてきた。
「僕は旅の仕度があるから、もう屯所に戻らないと」
「伊東さん、どこかにご旅行ですか?」
茜が訊くと、伊東が顔を上げる。
「仕事だよ。久留米にね」
「へぇー、えらい長旅ですね。お気をつけて」
茜の言葉を聞いて、伊東が頷いて踵を返した。
「邪魔したね」
伊東に続いて環もペコリとお辞儀をすると、茜の声が追いかけて来る。
「シャボンを探してどうするの?」
「どうって・・自分で作ってみようかと思って」
振り返った環が答えると、茜が面白いものを見る顔つきで笑った。
「自分でぇ?そりゃすごいけど・・作ってどうするの?」
「そりゃ・・身体の汚れとか傷口とか色々・・キレイに洗えればいいなって」
環が素直に答えると、茜が首を傾げる。
「シャボンじゃなくても、洗えるものあるけど」
「炭とかですか?」
環が肩をすくめると、茜が首を振った。
「ムクロジの実やサイカチのさやを使うと、汚れがキレイに落ちる」
環が足を止めると、前に立っていた伊東が困ったような顔をした。
「環ちゃん。悪いが先に戻ってもいいかい?」
「あ、はい。大丈夫です。一人で」
ここは屯所から近いので、一人でも帰りに襲われることは無いだろう。
伊東がいなくなると、環は茜に手招きされて、狭い店の奥に入った。
様々な瓶が所狭しと棚に並んでいる。
そのうちの一つに茜が手を伸ばした。
幼いコドモのような顔だちに反して、意外に茜は背丈がある。
「ホラ、見てみて」
茜が瓶の蓋を開けて、中から丸い果実を1つ取り出した。
3
「手ぇ出して」
カーキ色の実の中にある黒い種を指で押し出すと、残った果皮を環の手の平に載せて、さらに水をつけた。
「両手でこすって」
やってみると・・手の平に白い泡が立ち、まるで石鹸で洗ったような洗い上がりだ。
「これ・・」
環が驚くと、隣りで茜がニコニコ笑っている。
「これはムクロジの実だよ」
環は自分の手の平をマジマジとみつめた。
(泡が立つってことは、サポニンが豊富に入ってるってことだよね)
サポニンは、天然の界面活性剤である。
その後、色々な汚れ落としの技術を、茜は惜しむことなく環に教えてくれた。
「ありがとう。すっごい勉強になりましたー」
環は、ムクロジの実を入れた小瓶を手に持っている。
茜が譲ってくれたのだ。
「どういたしまして。でも、タダは今日だけだよ。次からはちゃんと注文ちょうだいね」
茜が笑いかけると、自然に環も笑顔を返す。
「分かってます。屯所に戻ったら頼んでみますね」
「まいどあり」
茜に見送られ、環が玄関から出ようとすると、後ろから声をかけられた。
「さっきシャボンって言ってたけどさ。多分それ・・洗い物屋の範疇じゃないよ」
茜は優しく笑っている。
「医療品だと思う」
「医療品・・?」
意外な盲点で、環は驚いた。
(そっか・・そう言えばそうかも)
衛生や消毒に一番身近な職業は医療分野である。
「ありがとう」
(良い事聞いちゃったー)
環がいなくなると、店の一番奥から茜ではない男の声がした。
「茜ちゃん、相変わらず女の子と友達になるの上手いね」
棚の影から出て来たのは・・一二三(ひふみ)だ。
「オレ、警戒心抱かせないもーん。拾門(ひろと)みたいに、ね」
茜が後ろを向くと、影からもう一人男が出て来た。
「ふん・・警戒心抱かせねぇなんて、男じゃねーよ」
拾門である。




