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道の向こう  作者: 高田昇
第二部 大東亜戦争
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第十八章 第二次世界大戦

 第一次世界大戦の敗戦によって、ドイツは国際的地位を没落させた。周辺国に領土を割譲されて海外植民地を全て失い、多額の賠償を要求され、軍備における制限まで受けた。多くのドイツ国民の多くは自国の宿命を呪っただろう。


 アドルフ・ヒトラーは、1889年に旧オーストリア=ハンガリー帝国の都市ブラウナウで生まれる。父親との不仲が原因で学業は良く、16歳の時に画家を目指してウィーンに行き美術学校の受験を受けるも失敗する。1913年にドイツ帝国領バイエルン王国の第16予備歩兵連隊に入隊して翌年の第一次世界大戦で伝令兵として出征する。


 戦後も、彼は軍に属し諜報員としていたがドイツ労働者党への潜入を境に、政党の思想に惹かれて軍を除隊してドイツ労働者党の党員となる。ここから、ヒトラーは政治の世界へと入って行き自身の頭角を発揮していく。1920年のことである。翌年には、党内紛争に便乗して党首の座に就く。1928年にはドイツ労働者党改め『ドイツ国家社会主義労働者党』の国政に進出を果たし、1930年に発生した世界恐慌を契機に更に国会での勢力を拡大させる。


 1934年に、ヒトラーは大統領と首相職を兼任した総統職を創設し、自身が初代総統に就任した。そして、翌1935年にドイツ軍の再軍備を実施して急速な軍備の拡大にもり出した。続いて1936年にはフランスとオランダに接する非武装地域のラインラントに進駐を行いヴェルサイユ条約の放棄を決定させた。


 一方、イギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国はドイツの同行を注視はしていたが楽観的であった。甚大な被害をもたらした第一次世界大戦での反省から各国で平和主義政策が目立った。アメリカが提言した国際連盟の創設によるヨーロッパ諸国の参加はもその一つである。1924年に採択されたジュネーブ議定書では『侵略戦争は国際犯罪である』と明記し、第一次世界大戦以前の帝国主義時代の政策と比較すると天と地の差と見て取れる。


 1938年3月13日には、ドイツ改めナチス・ドイツは隣国のオーストリアを合併する。そして同年にチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲に乗り出すに当たり、イギリス、フランス、イタリアを交えた国際会議がドイツのシュミヘンで開催された。


 ちなみに、国際会議には当事国のチェコスロバキアの参加は拒否された。そして、イギリスはドイツとの戦争準備の不足の理由に、フランスはナチス・ドイツの領土拡大政策停止条件を理由に、また対ソ連の防波堤の役割をドイツに任せる理由からナチス・ドイツにズデーテン地方の割譲を許可する形で話は進んだ。チェコスロバキアの意志は完全に無視されたのだ。


 イギリスとフランスは、ナチス・ドイツへ条件付きの宥和政策をとって周辺国との摩擦を平和的解決できると考えていた。だが、坂を下る球体の如くナチス・ドイツの領土拡大政策と周辺国との摩擦は止まらなかった。


 ズデーテン地方は、チェコスロバキアの主要工業地帯であり国家の重要地であった。その要地を失ったためにチェコスロバキアの国力は急速に衰え始め、多民族国家であるため中央政府の求心力低下で各民族が分離独立を起こし、国が割れたチェコスロバキアは尽くナチス・ドイツに吸収合併された。1939年3月15日の事である。


 そして、ナチス・ドイツは次にポーランドを狙った。


 ポーランドは第一次世界大戦の後に独立し、国家振興を起こすためにヴェルサイユ条約でドイツ帝国領であった。ポーゼン、西プロイセン地方を獲得した。そのため、ナチス・ドイツは旧領土奪還のためにポーランドに駒を進めようとしたのである。


