第百八十五話 天皇崩御
1
12月5日
一橋慶喜が正式に15代将軍に就任した。
徳川幕府最後の征夷大将軍である。
『切れ者』『怜悧』と名高い慶喜公が将軍職を拝命することは、攘夷派の公家や武士に少なからず脅威を与えた。
慶喜は就任直後から精力的に外国の公使と接触を図り、国の外交権は幕府にあるとした。
12月11日
朝廷で事件が起きる。
孝明天皇が高熱を出し、症状は天然痘とのこと。
容保候に信頼を寄せている孝明天皇が病に倒れたとあって、黒谷でも連日の祈祷が行われていた。
ご典医たちの治療の甲斐もあって1週間もすると熱が下がり始め、膿も出て順調な回復を見せていた。
ところが・・安心していた矢先、突如、容体が急変。
12月25日
孝明天皇死去。
激しい痛みを訴え嘔吐を繰り返し、九穴から出血しての凄まじい死に様だった。
12月29日
天皇崩御の公布。
慶喜が将軍に就任した時期に、孝明天皇が死去するのは余りにタイミングが良すぎるということで、朝廷内を始め、各所で「孝明天皇暗殺説」が実しやかに囁かれた。
天皇は和宮を家茂に降嫁させた根っからの佐幕派である。
長州を始めとする倒幕派にとって、孝明天皇は邪魔者以外の何者でもない。
天皇は書き物をする時に筆を舐める癖があり、毒殺説が多く出回った。
お食事は全て毒見係の検閲済だが、さすがに筆までは調べないだろうということである。
憶測が憶測を呼び、色々な名が犯人説に浮かび上がっていた。
「・・いったいどうなるんだ、これから」
永倉がつぶやく。
部屋には幹部が揃っている。
「長州側が邪魔な孝明天皇を暗殺したって噂だなぁー」
「原田くん!」
即座に伊東がたしなめる。
「めったな事を言うものじゃない」
伊東は手が震え、顔が青ざめている。
土方は黙ったままだ。
冗談で言ったことが、まさか本当になったのか?
天皇暗殺など、この日の本でそんなことが出来るというのか。
疑惑の真相は掴めないまま・・佐幕派だった天皇の死で、幕府の命運は大きく変わることになる。
鳥羽伏見を始めとする戊辰戦争の火蓋は、孝明天皇が生きていれば、あるいは起きなかったかもしれない。
明治維新は孝明天皇の死が決定づけたと言える。
そして・・天皇の死は、新選組のこれからを大きく左右することになる。
2
(孝明天皇暗殺説か・・真相は闇の中だな)
シンは部屋の中に寝転がって、手を頭の後ろで組んでいる。
歴史ミステリーサイトでも取り上げられるこの話題は、特に決め手となる証拠もなく、あくまで噂や憶測の域を超えない。
実際、大の外国嫌いの孝明天皇は種痘を受けていなかったと思われるし、痘瘡に罹患しても不思議ではない。
一度回復したというのはご典医が言ってるだけで、事実かどうかも分からない。
(ま・・いくらなんでも天皇暗殺なんて、日本人だったら出来ないと思うけどな)
だが、シンは(後の)新政府軍のやり方が好きじゃない。
勝ち方もだが・・なにより戦後処理がヒドかった。
旧体制を脱却するには古いものを壊すしかないのは当然だが、やり方がいただけない。
おまけに・・明治政府になってから日本が国際社会にデビューしてやらかしたことは、殊更いただけない。
国際間の傷は、シンのいた時代になってもまだ遺恨を残している。
『日清戦争と日露戦争に勝ったのが、良かったのか悪かったのか』
赤城教授の台詞を思い出す。
『確かに、明治の時代は・・世界中が群雄割拠の戦国時代だったんだが』
豆粒のような国土の島国日本が、眠れる獅子と呼ばれる清や、広大な国土を有するロシアに勝利したのだ。
その後はイケイケドンドンの喧嘩吹っかけまくりで、狂気の沙汰だった。
『神風特攻なんて絶対にさせちゃいけないことだよ。常軌を逸している』
赤城はそんなことを言っていた。
原爆投下の原因が、降伏しなかった日本側にあるのか、核実験をしたがっていたアメリカ側にあるのか、いまだ意見が分かれているが、富国強兵による軍事国家の道を選んだのは明治政府だ。
(そう考えれば・・)
今いるのが幕府側なのは、まぁまだ良かったのかもしれない。
大負けするは分かってるが、なんとなく好きになれない勝ち組の新政府軍にいるより自己嫌悪が少なくて済む。
「ま・・オレには、佐幕も倒幕もカンケーねーけど」
独り言が漏れる。
シンの頭にあるのは、戦時下に入った時、薫と環をどうやって守っていくかということだ。
その為には、強くならなくてはいけない。
剣の腕はかなり上がってるが、実戦でやりあったことはない。
ショックガンは、人目があるところでは使えない。
寝転がったまま、額に手をあてて目を瞑る。
(オレは・・イザとなったら、人を殺すことが出来るのか?)
