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道の向こう  作者: 高田昇
第一部 黎明
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第七章 鉄嶺会戦

 四平街の戦いでロシア軍は出鼻をくじかれる形となったが、総司令官のリネウィッチは追撃を強行させた。この時、後退する日本軍の最後尾を守る第三軍は四万五千名の兵力を抱えていたが、ロシア軍はなおも三十万の大軍団である。


 第三軍は、隷下の工兵部隊を用いて鉄嶺に簡易な防御陣地を構成してロシア軍の来襲を待ち構えた。


 古来から攻める軍は、守る軍に対して三倍の兵力で攻めなければならない。いわゆる『攻撃三倍の法則』というものであるが、守る第三軍と攻めるロシア軍の戦力差は約六倍である。


7月6日

 追撃してきたロシア軍が攻撃を行った。日露戦争の地上戦において後に『鉄嶺会戦』と呼ばれる戦いの始まりである。


 ロシア軍の先陣はクロパトキン大将率いる満州第1軍の第1軍団とシベリア第2軍団であった。二つの軍団は第三軍を取り囲むように軍を展開しようとしたが鉄嶺の北西に遼河、北東に柴河の河があり、河を渡る橋は全て日本軍に破壊されていた。また、連日の雨期のによって流れも激しくなっている。それでも強行して渡河をしようとする部隊に対岸から日本軍が砲撃を加えられ、ロシア軍は被害を受けた。しかし、日本軍の砲撃は長くは続かなかった。砲弾の数が貧弱ないため、渡河するロシア軍部隊の全てを撃滅することはできず、渡河部隊を援護するために撃たれるロシア砲兵の前には成す術が無かった。


7月10日

 第三軍は鉄嶺からの撤退を始じめ、次の防御線である紅光村まで下がった。その際、一時的に第三軍の指揮を大山巌に任せ、飛田源七郎は歩兵第15旅団を指揮してロシア軍への夜襲攻撃を行う。


 歩兵第15旅団は元々仙台の第2師団隷下の歩兵旅団である。その第2師団は昨年の遼陽の会戦で師団長の西島助義中将が独断で弓張嶺を守るロシア軍に前代未聞の師団規模での夜襲を行い撃破した。そのため夜襲経験のある歩兵第15旅団が選ばれた。


 歩兵第16連隊の笹野太吉上等兵の日記にはこう書いてある。


 『7月10日-夜間から翌日の黎明にかけて、我が隊の所属する旅団は夜隠に乗じて鉄嶺の露助に夜襲をかけた。我々は明かりをつけず夜に慣れた目を頼りに夜道を進んだ。暗闇のため隊列がひどく乱れるも敵陣営に接近した。そして隊長の合図とともに無音で敵陣に襲いかかった。聞こえるのは露助の悲鳴と銃声のみであった。私は露助に積年の恨みを晴らさんとするように銃剣で突き刺し周った。夜襲はほんの数十分だったがロシア軍は大壊乱した。その後、我が旅団は負傷者を担ぎながら紅光村まで走って退却をする』


 この夜襲で鉄嶺を占領していたロシア軍は大混乱し、多くの物資を喪失した。しかし、歩兵第15旅団の犠牲も大きかった。二つの歩兵連隊を合わせて約三千五百名の兵士のうち約千六百名が命を落とした。


7月11日

 第三軍は紅光村を放棄し、翌12日までに南の三台子村まで後退した。将兵の殆どは昼夜を問はず不眠不休で動いていた。軍司令部将校も同様である。


 この第三軍後退の援護をしたのが秋山好古少将指揮する騎兵第1旅団であった。ロシアの追撃部隊を撃退しながら、騎兵の機動力を活かして小規模な奇襲攻撃を行いロシア兵を翻弄させた。


7月13日

 体制を立て直したロシア軍が三台子村の第三軍に総攻撃を加えた。しかし、第三軍のロシア流陣地防御の前に犠牲者が続出した。一つの前哨陣地を奪取したか思えば、陣地内に仕掛けられた爆薬が炸裂する。歩兵突撃を行うも、日本軍の機関銃の斉射の前に屍の山を作りながら弾幕を掻い潜り日本軍の陣地に入り込む手前で落とし穴にはまり、底に埋め込まれた鹿砦ろくさいの串刺しとなる。


 第三軍の退路の遮断を図るため、独断で挺身行動したシベリア第三軍団隷下のシベリア騎兵師団が歩兵第20旅団の伏撃を受けた。師団長のフォンバウムガリテン少将が戦死し、師団隷下の4個騎兵連隊のうち3個連隊が壊滅した。


