第四章 疲弊
明治37年8月下旬
日露両軍の軍団は満州の都市遼陽で会戦を十日間繰り広げた末、日本軍は遼陽を制圧した。しかし、ロシア軍主力の殲滅には及ばなかった。
一方、内地では官民を問わず日本人は祖国の勝利のため機械の歯車の様に生きていた。国民は重税に耐え凌ぎ、政治家や外交官は国内外を渡り歩き情報収集を行いロシア情勢を探り、各国要人と会合して資金の調達等に明け暮れる日々である。
飛田源七郎の兄である貞直もロシアの情報を探るべく欧米を駆け巡った。その彼が日本へ帰国して伊藤博文の下に集めた情報を報告しに訪れた。
貞直と博文は、少年時代に長州の私塾である松下村塾での先輩後輩の関係であった。明治維新後、彼が政治家を志したのは伊藤の影響に因るものである。憲法制定にも飛田は伊藤の下で携わっていた。伊藤も飛田の政治才能を認めており、第二次伊藤内閣の際には貞直を入閣させている。
「…やはりロシアの同盟国のフランスは日露戦争の動向を懸念してます」
飛田は伊藤に書類の束を渡しながら言った。
フランスは、隣国はドイツ帝国を1870年の普仏戦争以来の仮想敵国としていた。フランスは強大な陸軍を持つロシアと同盟を結ぶ事で東西からドイツを牽制する態勢で自国の安全保障を保ってきていた。しかし、日露戦争によってロシア軍はヨーロッパ方面の陸軍も極東に派遣する計画を立てたため、フランスの安全保障に綻びが出来てしまい日露戦争の推移を注視していた。
「ご苦労だった飛田さん」
伊藤は返事を返したが、顔色は決して良くはなかった。
伊藤博文は元々百姓の長男であったが、下級武士の養子となり松下私塾に入り、高杉晋作の下で才覚を表し明治維新後の日本の政権運営を担う事になる。
伊藤の政治家としての外交姿勢は常に外国を過剰なまでに高く見て、日本の能力を低く見ていた。幼少、青年期には下級武士の子として貧しい生活を送っているため、現在における日本国民の生活の貧窮差を良く分かってた。また、海外留学の経験もあり列国の国力と軍事力は日本に到底及ぶ事は無いと結論付けていた。
そのため、日清戦争の時も清国との戦争回避を主張し続け、今回の日露戦争の際も日露開戦前には直接ロシアに行き『日露協商案』を持ちかけるほどであった。余談だが、伊藤のロシア訪問していた頃、日本とイギリスは同盟締結の交渉中だったため、イギリス側は伊藤の訪露を『日英同盟締結失敗の滑り止め』の可能性があると指摘した。日英同盟案が白紙化されれば、日本は
「伊藤さんはお疲れのようですな」
飛田は言った。
「この頃、良く眠れていない」
「ですが戦争は日本が勝っています」
「気休めなど言うなよ。昨日や今日の戦に勝っても戦争は終わらんし、明日は勝てるかは分からんよ」
伊藤は苦笑しながら言う。
「しかし私の弟や倅達、兵隊さんは戦地で頑張って戦っちょりますから全滅する程の負け戦はありますまい」
飛田はそう言いながら近くの椅子に腰を下ろし、自分膝を叩いた。彼は片足が不自由であった。そのため、彼は維新の際に軍に入る事が出来ず政治家の道を進んだのである。
「今私達政治家は、迷ったり考えたりはする暇はありません。日本軍が負けないうちに戦争を終わらせるため尽力しなければいけません」
伊藤は煙草を取り出して火をつけた。
「しかし、嫌な予感がするのだ」
「嫌な予感?」
飛田は伊藤の言葉を小さく呟いた。
「そうだ。わしの予感は何かと当たりやすい」
伊藤は、煙草を灰皿に捨てて書類の束をまとめた。
満州の戦局は日本軍が優勢を保っていたが油断を許さぬ状態が続いている。
十月、遼陽北方の沙河でロシア軍の反攻があったが退く事に成功した。
翌年の一月にも再度ロシア軍の攻勢が行われたが、これも撃退に成功した。しかし、この二つの両会戦は日本軍がロシア軍と紙一重の差で勝っている。
日本軍の勝利の背後には、満州のロシア陸軍を束ねるのクロパトキン総司令官があった。
戦闘前日、ロシア本国から戦局打開のため派遣されたグリッペリンベルグ大将が派遣された。グリッペリンベルグは日本軍への攻勢を主張したが、クロパトキンは今までの戦いの経験から『一撃必殺』のため現段階で防戦を主張したが、結局攻勢に転じる事になった。
一度目の沙河での戦いは、クロパトキンの指揮の下で行われた。日本軍は予想以上の防戦したため苦戦を強いられる。更には、日本軍の逆襲に合い戦況が膠着状態になり、戦力が優勢にも関わらず退却を命じた。これはクロパトキンの度量が日本軍に脅えて負けてしまったといっていいだろう。
二度目の戦いは、グリッペリンベルグが自ら前線に乗り出し、直接指揮する部隊が日本軍を窮地の淵まで追い込んでしまった。このため、もしグリッペリンベルグが日本軍を撃破する事に成功したらクロパトキンの今までの対日戦略が無策だったという烙印が押される上に、グリッペリンベルグが自分以上の地位に立つ事を恐れたクロパトキンは、有りもしない日本軍の反撃を理由に自分の部隊を後退させてしまったため、前線の部隊を指揮していたグリッペリンベルグは包囲殲滅の可能性を危惧し退却を開始した。
日本軍はロシア軍退却によって辛くも危機を脱した。その後、日露両軍は次の戦いに備えて補給に専念をした。しかし、日本軍にはこれ以上の大規模戦闘は困難であった。
現地軍指令部である日本の満州軍は、奉天を最終攻略目標と定めた。一方、ロシア側も再度日本軍への攻勢を模索していた。グリッペリンベルグは、先の戦い後でクロパトキンとの対立の末、ロシア本国に帰国した。そのためクロパトキンは、日本軍の防御の薄い最左翼―日本軍の視点では右翼―への攻撃を計画していた。しかし、先手を打ったのは日本軍である。
戦いは二月下旬から三月の初旬の十八日間行われたが、ロシア軍が奉天を放棄して長春への撤退で幕を閉じた。
日露両軍は痛み分けに終わったが、ロシア軍の損害はシベリア鉄道での補給で数ヵ月で回復出来る。しかし、日本軍は乏しく、悪路で長い補給路のため、再度決戦を挑む体制を整えるためには半年はかかる。日本陸軍は戦術において、奉天の占領という戦果を挙げたが、ロシア軍の殲滅には失敗する。
最早、陸軍には戦争を終わらせるだけの決戦を行うだけの戦力を失ない、日露講和の機会を無くした。
残るは海上での連合艦隊とロシア本国艦隊ことバルチック艦隊との艦隊決戦であった。