第六章 歩卒
第三軍が満州軍の転進支援のため、戦闘を行うにあたり4個の歩兵旅団が第三軍の指揮下に入った。また、第三軍の編成も再編された。
戦闘序列は以下の通りである。
第1師団
第7師団
第9師団
騎兵第1旅団
野戦砲兵第2旅団
歩兵第15旅団
歩兵第16旅団
歩兵第20旅団
歩兵第24旅団
元々、第三軍の指揮下にあった三個師団と砲兵旅団に加えて新発田の歩兵第15旅団、秋田の歩兵第16旅団、福知山の歩兵第20旅団、久留米の歩兵第24旅団が新たに指揮下に加わった。これは軍隷下の、戦闘能力的に現役兵に劣る後備兵部隊と入れ替えをするためでもあった。また、秋山騎兵団は騎兵第二旅団が騎兵団から離脱して満州軍の指揮下に入った。これは日本軍の後方撹乱のためロシア軍の放った騎兵部隊への対抗のためである。
大山巌元帥も第三軍司令部と合流した。
真剣な顔付き。ではなく、のんびりとした表情でいて、とても戦場に赴いている様には感じられなかった。この時、出迎えた飛田源七郎は改めて大山の器の大きさを実感したのだった。
とは言え、飛田が指揮してきた第三軍に自分より階級の高い元帥の大山が来たため、部隊の運用をどうするかに着いて協議をする事にした。
第三軍の主要参謀達は戦闘の対応に追われていたため、飛田と大山の二人だけで話しが行われた。しかし、直ぐに話しは済んだ。
「外では戦闘が続き、ロシア軍が押し寄せておいもす。今は今後の事で時間をかけて話をしじぁ暇はあいもはん。ここは一つ、第三軍はいまずい通いおはんにお任せしもんで」
と、大山は第三軍の指揮権をこれまで通り飛田に任せた。
「では閣下、私から一つお願いがあります」
次に飛田は言った。
「戦況は著しくありません。いざとなれば私自身部隊を率いて敵に斬り込むつもりです。その時は、閣下が軍の指揮をしてください」
「…わかいもした。じぁんどん飛田さぁ、命あっての物種。兵隊の命もおはんの命も粗末にしてはいけません」
大山はそれだけを言った。部隊を指揮しての襲撃自体は反対しなかった。しかし、飛田が戦死をすれば第三軍、日本軍全体の士気が急落するのは間違いない。海外のメディアが知ればいち早く世界に報道してしまう。そうなれば満州のロシア優勢を後押ししてしまうことにもなる。
第三軍は戦術は、迫りくるロシア軍に対して拠点防衛に徹し、敵を退けては後方へ下がるロシアの伝統的な後退戦術を用いることにした。また、騎兵第1旅団は隷下の2個騎兵連隊うち1個をロシア騎兵迎撃にまわし、もう1個の騎兵連隊をロシア軍の後方撹乱任務にまわした。
歩兵第15旅団は、仙台の第2師団の師団内旅団の1つである。新潟県出身者が主体で、新発田の歩兵第16連隊と村松の歩兵第30連隊の二つの歩兵連隊を隷下にもつ。
歩兵第16連隊に笹野太吉という歩兵上等兵がいた。
彼は戦争の始まった明治37年の1月に入営し、第一軍の鴨緑江会戦以来の古参兵で開戦以来の出来事をすべて日記に書き残していた。
『(明治38年)6月18日-この日、塹壕の中で露助への警備で暇を持て余していた時、突如厳戒令が出た。晩、露助の大逆襲が噂をされた』
『6月20日-我が中隊に露助来襲の報が届き迎撃態勢が敷かれた。そして昼頃、何処からともなく砲音が聞こえてきて、轟音と共に地響きが鳴った。敵の砲撃だった。暫く砲撃が続いたが、今度は敵歩兵が突撃を開始してきた。我が中隊も何糞と塹壕を飛び出して逆襲を行い乱戦となった。私は自分より大柄の露助と一騎打ちとることになった。しかし、大柄とは裏腹に、相手の露助はこちらから先に突いた銃剣が胸に刺さって倒れた。倒した露助の着物を見ると汚れが余りなく、戦場に来たばかりの新参者だと分かった。私とさっきの露助との対決が終わった時には敵は逃げかえっていた。だが我が中隊からも何人か死人が出た』
その後、22日までロシア軍との塹壕戦がつづられている。
『6月23日-我が中隊に移動令が出されて今までいた壕を後にした。耳にした話では我が16連隊の属する旅団が別の軍の指揮下に入るらしいという』
この頃の戦闘では第一軍がロシア軍の押し返しに成功しており、軍の転進が始まった。
『6月25日-昼夜を徹して行軍をした。途中小休止が幾度かあったが連日の雨のせいで地面がベチャベチャになっていた。それでも皆、尻を下して体を休めた。この時には移動先が第三軍らしいとの話を聞いた。その第三軍はなんでも露助の大軍を食い止める殿をやるらしく、この話が本当なら16連隊はとんだ外れクジを引いたことになる』
『6月26日-明け方、分隊長殿に叩き起こされて目が覚めた。どうやら第三軍と合流すると同時に戦闘を開始するらしい。朝方の行軍中、連隊の先頭を進んでいた部隊が露助の砲撃を受けた。部隊が反撃をする頃には敵は姿を消していた。敵の攻撃を警戒しつつ、我が中隊は攻撃を受けた場所を進み、仏様になった味方に手を合わせた。夕暮れ頃、16連隊は第三軍が用意した防衛陣地に着いた。しかし、敵の攻撃は無かった』
『6月27日―昨日、連隊に機関銃と大砲が配備された。午前10時を過ぎ頃、我が陣地が露助の砲撃を受けた。暫く続いた砲撃の後、敵部隊の突撃が始まった。だが、機関銃の猛烈な攻撃により、敵の多くが倒れた。敵は我が陣地に乗り込む事なく退いた。その後、敵の砲撃が行われ、夕暮れまで続いた。その晩、我が連隊は後方に下がるため移動』
以後、6月の末まで上記の様な防御戦を繰り返し続いた。
そして7月1日、第三軍の後退に伴い、奉天から北の都市である鉄嶺まで歩兵第16連隊は移動する事になる。
この6月末の戦いは、後に戦場となった地名を取って『四平街の戦い』と呼ばれる。
物量で圧倒するロシア軍の攻勢を第三軍が火力と防御戦闘で上手く撃退した。そのため、ロシア軍の死傷者が第三軍より上回った。
また、雨季と大軍団が祟り、退却する第三軍に追撃が思うように進まず、逆に突出した軽装備部隊が逆襲にあう場面も多々あった。
しかし、多勢に無勢の第三軍も、連日の不眠不休での戦闘と移動と襲撃で多くの将兵が倒れ、鉄嶺に主力が着いた時には戦力が4分の1まで減っていた。