第三章 日露戦争
日露戦争は、日本海軍の駆逐艦から成る水雷攻撃部隊の旅順港奇襲攻撃から始まる。
この日、ロシアでは聖母マリアの名に肖って、『マリア』と名のつく女性を祝うマリア祭であった。現場に責任があるとするならこれに原因がある。しかし、ロシア政府及び軍内でも、『日本からロシアに戦争を仕掛けてくる筈がない』と本気で考えており、日本政府の動向や日本軍の能力を真面目に窺っていなかった。
ロシアは完全油断をしていた。
旅順のロシア軍が日本海軍の奇襲に対して迎撃体制が整った頃には日本海軍駆逐隊は戦線を離脱していた。
この攻撃でロシア海軍旅順艦隊は戦艦ニ隻と巡洋艦一隻が大破する被害を受けた。
しかし、当の日本海軍にとって、旅順奇襲攻撃は失敗だった。当初は、この作戦で旅順艦隊を壊滅させる筈であったが、軍艦三隻の大破で幕を閉じた。ロシア軍は当然、今後旅順の厳重な警戒をニ十四時間怠る事は無い。
ワンセットしかない日本艦隊は、旅順口を長期封鎖網を敷くしかなく、持久戦に持ち込まれた。何時解かれるかも分からない旅順口封鎖で水兵達は心身を疲労させ、艦艇は艦の底にカキが付着して行き最高速度を出すことが容易でなくらる。
この海軍の戦略失敗は、陸軍にも今後の戦略に影響を及ぼす事になる。
一方陸軍は、まず黒木為楨大将率いる第一軍が朝鮮半島に上陸し、朝鮮のロシア軍を駆逐しつつ、中朝国境を流れる鴨緑江を渡り、ロシア支配下の満州に入った。
続いて、奥保鞏大将を司令官とした第ニ軍が遼東半島に上陸し、旅順と半島を結ぶ要所である金州を攻めた。対するロシア軍は、金州城―金州の都市―の北にある南山と言う山に野戦陣地を設けて第ニ軍を待ち受けた。
南山は、野戦築城とはいえ、防御戦術を得意とするロシア軍によって巧妙な要塞となっていた。
この南山で、第ニ軍は多大な被害を強いられた。坂の上に設置されたロシア軍の容赦ない機関銃の十字砲火を浴び、歩兵部隊が数メートル躍進するだけで数十から数百名の損害を出し、全滅した小隊や中隊があれば壊滅状態の大隊も出た。第ニ軍は砲兵による制圧射撃を何度も試みるも依然とロシア軍の陣地は健在で攻撃は衰えなかった。気付けば第ニ軍は、保有する砲弾の半分以上を使いきっており、これは、日清戦争全体で通した砲弾の使用量を雄に越えていた。
『大変な戦になった』司令部の人間全員が同じ事を考えていた。持久戦を訴える参謀の声もあったが、軍司令官の奥は即日陥落の可能性があると見きり、海軍に要求して南山西方の金州湾に砲艦を来援させ海から砲撃を行った。これにはロシア軍も虚を突かれ、この隙に第ニ軍の歩兵突撃は敵陣になだれ込み、南山陥落に成功させた。
だが、第ニ軍の損害は大きく、砲弾の殆んどを一日で使いきった。参加兵力3万6千4百名のうち、死傷者は4387名にも及んだ。この損害を知った大本営参謀は、損害が一桁違うのではないか?と驚いた。今度の戦争が日清戦争の比でない事を窺わせ、先の読めない戦況に誰もが不安を覚えた。
旅順方面の海軍でも一大事が起きた。旅順口封鎖中だった連合艦隊の主力戦艦六隻のうち、戦艦『八島』と『初瀬』がロシア軍の設置した機雷に触れて沈没した。ロシア海軍との艦隊決戦の前にニ隻の主力艦を喪失する。この事態に危機感を募らせた海軍軍令部は陸軍に内陸から南下して旅順港砲撃による旅順艦隊撃滅を依頼した。海軍としては、旅順の封鎖を解き、艦隊を佐世保に帰還させて整備補給をしたのちに、来るであろうロシア本国艦隊―バルチック艦隊―との対決に備えなければなかった。
陸軍は直に旅順攻略のため『第三軍』を編成した。だが問題がでた。軍司令官の選定である。この時、大陸北上用の『第四軍』が編成され、その軍司令官には野津道貫大将に決まった。しかし、第一、ニ、四軍の軍司令官は全て長州人では無かった。陸軍は創設時より、長州派閥が牛耳ていたため、その面子から第三軍司令官にはどうしても長州人を起用したかった。
