第二百二十九話 桂
1
長州藩、木戸準一郎。
(※以前は桂小五郎、後に木戸孝允と名乗る)
「維新の三傑」と後に称される長州藩のラスボス。
「いきなりサクッとそんなこと言わないでくれる~?」
茜がクスクス笑った。
「オレ、殺しはもうやんないよー」
「お前にしか出来ない」
木戸は淡々と言葉を続ける。
「おそらくな」
茜は薄笑いを浮かべた。
「なんで近藤じゃなくて土方なのよ?」
「・・アレを作ったのはヤツだ」
木戸が横を向く。
「アレねぇー。そんなに邪魔なら・・桂さん、自分でやればいんじゃないの?」
茜がクスクス笑った。
「ま、やるわけないかー」
木戸は直接手を汚すことはしない。
必要無いと考えているからだ。
卓越した剣術の才を持ちながら、道場稽古以外では一度も真剣を抜いたことが無い。
暗殺者や捕吏に対峙する時も、迎え撃つことはせず遁走する。
臆病なのではない。
チャンバラや小競り合いなどは、木戸にとっては命を捨てる場所ではないからだ。
逃げることが最善と判断すれば、敵前逃亡もへのカッパ。
近藤や土方などとは、根本的に計るものさしが違っている。
「まー、気が変わったらねー」
茜は笑いながら肩をすくめる。
「あまり待てない」
木戸の低い声が響く。
「今までは長州討伐の対応に追われていたが・・これからは京で動くことが多くなる。そのためには・・アレは邪魔だ」
「アレね。そう言えば・・池田屋の時って、桂さんどこにいたの?」
茜は薄笑いを浮かべた。
「オレは・・対馬藩邸にいた」
木戸は無表情だ。
「へぇ~・・池田屋から逃げ落ちて?」
茜はクスクス笑っている。
「・・・」
木戸はフィッと横を向いた。
「くだらん詮索に付き合う暇は無い」
「ふふ」
茜は笑って首をすくめる。
不思議だが・・茜が神経を逆撫でしても、木戸は茜を許容する。
2
4年前。
水戸や長州の過激派に雇われて、まだ少年の茜が江戸や横浜で幕吏の暗殺や夷人斬りをしていた頃、木戸(当時は桂姓)と出会った。
木戸は遠くから労わる目つきで茜を見ていたが・・止めることも諌めることもなかった。
派手好きで直情径行の高杉と違い、控えめで大人しやかだが、冷徹で計算高い木戸。
徹底した合理性は、生まれも育ちも正反対の茜とどこか似通っていた。
そのせいか、木戸は茜をなんとなく特別扱いしていた。
「そーだ。ついでに聞いちゃおー」
茜は面白そうに木戸の顔を覗き込む。
「孝明天皇ってさ、長州が殺したの?」
木戸は表情ひとつ動かさない。
「バカなことを言うな。天皇は天然痘(もがさ)で亡くなられたのだ」
「ふぅーん・・死んだ時の症状を聞くと、毒物中毒っぽいカンジだけどねー」
茜はアッケラカンとした口調で天井を見上げた。
「天皇の出血は痘瘡の末期症状だと聞いている」
木戸は淡々としている。
「ふぅーん・・桂さんが言うなら・・そうなんだろーね」
茜は首をすくめた。
桂は安いウソはつかない。
言いたくなければ、沈黙を守るだけだ。
「とにかく・・殺しはもうやんないよー」
茜がフィッと横を向く。
「・・ダルいもん」
木戸は無言で立ち上がると、茜のすぐ前に片膝をついた。
「中村では、お前を使うことは出来ない。・・戻って来い、茜」
「やーだよ」
茜が木戸を見上げる。
木戸が茜の耳元でつぶやいた。
「お前が棲めるのは、真っ黒な夜の池だけだ。・・月がうつる」
3
屯所の病室で、環はひとりで鍋をかき混ぜている。
飽きもせず石鹸作りに挑戦中。
「ううう・・」
唸り声を上げると、手を休めて二の腕を揉む。
ぶっ通しで撹拌していると、筋肉痛で腕が上がらなくなってくる。
「ふぅーっ」
息をついて天井を見上げる。
(南部先生は・・海草灰と動物の油でシャボンが作られたって言ってたよね)
目の前の鉄鍋に目を落とす。
(ってことは・・理論上は、そんなにズレてないような気がするんだけどなー)
環は石鹸作りのレシピを持ってない。
なので、ひたすら試行錯誤の繰り返しだ。
苛性ソーダは強アルカリ、アンモニア水は弱アルカリ。
アルカリ性はタンパク質の結合を分解する性質を持っている。
そして、強アルカリは強力な化学反応を起こす。
・・の筈だが。
灰を漬け込んだ水に油を混ぜて鍋にかけて煮詰めても、全く鹸化せず液体と固体で分離したままだ。
「うー・・うがーっ!」
環はいきなり立ち上がった。
余りのストレスで、思わず吠えてしまった。
「雨宮のお母さんに聞けたらなー・・」
ポツリと吐息混じりのつぶやきが漏れる。
雨宮の母は結婚前まで薬剤師として薬局に勤務していた。
薬効成分や化学反応には詳しい。
「いや・・ダメ。諦めちゃダメだって」
自分自身を叱咤激励。
ブンブンと首を振る。
台の上に腰かけると失敗作の鍋に目をやる。
頭の中を整理して、今までやってきた手順を思い返す。
(あとひといき・・)
ネガティブになってはいけないのだ。
「あと一歩♪・・あと一歩♪・・」
環はぶつぶつ小声で繰り返す。
病室の前の廊下に、永倉と原田と山崎と沖田が立っていた。
細く開いた戸口の隙間から中を覗き込んでいる。
「やっぱ・・アレって、呪いかけてんのかな?」
「・・誰にです?」
「左之だろ?いっつも怒らせてるし」
「やめろよ・・怖ぇーよ」
「うーん・・って。あ、総司。どこ行くんだ?」
病室の前に3人を残して、沖田は部屋の方に歩き出していた。
両手で耳を塞いでいる。
(見ない、聞かない、考えない)
沖田はオカルトネタに興味が無い・・が、女の怨念だけはコワイ。