3
薫と環は、年の暮れの準備に追われていた。
大晦日、隊士は恵方参りの人で賑わう神社の警備に当たる。
去年と同じく、夜の巡察前にみんなで年越し蕎麦を食べることになった。
「おまたせしました!」
薫と環が用意したのは、わんこ蕎麦並にシンプルなかけ蕎麦である。
具はネギだけで、薬味のワサビを少しだけドンブリの淵につけた。
"年越し蕎麦はカンタンでいいでしょー"のスタンスである。
それに、天皇が亡くなってから屯所内も喪に服しているため、肉料理は一切出していない。
ズルズルと音を立てながら、みんなで蕎麦をすする。
「ごっつぉーさん」
5秒フラット。
永倉と原田が食い終わっって、カランと箸を投げる。
(ホラね・・手間ヒマかけてたらバカみたいだもん)
薫と環は横目で見ている。
「ごっつぉーさん」
「オレも」
「あー、食った」
そうこうしてるうちに、男達のドンブリはどんどんカラになっていく。
沖田も食べ終わって爪楊枝をくわえると、食べてるのは薫と環の2人だけになった。
「天皇が死んですぐ年末じゃ、ヒキコモリも増えるわなー」
永倉が手を後ろについて、天井を見上げる。
去年に比べて、神社に参る人の数はかなり少ない。
「ま・・おかげさまで、事件も起きそうにねぇけどな」
原田の言葉に、土方が口を挟む。
「すでに攘夷派の動きが活発になってるらしい」
孝明天皇崩御の直後から、朝廷内で長州寄りの公卿達が動きを見せている。
「・・ふーん」
沖田が首を傾げる。
「年明けたら、すぐ次の天皇が即位するのかなー?」
「だろ。そしたらまた、玉(ぎょく)の奪い合いだぜ。将棋みてぇなもんだな」
斎藤が言った玉とは、もちろん天皇のことである。
「天皇陛下は、日本一のモテ男だなー」
原田が薄笑いを浮かべる。
「あっちこっちから袖引っ張られて、もう辛抱たまらんって感じ?」
「左之さん、天皇陛下を茶化すのは・・」
藤堂が思わず口を出す。
「ふん・・そーいや、伊東さんはどうした?」
「え?」
「今日は朝から出かけたっきりじゃねーの」
部屋中の視線が藤堂に集中した。
「さぁ・・オレも聞いてねぇよ」
「ふん・・二本松辺りで茶でも飲んでんじゃねぇのか?」
土方の言葉に、藤堂は黙ったままだ。
二本松には薩摩藩邸があるのだ。(※現・同志社大学)
藤堂は・・あぐらをかいた膝に手を置いて、畳の上に視線を落とした。
蕎麦を食べ終えた環が、隣りに座る藤堂の横顔をチラリと見る。
(どうしたんだろ?藤堂さん・・めずらしく難しいカオしてるけど)