司令官候補には二人の名前が挙がった。中将の乃木希典と飛田源七郎である。
乃木は、長い軍歴がある事を上げれば、司令官になる資格はある。しかし、日清戦争後長らく休職していたためロシアとの戦いついてこれるかが疑問視された。
飛田は、乃木と同様に長らく軍歴についており、対露戦と旅順の研究に没頭した。これを取れば飛田に軍配が上がるだろう。しかし、彼は日清戦争中に精神障害を患い一時期一線を退いた。回復後は周りと距離を置くようになり、『変わり者』と密かに囁かれるようになっており、彼が司令官の任期中にまた精神障害の様な事が起こりうるのではないか。と言う声が上がった。
二人の長州人には各々の長所と短所を持ち合わせていた。最終決定を下したのは大本営参謀本部の参謀総長山県有朋元師であり、彼は飛田を第三軍司令官に任命した。
山県は、明治維新の時から自分の下で戦う飛田を見てきており、飛田が独自で研究していた対露戦と旅順攻略作戦を高く買った。しかし、飛田の短所を山県としても目を閉じる事は出来ず、異例の処置として乃木中将を第三軍副司令官に任命した。
斯くして、飛田源七郎は第三軍司令官として旅順へと向かった。
この時、飛田は旅順攻略のため二十八糎砲を持ち出して来た。
この二十八糎砲は、日本国土に接近しようとする敵国の軍艦を撃退するために各主要都市沿岸に設置された沿岸砲である。
日本陸軍には野戦重砲を持っていなかった。前例のない近代要塞攻略には陸軍が持つ従来の野戦砲では力不足である。そう考えた飛田は、陸軍が持つ唯一の重砲、二十八糎砲に目をつけたのだ。
しかし、この二十八糎砲にも弱点があった。そもそも沿岸砲である。つまり、固定式の大砲であるため、移動手段など全く考慮されておらず、重量は26トンに及び、これを移動させ、設置し、外す。この作業の行程には骨が折れる。
6月6日、大連に上陸した飛田等先発隊は後続の本隊を待たず行動を開始した。
開戦当初、第ニ軍指揮下にあった東京第一師団は、南山の戦い後に金州に待機させ第三軍の隷下に加えた。この第一師団を先頭に旅順要塞に向け南下を進め、ロシア軍の各防御線を次々攻略して行き駒を進めた。
南下中、ロシア軍が敷いた防御線は南山たは比べものにならないくらい即席で簡素な防御陣地であったため、易々と突破出来ていたが、旅順本要塞に近付くに連れて、多少なりとも損害が増えていった。
この事が飛田に大きな不安を与えた。防御線突破はあくまでも前哨戦。準備運動の様なものであったが、7月13日(史実では8月15日)の時点で旅順の殆んど、残すは旅順要塞のみとなった所で第三軍の出した損害は3千余名(史実では6千5百余名)であった。
第三軍の参謀等は楽観者が多かった。これまでの勢いで行けば旅順要塞は直ぐに落とせる。と、純粋に考えていた。しかし、彼等は決して無能であった訳では無く、ただ実戦経験が乏しいだけであった。
対象的に飛田と乃木は違った。即日飛田は自ら偵察隊と数名の若い参謀等を伴い、旅順要塞の偵察に向かった。
旅順要塞を見た飛田は直感が走った。日清戦争の頃とは違う。通常の強襲突撃で落とせる代物では無いと見た。各防御堡塁周辺に鉄条網が張り巡らされていた。その先の丘には銃弾を防ぐ障害物は無い。丘の上にはまた鉄条網があり、その少し先にベトンで固められた銃座用の横穴が均等にいくつも開いている。上気の様な行程の砲台も堡塁の後方に控えており、堡塁、砲台合わせて百十カ所に及んだ。
この百十カ所の各防御陣地をもって『旅順要塞』と言う。
旅順要塞の光景を見た飛田は、要塞堡塁の接近防御と堡塁を支援する砲台の連携関係を完璧と見た。
「これは要塞ではない、巨大な化け物の口の中だ。陥とす事は出来ない」
と、飛田は小声て呟くのを参謀の一人が耳にした。