 夜が来て、ロシア軍の攻勢は止んだ。総攻撃は失敗した。一日の戦いで、一つの騎兵師団と三つの歩兵連隊が壊滅し、戦闘序列から外された。


 最前線のロシア兵は狼狽し続けた。一連の戦いで日本兵の体力は限界に達している筈が、撤退から交戦、仕掛け罠、夜襲の手際に乱れなが無い。物量で圧倒するロシア兵は犠牲者の数を増やす一方のため士気は著しく低かった。




 満州のロシア軍を掌握する軍司令部でも問題があった。そもそも日露両政府は講和に向けた準備を進める中で、総司令官リネウィッチは独断で日本軍に攻撃を加えたのである。結果、日本軍の撤退という戦果を出し、開戦以来初の勝ち星を挙げたがロシア政府にとっては有名無実であった。


 ロシア国内では貴族と平民の身分と貧富格差、日露戦争による重税と敗戦で国民の不満は爆発し、各地で反政府運動が起きた。そのためロシア政府は日本との講和に踏み切った。だが、リネウィッチはこれを無視して戦争を継続したため、反政府運動が継続されていた。


 このまま反政府運動が続けば政府は潰されてしまう。この考えがロシア政府内の人間達の思考を占めてしまった。満州の現状を詳しく知ろうとせず、反政府運動の鎮圧を最優先としたため、満州のロシア軍に十分な補給が行われなかった。


 そのため、満州のロシア軍の軍、軍団司令官達の間に後顧の憂いが出来た。


 ロシア軍も他の列国の軍隊と同様に『兵站』を重視している。満州において日本陸軍を上回る戦力を持っているとはいえ、一度の会戦で膨大な弾薬を消費する。四平街の戦いから鉄嶺会戦までで多くの弾薬を消費した。


 十分な補給が行われないで日本軍と決戦はできるのか。満州軍第1軍司令官クロパトキンは日本軍の能力を過少評価せず、国内情勢を考え攻勢は消極的であった。満州軍第2軍司令官アレクサンドル・カウリバルス大将は、長く続く日本軍との戦いで心身が疲れ、柔軟な判断が出来ず慎重であった。満州軍第3軍司令官ビリデルリング大将も同様である。


 ロシアの政府と軍、どちらも波長が合わず、軍においては上から下にかけて統率が上手く執れていなかった。




7月17日 アメリカ ニューユーク

 ロングアイランドと言う、ニューユークの南東部に位置する陸地から程近い島がある。


 アメリカ合衆国第26代大統領のセオドア・ルーズベルトはロングアイランドのオイスターベイに別荘を持っており、一人の日本人が来るのを待っていた。


 暫くするうちに、目的の人物が現れた。


 「金子、良く来てくれた」

 と、ルーズベルトは自ら庭に出て訪問者を出迎えた。


 「いやいや、しかし何用でここに呼んだんですか?」

 訪問者は尋ねた。


 人物の名は金子堅太郎と言う。彼は嘉永六(1853)年に筑前国で生まれ、維新後の明治4(1871)年、渡米してハーバード大学に入学した。ルーズベルトとは、ハーバード時代の同窓の仲である。そのため、日露戦争の講和の仲介約をアメリカにさせるよう、金子は日本から派遣されていた。


 「これから友人達とパーティを開こうと思ってね。君も呼んだのだよ」


 「パーティですか?」


 「出席者はメディアや金融などで影響力の強い人物ばかりだ」


 このルーズベルトの言葉に金子は反応した。彼は渡米し、ルーズベルトに日露仲介役を嘆願した後、アメリカ中を周り各界有力者達と会い、日露戦争における日本の正当性を主張し続けた。これは戦争の外貨獲得もある。アメリカは君主のいない共和制国家である。そのためアメリカを日本の味方にするには、アメリカ国内の世論の支持を得る必要があった。


 もう一つは、アメリカ国内のロシア勢力との対抗であった。ロシア支持勢力は新聞社を買収して情報を操作してアメリカ国民の同情を得ようとしていた。それに対し金子は一人でアメリカ中を回り歩き支持者を集めていた。


 「ありがたいかぎりです」


 「それからもう一つ君に告げておきたいことがあるんだ」

 と、ルーズベルトは言った。


 内容は日露講和の件であった。ロシアはアメリカの講和勧告を受諾したが、満州の戦局で講和交渉を延期にさせていた。そのロシアを講和のテーブルに引きずり込むには再び満州で日露両軍の大会戦を演じ、勝てなくてもロシアの勢いを挫く必要がある事を告げた。


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