 当然、ナチス・ドイツの行動はシュミヘン会議での条約違反であった。英仏は対抗措置としてポーランドと同盟を締結して両国はナチス・ドイツに対抗した。そして英仏は、ナチス・ドイツへの牽制を強めようとソ連への協力を持ちかけた。だが、イギリス政府の足並みが乱れた事が相俟って英仏の足並み事態も乱れ、ソ連との交渉は失敗に終わった。それどころか、油と水の関係であったナチス・ドイツとソ連が1939年8月23日不可侵条約を締結してしまった。


 ナチス・ドイツでは、ポーランドの問題に英仏の介入は必至であると捉えソ連との関係構築は不可欠と定めた。ソ連でも、アジアでの戦争介入の準備を進める一方でナチス・ドイツとの関係を構築させて後顧の憂いを無くそうとした。両国の利害関係が一致したのだ。


 ヨーロッパでの戦争の足音は刻一刻と近づいた。


1939年9月1日

 ナチス・ドイツはポーランドへ進攻を開始した。二日後、イギリスとフランスはポーランドとの同盟に基づきナチス・ドイツに宣戦布告をする。ヨーロッパは再び大戦争の舞台となる。しかし英仏は宣戦布告をしたものの、ドイツ領への空襲や進攻作戦を行わず自国領土の防衛に専念した。開戦以前の陸軍戦力は、英仏が合計して陸軍師団を110個有するのに対してナチス・ドイツの陸軍師団は29個である。英仏が防衛線に徹しナチス・ドイツ軍の戦力の疲弊に合わせて反撃に転じる計画であった。ナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻を始めてから半月の16日時点で国土の半分を蹂躙するにいたった。


9月17日

 ソ連軍がポーランドへ進攻を開始する。ソ連軍の進攻は想定外であり、例え想定していても如何にか出来る事でも無かった。ポーランドは完全に止めを刺されたのである。ソ連軍の進攻は半月後の10月6日をもってナチス・ドイツ軍の占領外の東部を制圧し、ポーランド即ちポーランド第二共和国の領土は消えた。その後、ソ連は朝鮮でのソ連軍艦沈没事件に乗じて日本に対し宣戦布告して極東の戦争に介入し、大部隊を派遣する。そして一方、北欧での基地問題を理由にフィンランドへの進攻も開始する。12月の時点で、戦争は世界大戦の構えを構築していた。


1940年5月10日

 ナチス・ドイツ軍はフランスへの進攻を開始する。兵力の上では英仏軍が優勢であった。しかし、戦略と部隊の質ではナチス・ドイツ軍が勝っていた。機甲戦力の機動力と突破力を持って英仏軍の防衛網を尽く破って行き、戦果の度にナチス・ドイツ軍は士気が向上して英仏側の士気は衰えた。翌月の6月21日、フランスはナチス・ドイツ軍の圧倒的な攻撃力の前に降伏した。


 フランスの降伏の後、ナチス・ドイツと友好関係にあったイタリア王国が戦争に加わる。




 フランスを破ったナチス・ドイツ軍はイギリスへの進攻を開始した。しかし、地理的状況からイギリスは島国であり、イギリス本島から最も近いフランスの間には約40キロほどのドーバー海峡がある。ナチス・ドイツ軍は、イギリス本島上陸作戦の第一段階としてイギリスの制空権奪取のため空軍部隊による渡洋爆撃を行い、イギリス空軍がこれを迎撃する形で一大航空戦が起きた。世に言う『バトル・オブ・ブリテン』である。


 1940年7月から翌1941年5月まで続いた航空戦は、双方とも一千機を超える航空機を喪失し、ロンドンの都市は破壊されイギリスの産業に大きな打撃を与えた。しかし、イギリスの防空網をチスス・ドイツ空軍は破る事は叶わなかった。


 だが、イギリスに対し打撃を与えた事は事実であった。ヒトラーは、イギリスが立ち直る前にソ連への進攻を発令した。独ソ不可侵条約を一方的に放棄する事であったが、ヒトラーにとってはソ連との不可侵条約は一時的なものであると考えていた。ソ連軍の主力が極東に向けられているのである。絶好の好機でもあった。


