第二百七話 年が変わって
1
賭ケノ貸シ、イツ、オ支払イタダケマッカ
オ約束果タシテイタダキタク筆トリマシタンエ
オ返事オ待チ申シアゲトリマス 月乃
「・・督促状?」
沖田がつぶやく。
大助が横を向いてため息をついた。
実は・・あれきり大助は祇園に足を運んでいない。
避けてるわけではないが、呑みに行く機会が無いのと、わざわざ足を運ぶ気力が無いせいだ。
それに・・月乃と床入り部屋で二人きりになったら、次は手を出さずにいられる自信が無い。
女性不信でも身体は普通の男子なのだ。
大助は同じ女と重ねて枕を共にすることはしないと決めている。
「その文(ふみ)のおかげで上から呼び出し食らうし・・踏んだり蹴ったりだぜ。ったく」
大助が困り顔でつぶやく。
奉行所に届く文書は私文・公文を問わず全て検閲される。
役人宛ての個人的な文も当然、上の方で目を通している。
「オレが賭場に出入りして、借金で首回んねぇって噂になってるし」
どうやら完全に誤解されてるらしい。
大助が息をついた。
「普通、遊女が客にこんな文出すか?」
姉貴分の初音が普通の遊女じゃないので、妹分の月乃もそれに習ってしまうらしい。
月乃は大助が好きなので、おそらくは一生懸命書いたものだろうが、初音の指導の賜物で、こういった脅迫的な文面になっているのだろう。
「まぁ・・珍しっちゃ珍しいけど、おもしれぇんじゃねーの」
沖田は他人事なので、クスクス笑っている。
「・・なにがおもしれーんだよ、ったく」
大助は忌々しく横を向く。
「お楽しみのツケってやつだ」
沖田が文を畳んで、大助の前に置いた。
「借りたもんは返さねぇとな」
2
翌日、薫は年が変わってから初めて菱六に行った。
「あけましておめでとうございます」
「おめでとうさん」
「薫ちゃん、久しぶりやな」
薫は菱六の職人さん達と顔馴染みになっている。
声が聞こえたのか、奥から七郎(ななお)が顔を出した。
「おう、薫やないか。おめでとうさん」
挨拶しながら土間に降りて来る。
「あけましておめでとう。早速だけど、美味しいお屠蘇の作り方教えて欲しいんだけど」
挨拶もそこそこ、薫はいきなり本題に入った。
「お屠蘇?」
「うん」
「なんや・・今度は酒かいな。簡単やで、お屠蘇作んのなんか」
七郎が腕まくりする。
ファァ~と欠伸しながら、首をコキコキと鳴らした。
「どしたの?寝不足?」
「あん?そや・・ゆんべ若旦はんの御好意で、職人みんなで祇園に飲みに行ったんや。天皇はんも即位したしな、お祝いや」
七郎は少し目が赤くなっている。
「お酒臭い。・・呑んだの?」
「おう」
「ええ~」
意外だ。
七郎は年若い上に童顔なので、お酒を嗜むようには見えない。
「当たり前やないか。麹屋の職人が酒呑めんわけないやろ」
「あっ・・そっか」
「しっかし、祇園の芸娘はやっぱちゃうわ。天女みたいやったなぁ」
七郎がホワンとした顔でつぶやく。
「芸娘さん?」
「ああ。若旦はん気に入りの初音はんも凄い別嬪やったけど。妹分の月乃ゆう娘が・・それこそ月から舞い降りたみたいな可愛らしいコやったんや」
「初音・・月乃・・」
(どっかで聞いたよーな・・)
薫は首を傾げていたが、突如、思い出したようにつぶやいた。
「あ・・湯屋で会った2人」
「なんや?」
七郎が不思議そうに訊くと、薫が口籠る。
「う、ううん。なんでもない」
(月乃さんって・・井上さんに全力で抱き付いてた人だよね)
3
環の方も、年が明けて初めて南部診療所に行った。
「あけましておめでとうございまーす」
環が挨拶しながら戸を開けると、奥に座っていた南部が立ち上がって迎えに出て来る。
「おう、環ちゃん。なんがひさしぶりじゃなぁ。あけましておめでとう」
南部の後について奥に入ると、座敷のいたるところに本が散らばっている。
足の踏み場も無い状態だ。
「先生、どうしたんですか?」
「いや・・どうせ正月中やるごどもねしな。ずっと本読んでらったんだ」
見ると、どうやらほとんど医学書のようだった。
環も江戸時代の文字はかなり読めるようになっているが、さすがに専門書は難し過ぎる。
「あ」
一冊の本に目を止めた。
手に取ってみる。
タイトルは『貝原養生訓』
(※貝原益軒『養生訓』/全八巻)
この本は、雨宮の父の書斎にも原書が置かれていた。
医学書というより人生の指南書なのだが、身体の養生の他に心の養生が必要であることが説かれてある。
江戸時代の医者と平成時代の医者が、同じ本から吸収していることがあるのだ。
環がパラパラとめくってみると、南部が声をかけてきた。
「なんじゃ、環ちゃん。いがったら持っでっで読んでみるが?」
「いえ」
環は困ったように笑った。
(原書じゃ・・さすがに読めない)
実は、口語訳された現代版は図書館から借りて読んだことがあった。
おおまかな内容は知っているが、かなり噛み砕かれて初心者向けにリニュアルされたものだった。
(もっと漢文や古文の勉強しとけば良かったなー)
小さく息をつく。
「んだなぁ。んじゃオレが少しずつおせでぐが(教えていくか)」
南部がニコニコ笑いながら提案した。
環は顔を上げると、コクリと頷く。
「はい」
(南部先生って・・なんだかちょっと雨宮のお父さんに似てるなぁ)




