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道の向こう  作者: 高田昇
第一部 黎明
9/21

第八章 停戦

7月24日 満州

 第三軍は奉天に入った。13日の戦いの後、ロシア軍と第三軍は二回の攻防を繰り広げた。しかし、第三軍はロシア軍の重圧を防ぎ抜き、逆襲に転じて包囲網を突破する事が出来た。


 常に第三軍とロシア軍との兵力差は六倍であり、砲兵力は雲泥の差であった。この圧倒的な戦力差の中、飛田源七郎は頭一つでロシア軍と戦い、将兵は気力を尽くして戦った。そして、第三軍全将兵はロシア軍が攻撃を終わらせるまで戦い続けた。いわば、ロシア軍と根比べをしていたと言えよう。


 奉天には、日本軍の一個師団と内地で新たに臨時編成された第13師団、第15師団の3個師団がおり、第三軍の指揮下に置かれた。


7月25日

 第三軍は奉天から南の遼陽に向かった。その間、想定されていたロシア軍の追撃がなかった。ロシア軍内でも第三軍の追撃案があったが、四平街から鉄嶺での第三軍との戦闘で少なくない消耗を負い、補給の乏しい状態で追撃戦をするのは望ましくないという意見が占めた。そのため、部隊の再編を行い日本軍主力のいる遼陽での決戦に全力を挙げて撃滅させる事に決まった。


 日本軍の主力は遼陽郊外東南部の山岳地帯でロシア軍の迎撃態勢を敷いていた。だが、ロシア軍の撃滅を可能とするだけの戦力は皆無であり、ロシア軍を山岳戦に持ち込み日露両政府の停戦合意の日まで持久戦を行うのが狙いである。


7月30日

 遼陽に入った第三軍は、主力部隊と合流した。そして、休すむ間もなく新たな配置場所である山岳地帯まで移動する事になった。


 この時の日本軍の総兵力は20万強である。しかし、兵士全体の三分の一は召集された予備役の老兵や後備兵であり、小隊長級の士官においても予備役や十分な教育を受けていない新人などであり、戦局に応じた判断や行動力は鈍い。砲火力の面でも十分とはいえず、戦闘中に弾薬が底を尽きる恐れがあった。だが、日本軍がロシア軍と戦うにおいて救いとなる要素を挙げるならば、戦場が山岳地帯であり、日本軍が防御側ある。


 平野での戦闘となれば単純に戦力の優劣で勝敗は決する。しかし、山岳戦ともなれば部隊の身を隠す障害物が多々あり、地形によって砲兵の火力支援が行えない事もある。登り上がる兵士の体力をも奪う。複数の山々を攻略せねばならず、戦力の優劣より作戦指導者の知恵が勝敗を分ける。また、日本軍は20万の兵力を抱えての防戦であり、30万を有するロシア軍に対して『攻撃三倍の法則』から見て対抗出来る公算があった。


8月13日

 遼陽に入ったロシア軍は、翌14日に攻撃陣が日本軍の構える遼陽東南部に布陣した。


8月15日

 遼陽郊外の東方にある下平洲村という平野の村落でロシア軍偵察部隊と日本軍部隊との間で遭遇戦が発生した。この事で、日露間の大戦闘が始まった。日本軍第1軍の籠る下平洲村の東に聳える桜子山にロシア軍の一斉砲撃が行われた。この第一軍と対峙しているのが、満州第2軍の集成狙撃兵軍団の3個歩兵旅団と第10軍団の2個師団である。数時間に及ぶ砲撃後、ロシア歩兵が強襲突撃を行って来たが、地の利を生かした日本軍の野戦築城の前に屍の山を築き上げた。


 桜子山から6キロほど北にある田官屯と呼ばれる山岳部にも日本軍の第四軍が布陣しており満州第1軍と対決していた。さらに田官屯から数キロ離れた北方の上沟と呼ばれる山に第三軍がていたが麓に布陣するロシア軍に逆襲をかけて撃退をした。


 この第一軍、第三軍、第四軍の布陣地が主な激戦地であり、一進一退の攻防が続いた。


 しかし、戦いは双方が予想だにしない形で終結するのだった。


 五日間にも及ぶ戦いは日露両軍に多大な犠牲を出した。しかし、ロシア側として見れば戦略的に進展が無かった。


 この戦局の状態で、ロシア軍司令官のリネウィッチは業を煮やした。現地の状況を鵜呑みにして、国内の混乱終息を最優先とするロシア本国からの停戦命令と乏しい補給、日本軍の予想外の抵抗の前に焦りが募っている。


 リネウィッチは、遼陽市内に軍本部を置いて指揮を執っていたが、戦局打開の一手を講じるために参謀を引き連れて戦況視察に出る事とした。


8月21日

 この日、日本軍は温存していた砲火力を一点に集めて、敵陣地を砲撃する事となった。ロシア軍に日本の砲兵力が膨大にある事を錯覚させて牽制するのが狙いである。


 午前10時、日本軍は第一軍が対峙する上平洲村に一斉砲撃を行った。ロシア軍からも砲撃が始まり、数時間に渡る砲撃は日本軍がもつ全ての火砲から行われた。さらに、日本軍は騎兵部隊で遼陽のロシア軍の補給路を襲撃させた。ロシア軍の攻撃目標を日本軍の砲兵から騎兵にそらす狙いがあったからだ。




 日が沈み始めた頃であった。ロシア軍の陣営に異変が起きたのは。


 各ロシア軍が遼陽に下がる様にして、部隊の移動を始めたのだ。ロシア軍の遼陽への移動。つまり、後退であるが、各部隊には日本軍の追撃を警戒しており、余念は無かった。


 日本軍としても奉天の会戦で、後退するロシア軍に追撃を行った部隊が返り討ちに合い、多大な被害を出した経験があった。


8月24日

 遼陽のロシア軍から日本軍の司令部に軍使が訪れた。軍使携えてきた内容は戦争の休戦であった。日本軍の参謀将校は首を傾げた。ロシア軍の後退、現地軍からの休戦交渉。猛将と言われるロシア軍司令官のリネウィッチが指示をしたとは考えられなかったのだ。


 だが、とにかくも日本軍はロシア軍との休戦勧告を受理した。


 その後、次第にロシア軍の情報を日本軍は得ていった。実は、21日の砲撃の際、砲撃目標であった上平洲村にロシア軍のリネウィッチが戦場視察に訪れていた。丁度その時、日本軍の砲撃に遭遇して、内一発の砲弾がリネウィッチの近くに着弾して彼を含む部下や参謀らを跡形もなく吹き飛ばしてしまったのだった。これは全くの偶然であった。日本軍は15日からの戦闘以来、極力砲撃を控えていた。日本軍の砲撃が無いと判断したリネウィッチに油断が生じたのだろう。


 しかし、その油断が彼の命を奪った。リネウィッチの後任となったのがクロパトキンであった。彼は日本軍の砲兵力に例のように過大評価をした。


 日本軍の砲弾備蓄量は多くはないのに何故、これだけ打ってくるのか?しかもリネウィッチの戦況視察と同時期にである。日本軍の砲兵力と情報収集力は想定以上だったのではないのか?


 そう考えたクロパトキンは各部隊に遼陽までの後退を指示したのだ。


 リネウィッチ戦死の報告はロシア本国にも届いた。そこで改めてロシア政府は現地軍司令官のクロパトキンに日本軍との停戦を指示したのであった。




 その後、アメリカでの日露交渉が始まり、講和条約が締結されるまで満州での大規模戦闘はなかった。日露戦争は終わったのだ。

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