 1941年6月22日に、ナチス・ドイツ軍は300万の大軍団を持ってソ連領に進攻を開始した。


 ソ連の主導者ヨシフ・スターリンは、ナチス・ドイツとの戦争はイギリスとの戦争の後と考えて長引く日本との戦争に兵力を向けていた。しかし、先日来のナチス・ドイツ軍の動向を不審に感じて極東の部隊をヨーロッパ方面に戻そうとした矢先にナチス・ドイツ軍は進攻を始めた。ソ連軍のヨーロッパ方面の軍は北欧に派遣している部隊とその他の部隊を含めても300万の大軍を迎え撃つには戦力で不足していた。正に喉元に刃を向けられた状態である。


 英仏軍を破り短期間でフランスを降伏させたナチス・ドイツ軍と戦わねばならぬのである。日本との戦争所では無いと考えたスターリンは、イギリスを通じて日本との停戦を強行したのであった。




 日本側は万々歳であった。終わりの見えない筈であった戦争が、ヨーロッパでの戦争を理由に終わりを見せたのだから。しかし、一部でソ連との停戦を拒否してナチス・ドイツ軍と共同で二正面からソ連を挟撃する案が出た。だが、満州と中共との泥沼戦争の継続を懸念する声が多数であり、ソ連との戦争継続派はが伸びることはなかった。


 ソ連との停戦は賛同は一致であったが、その後をどうするかであった。ヨーロッパの戦争に日本が介入するかであった。


 イギリス政府は日本の派兵を要請していた。だが、戦争に介入すれば再び戦費がかかる。その上、ナチス・ドイツ軍が優勢である。


 日本政府がヨーロッパ戦争の介入を是非する中で、日ソの停戦条約が順調に進んだ。ソ連にとって早期に日本と停戦をして部隊を移動させたいがために条約内容は日本優勢化で進んだのだった。


1941年8月3日

 北海道札幌市で日ソ停戦条約が締結された。


 一、日ソ間の戦争行動の停止及びソ連満州軍の占領地の撤退。


 二、樺太島北緯50度以南の日本への割譲。


 三、日ソ両国の60年間の戦争行動の禁止。


 上記三項目が停戦案の柱となった。日本がソ連に対して決定的な勝利を掴んでおらず賠償金の交渉は無かった。しかし、一応の代償として日本軍が占領した樺太島北緯50度以南の領土の割譲で日本側の優勢の証とした。


 だが、この停戦条約には大穴が開いていた。あくまでも日本とソ連の二国間で交わされた条約である。この条約によって中国と朝鮮からソ連軍と満州軍は撤退する。中華民国内では中共と張学良勢力との抗争があるが、あくまで中華民国の国内問題である。問題は日本と満州であった。停戦条約が締結されても日本軍は満州の遼東半島を占領したままであった。停戦案にはソ連満州軍の占領地への撤退はあっても日本軍の占領地撤退は明記されていなかった。


 日本としては、満州との戦争はあくまでソ連軍への加勢勢力と言う風に捉えてあった。そして、日本は満州を国家として承認しておらず、国交も条約も無い。はたまた中華民国領かと言えば否と言う見解であった。満州事変によって満州地方は不法勢力によって中華民国から支配権を奪取されたとして、満州国の領土を所属未定地域と定めていた。


 ということは、所属未定地域である遼東半島の支配権は日本軍と言う国家の代表が『制圧』、言葉を言い包めれば戦争を経て獲得をした。と言う風に解釈をしたのだ。


 満州政府も対応に苦渋した。危機迫るソ連は満州を出し抜いて一方的に日本と停戦をしたのである。政府内からソ連への反感の声が出た。しかし、ソ連は満州にとって欠かす事の出来ない援助国である。仮に、満州がソ連を離れたとしても日本から領土を奪い返す事は容易でない。


 国民や政府内でのソ連に対する反感を抑え、矛先の全てを日本に向けるのに満州政府は苦労した。遼東半島を巡る日本と満州の問題が、後年の両国に大きな弊害となる。その事はまだ誰も知るすべがない。そして、今は亡き飛田源七郎の悲願は叶えられたのだった。

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