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第二百四十八話 菱六


 薫は、牛乳を煮詰めて表面に出来た膜を竹串で掬って新しい膜を作っている。

 蘇を精製する過程で一番長い工程だ。


 「薫、疲れたやろ。替わるわ」

 見習い職人の七郎(ななお)が鍋を覗き込んだ。


 「うん、さんきゅ・・じゃない。ありがと」

 薫が、どっこいしょ、と立ち上がる。


 不動堂村に移ってからは、以前のように頻繁に菱六に足を運ぶことが出来なくなっていた。

 今日は久しぶりに、市中見廻りにくっついて送り届けてもらったのだ。


 (相変わらず、色んなのがあって楽しいなぁ)

 薫はゴキゲンである。


 すると、後ろから声をかけられた。


 「薫ちゃん、これ飲んだってみてぇな」

 七郎の兄弟子が、薫の後ろでお椀を手にニコニコ笑っている。


 「あ、はい。ありがとうございます」

 薫が手を伸ばして受け取ると、お椀から白味噌の上品な香りが立ち昇っていた。


 黄白色の汁に淡い桜色が散っている。


 (うわ・・これ、すごい良いお味噌だ)


 ゆっくりお椀に口をつける。

 「・・おっ、おいしーっ!」


 庶民の味噌汁とはかけ離れた、本物の上質感。


 「桜白みそ汁や。西京白味噌のみそ汁に桜の塩漬けを載せとるんや。茶事や神事によぉ使われとるんやで」

 兄弟子は満足げに笑っている。


 「へぇ」

 薫は、ほぉっと息をついた。

 「屯所ではいつも赤だしだから・・こうゆう上品なお味噌汁は飲んだことないな」


 「ははは・・・今日は特別や。こない高い味噌はワシらも良ぅ口にでけへんわ。御新造はんがワシらに振舞もうてくれたんや」

 兄弟子の言葉を、薫が反芻する。

 「御新造さん?」


 「そや。三男(サンナン)はんの恋女房や。別嬪はんやでぇ」

 兄弟子の言葉に、薫が食いつく。

 「サンナンさん・・?」


 「うん?・・お、ちょうどお出ましや」

 兄弟子が顔を上げて、薫の背中越しに目をやった。


 七郎と兄弟子が一緒に頭を下げる。


 薫が慌てて振り向いた。

 (サンナンさんって・・)


 後ろの板の間に立っていたのは・・もちろん、山南敬助ではない。

 山南はとっくに死んでいる。


 (・・そうだよね)

 薫は肩の力が抜けた。


 兄弟子が三男(サンナン)と呼んだのは、綺麗に本多髷を結い上げた町人姿の若い男だった。

 薫が菱六に来た時に、何度か目にした男性である。


 (確か・・若旦那さんの弟さんって言ってたよね)


 いつも忙しく店の中を動き回っているその男は、薫にとっては軽く会釈をする以外に接点のない相手だった。


 (あれ・・)

 薫の目が大きく開く。

 (え?)


 三男の後ろに、淑やかに付き従ってるのは・・


 「・・お・・」


 (お・・おミツさん?)






 心の中で物凄くビックリしたが、なんとか声を上げずに立っていられた。


 薫を見ても、おミツの表情には変化はない。

 職人に会釈をしながら、三男に続いて目の前を通り過ぎる。


 薫はそのまま、後姿を見送った。

 (診療所辞めたって聞いたけど・・まさか菱六に)


 一瞬このまま帰ろうかと思ったが、今日は市中見廻りが戻ってくるまで菱六にいなくてはいけない。

 その場を離れようと勝手口に向かい、奥の蔵に続く渡り廊下に歩き出す。


 すると・・


 「あきまへん。そっちっかわは上の職人はん以外は入られまへんのや」


 制止の声を浴びて、慌てて振り返った。

 「すっ、スミマセン!ゴメンナサイ!ついフラフラしちゃ・・って」


 言葉が途切れる。

 「おミツさん・・」


 目を真ん丸にしている薫に、ミツがよそ行き顔で近付いた。

 「薫はん」


 「は、はい」

 思わず背筋が伸びる。


 すると・・ミツが深く頭を下げた。

 「いつぞやは、ほんま・・ありがとはんどした」


 「え・・え?」

 状況を飲み込めない。


 ミツは頭を下げたままで続ける。

 「壬生川に落ちた時・・助けてもろて。えろう迷惑かけて」


 「ちょっ・・やめてください、おミツさん」

 薫はパニック状態だ。


 他人様に頭を下げられるのは体質に合わない。

 「お願いですから」


 薫の懇願を聞いて、ミツがやっと頭を上げた。

 薫が肩でほぉーっと息をつく。


 ミツが困ったように小さく笑った。

 「ずっと気になってましたんえ。薫はんや、他にも・・助けてくれはった隊士の皆はん方に、詫び入れなアカンて」


 「おミツさん」

 ミツの義理堅さに感心してしまう。


 (ハッキリ言って、かなり前の話だし。礼だの詫びだのって・・誰もそんなの気にも留めてないって言ったら、怒るかな?)