あくまで飛田は、清国時代の旅順要塞を参考に攻略作戦を練っていたが、それが全て無意味となった。しかし、旅順攻略は急ぎの課題であった。北上中の第一、ニ、四軍は既にロシア陸軍との決戦予定地の遼陽に着々と集結しつつあり、8月下旬の会戦を予定していた。第三軍もこれに加わるため急ぎ北上しなければならなかった。
この時には既に、飛田の心中にあった旅順攻略の戦略が変わっていた。
司令部に戻った飛田は直に旅順口封鎖中の連合艦隊に連絡をとった。
『此方―連合艦隊―から見て旅順港全域を見渡せる高地は無いか?』
すると直ぐに返信が来た。
『二〇三高地―』
ニ○三高地とは、その標高が203mある丘陵の事である。ロシア軍はこの高地を簡易な前進陣地築かれているのみで重要視していなかった。しかし二〇三高地からは旅順港全域を窺える。つまり、ここに砲撃用の観測所を設ければたちどころに旅順艦隊は砲の的になる。
飛田は参謀に各師旅団長等を集め作戦を説明した。重要攻略目標を二〇三高地に定め、ここを速やかに占領する。高地占領後、旅順港砲撃用の観測所を設置する。これと同時に二〇三高地を射程に収める敵砲台に対する牽制射撃を行う。二〇三高地の観測所設置後、すでに占領下にある大孤山―ここからも旅順港を観測砲撃が出来た―において海軍陸戦重砲隊と同時砲撃を行う。ということであり、旅順本要塞の攻略の是非については一切言及しなかった。
「旅順本要塞の攻略については?」
参謀の一人が訪ねた。当然の質問である。
「必要無い。ニ○三高地を占領し、旅順艦隊を沈めれば良い。それが済めば一兵団程置いて、後は旅順要塞を竹の柵で囲んで置けばいい」
飛田はそれだけを言って、次にニ○三高地維持における戦術に話しを移した。
一昼夜十五分間隔てニ○三高地に援護射撃を行いロシア軍の逆襲に備えよ。
この命令にはその場にいた将校全員が度肝を脱いだ。
『ニ○三高地に向け援護射撃を行う』これを少々大袈裟に例えれば、土俵の上で、日本とロシアの力士が相撲をとっているとする。周りには相撲を見る観衆がいる。そして日本力士危うきとなれば観衆は一斉にロシア力士に向け全力で石を投げ、日本力士を助けようとする。だが全ての石がロシア力士にだけ当たるのは不可能でいくつかは日本力士にも当たる。
つまり、狭いニ○三高地を巡り日露両軍が死闘を繰り広げるなら、その狭い死闘場の、しかもロシア軍だけに向けて援護射撃をする事など出来る筈は無く、流れ弾が友軍の頭上に降り注ぐ事になる。
参謀達は躊躇した。特に砲兵部長豊島陽蔵少将にとっては人事では無い。第三軍の砲兵指揮の全てが彼に任されおり、味方をも巻き込む砲撃を指揮するのだから。
「味方のいる場所(占領後の二〇三高地)に砲を撃つ事は出来ません!」
豊島は言った。すると飛田は彼の下まで近寄り、豊島の肩に軽く手を置いて言った。
「君は味方にも砲の弾が当たる事を心配しているのだな?」
飛田の問いに豊島は、はいっ!と力強く返事した。
「そこを上手くやれ」
それだけを言うと、飛田は豊島の肩に置いた手を下ろして元いた場所に戻った。
「しかし、飛田司令…!」
豊島は食い付こうとしたが飛田が話しを始めた。
「成程、諸君がたじろぐのも無理も無い。敵味方混じれる狭い場所に砲撃を加えるのは前代未聞の無謀な作戦であろう。しかし、日本軍に出来なくてもロシア軍は平然とこなすぞ」
「我が軍はロシア軍と違います!」
言ったのは第三軍参謀長伊地知幸介少将だった。彼も砲兵出身であり豊島と同じように作戦の無謀差を分かっていた。
「友軍のいる中で砲撃をする事は無謀です!」
伊地知は豊島と同じ事を言った。しかしこれは、この場にいる将校全員の意見を代表して言ったのだった。
「この戦争は清国の時に比べ訳が違う!」
飛田は一喝をいれて黙らせた。
