第百七十五話 制札
1
徳川家茂の崩御が、ひと月遅れで公にされた。
後継が決まっていないため、将軍不在の幕府になる。
「攘夷派の動きが活発になるだろう」
土方が息をつく。
広島の山崎から送られる報告も、幕軍の敗走ばかりだ。
「良順先生も大坂に行ったきりだな」
永倉の言葉に、土方が頷く。
「上の方もかなり混乱してるらしい」
近藤はこのところ屯所にいる時間がメッキリ減った。
黒谷での打合せが連日続いている。
「どうやら・・薩摩が長州に手を貸してるらしい」
土方の言葉を聞いても、誰も驚かない。
今年に入ってから、土佐の坂本を仲介として薩摩と長州に接触があることを、幕府側も掴んでいる。
しかし・・すでに同盟を成してるとまでは、知られていない。
それでも、薩摩が幕府に手の平を返したことは、誰もが察知していた。
「分からねーのが土佐藩だ」
土方が天井を仰ぐ。
土佐藩はもともと佐幕派が主流であり、幕府に対してあくまで恭順の姿勢を取っている。
しかし、藩の厳しい身分差別に対する不満が根強い。
土佐藩は、上士と郷士(下士)の身分差が激しく、日常的に理不尽な目に逢うことが多い。
そういった制度に対する不満が、土佐勤王党の魁となった。
(※土佐勤王党は、圧倒的に郷士の割合が多い)
旧体然とした体質に愛想を尽かし、脱藩したのが坂本龍馬や中岡慎太郎である。
土佐藩は、佐幕派と討幕派が互いにせめぎあっている。
そして・・この日から1週間後に事件が起きた。
鴨川にかかる三条大橋に掲げられた制札が、川に投げ捨てられた。
書かれていたのは「長州藩を朝敵とする」というものだ。
5日後に札は建て直されたが、その3日後、また鴨川に投げ捨てられた。
そのため・・新選組に札の警備が言い渡される。
[※制札とは:特定の相手や事柄を対象として制定された法令を記した掲示のこと]
2
「札の警備ねぇ」
原田がつぶやく。
「ああ」
土方が頷く。
「3ヶ所から包囲を固めて退路を断つ。足の速い斥候を置いて、すぐ詰所に報せるようにする」
「ふーん」
作戦としては悪くないが、原田は気乗りしない。
メンバーが・・なんとなく良くない。
「大石さんはまぁ・・しゃーねーが・・斥候が浅野さんか」
大石鍬次郎は、隊の中でも際立った剣術の持ち主で、近藤に対して従順な男だ。
人を斬ることに全く抵抗がなく、ひたすら黙々と隊務をこなす。
土方は暗殺や粛清の際に、無慈悲に対象を仕留めるこの大石をよく使っていた。
浅野薫は監察方だが医療班の仕事が主であり、度胸も無く剣の腕もいまひとつの凡庸な男である。
「それぞれ10人ずつ隊士を配置する。斥候は2人だ」
人海戦術である。
「現場の指揮はオメェが執れ、左之」
原田が息をつく。
正直・・大石のことは苦手だし、浅野はどーにも頼りないのだが・・仕方がない。
「まぁ、やってみるさ」
原田が立ち上がって部屋から出ようとすると、後ろから土方の声が追いかけて来た。
「必ず仕留めろ」
振り返ると、さらに土方が続ける。
「ただし殺すなよ。生け捕りにして捕縛するんだ」
「それ・・オレじゃなく、大石さんに言った方がいーんじゃねぇか?」
一言言って、部屋から出た。
その夜から、現場での張り込みが始まった。
日中は人目が多いので、犯行はいつも夜間に行われている。
張り込みの初日と翌日には、何も起きなかった。
しかし・・3日目の夜になって動きがあった。
三条大橋の西側に不審な人影が現れたのだ。
人数は8人。
周囲の様子を伺いながら、札場に近付いている。
乞食に扮して見張っていた斥候の橋本が、南側の先斗町会所で待機してる原田隊に報せに走った。
浅野はゴザを持った乞食姿のままで、ゆっくりと歩き出す。
東の荒物屋で待機してる大石に報せなくてはいけないのだが、相手とすれ違うのが怖くて逆方向に足が向く。
この時、すでに浅野は膝が震えていた。
先に橋本から報せを受けた原田が、隊を率いて現場に向かう。
すると・・侍姿の男達が8人、橋のそばに建てられた札を囲んでいた。
おもむろに、札の土台を数人で掴むと引き抜き始める。
「おい」
原田が声をかけると同時に槍を繰り出した。
3
現場はすぐ混戦状態になった。
一番困ったのは、灯りがほとんど無いことである。
深夜で、町の灯も無くなっていた。
原田たちが持っていた提灯は、乱闘が始まる前に路上に捨てられ、火は消えている。
頼れる視覚は月灯りだけだ。
生け捕りにするには周囲を取り囲むしかないが、人数が足りない。
(他の隊はどうしたんだ?)
忌々しく舌打ちしながら、原田が槍を振るう。
気のせいか、人数がさっきより減った気がする。
(・・抜けられてんのか?)
すると・・後ろから声がした。
「遅れてすまんなー、左之くん」
橋本から報せを受けて駆けつけた新井隊だった。
原田が振り向くと、新井から酒の匂いがプンプンする。
原田が思わずギョッとする。
「新井さん、あんたベロベロなんじゃねーか?」
(なんでこんな大酒呑みを、酒屋で待機なんかさせんだよ!)
「ダーイジョーブ、ダーイジョーブだって」
言いながら、酒臭い息のままで剣を振り上げる。
(すげぇな・・フラついてんのに、なんで剣使えんだ?)
原田が首を傾げる。
実は、そーゆー原田も・・待機の間に酒を呑んでいた。
ただ待ってるのが手持無沙汰で、下っ端に酒の使いをパシらせたのだ。
しかも・・けっこうグビグビ呑んだ。
それでも、槍を振るう手元は狂っていない。
新井もそうなのかもしれない。
ベロンベロンでも戦闘に影響無いのかもしれない。
「大石さんは?」
クルクルと槍を振り回しながら原田が訊くと、新井が笑いながら答える。
「怖くなって逃げたんじゃねーのかぁ?」
「まさか・・」
原田がつぶやく。
(あの人に限ってそれはねぇな)
病的な戦闘好きの大石が、乱闘を恐れるとは到底考えられない。
その通り。
怖くなって逃げ出したのは大石ではない。
斥候役の浅野だった。
見つからないよう遠回りしているうちに、途中で足がすくんで動けなくなってしまっていた。