 だが・・真剣な顔つきのミツを見て悟った。

 義理堅い相手には同じテンションで返すのが良い。


 「・・どういたしまして。おミツさん、お元気そうで何よりです」

 ニッコリ笑って応える。

 「菱六さんにいるなんて、ビックリしましたけど」


 「ウチも・・さっき薫はん見た時には、ひゃあ、ゆいそうになりましたわ」

 ミツがクスクス笑った。

 「新選組はんにぎょうさん卸しとるゆうんは聞いてましたんやけど」


 「ああ・・菱六さんの甘酒、屯所で大好評なんですよ。沖田さんなんて・・」

 言いかけて固まる。


 (ぐぁっ、地雷踏んだっ)


 すると・・


 「薫はん。ウチ沖田はんのことはもう忘れましたわ」

 ニッコリ笑うミツを、薫が驚いたように見た。

 「え?」


 「やっぱり女は想われてなんぼどすわ。ウチいまの旦那はんに大事にしてもろてますのや。ありがたいことどす。女の幸せがなんなんか、ようやっとか分かった気ぃしてますのや」

 女の幸せを強烈にアピールするミツに圧倒されている。

 「はぁ・・」


 「おせっかいやけんど・・薫はんも、はよええ人見っけて・・娘姿に戻りはった方がええんちゃいますのん」

 茶目っ気タップリに余計な一言を付け足すと、ペコリと会釈してミツは店の方に戻って行った。


 その時見えた横顔は・・少し悲しげに見えた。


 「おミツさん・・」

 残された薫は心の中でつぶやく。


 (お幸せに)






 屯所に戻ってから、夕餉の前に沖田の甘酒を作った。

 漢方薬入りなので、食前か食間に出すようにしている。 


 部屋に行くと、見廻りから戻った沖田が刀の手入れをしていた。


 開けっ放しの障子の前から声をかける。

 「甘酒持ってきました」


 「ああ」

 沖田は顔も上げない。


 部屋に入ってお盆を置くと、沖田の前に座った。

 「あの・・」


 「なんだ?」

 沖田が不振気に顔を上げる。


 「今日、麹屋の菱六さんに行ったら・・おミツさんがいたんです」

 薫の言葉に、沖田が訝しげな顔をした。

 「あ?」


 「若旦那の弟さんとケッコン・・じゃなくて、祝言を上げたんですって」

 続く言葉を聞いて、沖田が思わずつぶやく。

 「へぇ・・」


 「今は御新造さんって呼ばれてて、お店のこととか手伝ってるみたいです」

 薫がサラサラ続ける言葉を、沖田はアッサリ受け流した。

 「ふーん」


 「・・それだけですか?」

 薫が不満そうに訊くと、沖田がウンザリ息をつく。

 「なんだよ・・ったく、環といいオメェといい。良かったじゃねぇか、いいとこに嫁入り出来て」


 「そりゃあ、そうですけど・・」

 はなから期待する言葉を吐くとは思ってないが、やはり不満だった。


 「おミツさん、沖田さんのこと忘れたって・・今は幸せだって」

 ミツの言葉をそのまま伝える。


 「そりゃ益々良かったじゃねぇか」

 手入れを終えた刀を鞘に収めると、それで?とゆう顔つきで沖田が薫を見た。


 「・・もういいです」

 薫がスックと立ち上がる。


 部屋から出かかった薫に、沖田が声をかけた。

 「どんな男だ?」


 「え?」

 驚いて振り返る。


 沖田は肩膝を立てて、そっぽを向いていた。


 「あの・・職人さん達の話だと、真面目で働き者で、下の者にも優しいって」

 立ったままで答える。

 「見た感じも優しそうかな・・」


 薫の返事を聞いて、沖田は「へぇ」とつぶやくと、あぐらをかいた。

 「いい男じゃねぇか」


 声に安堵の響きが滲んでいる。


 (沖田さん・・)

 薫は、意外なものを見た気分だ。


 沖田が、お盆に乗った湯呑に面倒臭そうに手を伸ばす。


 一口飲むと、首を傾げた。

 「薄い・・」


 薫の表情が見る見る堅くなる。

 (いちいち文句多いんだって!)


 そのままプイッと廊下に出ると、立ち止まって空を見上げた。

 (おミツさんの言葉・・いつかホントになるといいな)





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