「諸君も知っての通り、ロシアの国土は広い。その領土を拡げて行くためにロシアは数百年間、相次ぐ敵を騙し戦い続けて来た。その分戦い方を心得ている。だが我が日本も軍隊もみな貧弱だ。その日本がロシアに勝つには、ロシアと同じやり方をして、彼等が出来ない事を此方が出来るようしなければならない。確かにこの作戦で味方の兵も犠牲になる。しかし、この作戦をもって一日二日で旅順艦隊を撃滅するにはこれしか無い!」
すると、飛田の目下に涙か溜って来た。
「わしは、ロシアと言う『白熊』を倒すために血も涙も無い『鬼』になった。諸君もわしに付いて行く『鬼』になってくれ!」
そう言って飛田は全員に向け頭を下げた。
現場最高司令官が涙を流し頭を下げてしまえば、誰も情が移らない訳が無い。場の主導権は飛田が掌握した。最早、将校等は有無も言えず、飛田の作戦が実行される事になった。
作戦は7月15日に行われた。まず、二〇三高地のある要塞東側に対し砲撃を開始した。ロシア側も反撃を開始し、激しい砲戦となった。これによりロシア軍の砲兵力の引きつけに成功し、作戦第二段階目の二〇三高地攻略に乗り出した。
ニ○三高地は、前記の通りロシア軍側から重要視されていなかった。守備兵およそ一個大隊しか置かれていない前哨陣地に向かって、日本軍の大軍が駆け上がり、瞬く間に高地占領に達した。そして直ぐに観測所を設置した。
この時、ロシア側からも日本軍の動きを捕えていたが、何故前哨陣地一つのために大兵力を投入したか、まだ分からなかった。
戦闘から数時間後、旅順艦隊の寄港する旅順港に不気味な轟音が鳴り響いた。戦場から響く砲音に近いが、この響く音は戦場の砲音よりも恐ろしく、恐怖心を擽る。まるで、何もかも吸い込んで行くかのようであった。
突然、水面に複数の水柱が上がり、艦艇から爆発が起きた。
日本軍の砲弾が、艦隊めがけて落ちて来た。従来の野戦砲ではなく、重砲の二十八糎砲である。
ここにきて、ロシア軍は日本軍がニ○三高地を奪った理由が初めて理解出来た。
ロシア軍は直ぐ様、ニ○三高地奪還のための兵力を投入した。
飛田の予想通り、ニ○三高地は決戦ならぬ『血戦場』となった。ロシア軍が高地に上がろうとしても日本軍の銃弾を浴び、砲弾を浴びた。だが、ニ○三高地に居座る日本軍も同様である。敵味方の砲を受け被害が出た。
しかし、日本軍の旅順港砲撃は続いた。砲撃力は減っても、艦隊への命中率も上がり砲弾が降り続いた。既に日本軍の占領下にあった大孤山から観測砲撃が続けられていたからだ。
陸も海も死闘の場であった。だが、海上は更に悲惨であった。旅順艦隊の軍艦は、当時の主流である『堅艦』であった。そのため、いくら日本軍の砲撃を受けても沈む気配を見せなかった。しかし、船員にとっては地獄であった。艦の上であり、逃げ場など無い。ましてや山の向こうから砲撃してくる敵に撃ち返す術など無かった。
旅順艦隊の各艦艇の上面に設置されている艦橋やマスト、砲身などは見るも無惨に破壊され、至る所に砲撃による大穴が開き、人間は五体を吹き飛ばして消える者も少なく無かった。
日本軍の砲撃が続いた。艦隊は見る見るうちに、何処もかしくも破壊され、『生きた屍』ならぬ『動くスクラップ船』となった。
史実では、第三軍は旅順要塞との激しい死闘の末、ニ○三高地を奪い旅順艦隊に観測射撃を行った。しかし、戦後の調査の結果、第三軍の砲撃で旅順艦隊艦隊に致命傷を与えられず、ロシア兵自らが艦艇のキングストン弁を開いた事により自沈させたという。
だが、史実以上に砲弾を撃ち続ければどうだろう?
第三軍は旅順艦隊が沈むまで砲弾を撃ち込み続けた。
そして、遂に総排水量22万トンの旅順艦隊は旅順の海に沈んだ。
しかし、第三軍も多大な被害を被った。だが、休息の暇は無い。第三軍は直ちに北上を開始した。
旅順には隷下の一個歩兵旅団と二個後備旅団から成る『兵団』を編成し警戒にあたらせた。その兵団長には乃木希典がなった。