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第百六十九話 蕎麦屋


 「あの火事でな。こごら一帯も火の海じゃった」

 南部が開いた窓の方に目をやる。

 「戦が始まりゃケガ人が出るべっちゅうごっで、診療所に集まっでらっだども」


 環はあの日の黒煙を思い出していた。


 「したっけ・・とんでもねぇ大火事んなっでな。急いで避難したっけ・・安斎くん1人、火の中さ戻っでいっぢまっで」

 南部が目を伏せる。

 「子供どはぐれた母親が泣き叫んでんの見でなぁ、探しに行っでそれっぎり」


 大助が茶を飲もうとすると、もう湯呑がカラなのに気づく。

 するとミツが立ち上がった。

 「お茶、いまお持ちします」


 「ああ・・すまねぇ」

 大助のトーンが低い。


 「・・そうだったんですか」

 環も低くつぶやく。


 あの火事を思い出すと、今でも恐怖が蘇る。

 まさに・・阿鼻叫喚、生き地獄、そんな様相だった。


 「大助くんは、安斎くんど仲良がっだがらなぁ」

 南部の言葉に、大助が顔を上げる。

 「仲良いってよりか、オレがいっつも迷惑かけてただけだけど」


 「確がになぁ」

 南部が笑い出した。


 重苦しい空気が、少し抜けた。

 そこに、お茶を盆に載せたミツが入って来る。


 「井上はん、はい」

 「ありがとよ」

 大助が湯呑を受け取る。


 (安斎先生って、井上さんと仲が良かったのか・・辛かったろうな)

 環はボンヤリと大助の横顔を見た。


 すると、視線を感じたのか大助が環の方を向く。

 バッチリ目が合った。

 突然だったので目を反らすことが出来ず、そのまま固まってしまった。


 「・・環ちゃん?」

 大助が声をかけると、途端にカラダの力が抜ける。

 「は、はい。なんですか?」


 「・・いや、なんでもねぇ」

 大助は、環の過剰反応にややビビっている。


 (・・ダメだな、もっと自然にしなきゃ)

 環は心の中でモーレツに反省していた。





 診療所を後にして屯所に戻ると、すぐ炊事場に向かった。

 石鹸作りにトライするためだ。

 

 戸を開けると、先に薫が来ている。


 環に気付いて振り向いた。

 「あ、おかえり。環」

 薫が立ち上がって土間に降りて来る。


 「うん、ただいま」

 「早かったね」

 「お祭り期間だから、早めにって」


 見ると、薫は手にお椀を持っている。

 中には白いスプラッタ状の物体が入っていた。


 「・・どうしたの、それ」

 環が訊くと、薫はガックリとうなだれる。

 「ヨーグルトもどきっていうか・・まぁ上手くいかなかった試作品」

 要するに・・失敗作である。


 環が息をついた。

 「始めたばっかじゃない。そんなすぐ出来なくて当たり前だよ」


 「うん、分かってる」

 薫がポツリとつぶやく。


 環も炊事場の棚からお椀を取り出す。

 炭とこめ油を混ぜて練った石鹸もどき(以前)である。


 昔、雨宮の母が手作り石鹸を作るのを手伝ったことがあるが、劇薬である苛性ソーダを使うことをイヤがって、固形石鹸を溶かしてハーブやオイルを混ぜるという、しごく簡単なものだった。


 環の頭の中では、苛性ソーダを使わずに固形石鹸を作ることは難しいと考えている。

 「う~ん・・粘土とか混ぜてみようかな」

 細かくすりつぶした炭とこめ油を混ぜたものは、炭の粒と油が混ざらず分離している。


 環はふと思いついて、炊事場の棚じゃなく外の陽が当たるところにしばらく置いてみようと思った。

 石鹸作りの知識など持っていないので、もはや行き当たりバッタリの思いつきで試行錯誤を繰り返している。


 「あたし、明日も麹屋に行ってみるー」

 薫はまたヤル気を出したようだ。


 「うん、お互いアセらずに頑張ろ」

 環が笑いながら言うと、薫が大きく頷いた。


 



 宵山が終わって後祭りになると、新選組の巡察も一息ついた。


 「準備出来たか?」

 永倉が障子の前で声をかける。


 「あ、はーい」

 薫と環が部屋の中から返事すると、スラリと障子が開かれる。


 「よっしゃ、んじゃ行くか」

 「はーい」


 今日は、永倉が立ち食い蕎麦の屋台に連れて行ってくれることになっている。


 玄関から門の方に出ると、原田と沖田と斎藤と藤堂が普段着姿で待っていた。


 「おっせ」

 藤堂が腰に手をあてる。


 「すみませーん、ちょっと片付けに手間取って」

 環がやや小走りになる。


 「いーって、環。待たせときゃ」

 永倉は悠々と大股で歩いてくる。


 永倉を先頭に7人でゾロゾロと通りに出ると、町の人出はかなり落ち着いていた。


 「ここだ」

 永倉が足を止めたのは、屋台が並ぶ通りの立ち食い蕎麦屋の前だった。


 「親父、ソバ食いに来たぜー」

 どうやら馴染みらしい永倉がのれんをくぐると、気難しげな顔の店主がボソリとつぶやく。

 「・・当たり前や、ここ蕎麦屋やで」


 「今日は新八のオゴリだってよ」

 原田が言うと、永倉が腕を組む。

 「まー・・たまにソバくれぇならな」


 早速、注文を始める。


 「オレ、バリカタ」(藤堂)

 「オレ、ハリガネ」(斎藤)

 「オレぁ、コナオトシだ」(永倉)

 「オレぁ・・カタめでいーや」(原田)


 薫と環はよく分からないのでフツウを注文。

 沖田はバリヤワを注文した。(ジーサンか・・)


 「美味しい!」

 薫が思わず声を上げる。

 上品で透明な昆布出汁が良く効いている。


 「わたし、立ち食い蕎麦って初めて」

 環はけっこう嬉しそうだ。


 「オヤジ、替え玉」

 永倉と原田がのれんをくぐって、どんぶりを差し出す。


 「すんげぇ・・早食い」

 沖田がボソリとつぶやく。


 束の間の平和な時だった。



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