第一章 軌跡
明治維新により、日本は近代国家として激動の時代を歩み始め、それと共に歴史上に現れた『ある男』の軌跡を辿ります。
江戸時代の末期、日本は重大な岐路に立たされていた。
欧米との開国である。
日本の政権を担う江戸幕府は、これまでロシアからの通商を拒否し異国船打払令をもって外国を退ける強気な姿勢を通していたが、アジアの大国である清が天保11年(1840)にイギリスとの戦争に敗れ、多額の賠償金を支払わされ香港を失った。これによって幕府は今までの外交政策を一変させ、次々と欧米諸国との間で通商条約や不平等条約を結んで行った。
この幕府の行動は国の将来を見据える重要な事であったが、朝廷の許可を得ずに行った事であり、この事で外国勢力排除のため過激なテロ活動を行う尊王攘夷が生まれた。
その尊王攘夷が特に活気だったのが長州藩である。
長州藩は、周防国と長門国を領国し、戦国時代に中国地方をおさめた大名毛利氏の直系が藩を治めた。幕末には二百もある藩のうち長州や薩摩、土佐、肥前の藩は自国の財政改革に成功し財政的、政治的発言権を高めた雄藩としての一面もあった。また、地理的に国外の情報を幕府より早く得られる。
この長州藩で、嘉永三年(1850)に長門国阿武郡萩町の萩城下平安古に住む長州藩士の中級武士の家の七番目の末っ子として飛田源七郎と言う男が産まれた。
彼には兄が4人と姉が2人いたが四男は病弱であり、長男と次女は夭逝している。
源七郎が13歳の年の文久3年(1863)8月18日、長州藩は中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派により京都政界から追放される屈辱を受けた。
更に翌年の元治元年(1864)、京都に潜伏していた長州、土佐藩の尊王攘夷の特に過激派と呼ばれる一派は三条小橋の旅館池田屋で6月5日、会談中に京都守護職配下の新撰組に襲撃され主要人物が殺害される事件が発生する。
この事件により遂に堪忍袋の緒が切れた長州は、同年7月19日の日に軍勢を引き連れて上洛した。しかし、京都警備に当る会津、薩摩、大垣、桑名藩の幕府方を相手に御所蛤御門周辺で合戦を行い敗走をした。この戦闘で源七郎の三番目の兄も長州藩兵として従軍して討戦死をしている。。
長州の不幸は続いた。京都での合戦の後、英 仏 蘭 米の列強四国17隻から成る連合艦隊が馬関に襲来した。長州藩はこれまで攘夷政策により馬関海峡を封鎖していた事により経済的損失を被った英国の報復であった。ここでも長州は完膚なきまでに叩き潰される。
国内でも、先の合戦によって朝敵となり諸藩36国から成る討伐軍が組織され、総勢15万の大軍が長州に侵攻してきた。一方で、戦う余力のない長州藩内では、俗論派という保守派が藩の政権を握っており、迫り来る幕府に屈服した。
この時、14歳の源七郎は郷土長州の惨状を常に山の中や、遠い場所から見ていた。その都度、国の行く末を憂い幕府の弱腰と旧態依然の長州を呪ったのだった。そして翌年の元治2年(1865)、源七郎は高杉晋作が組織した奇兵隊に年齢を誤魔化して入隊した。
そして同年の12月、高杉晋作は反乱を起こし、瞬く間に藩内の俗論派を一掃して藩の政権を握った。
幕府は直にに第二次長州征討を開始し、諸藩に出兵を煽った。しかし、薩摩は動かなかった。この時、坂本龍馬の仲介により、長州と薩摩は同盟を結んでいた。そのため、長州の諸隊に薩摩経由で最新鋭の兵器が供給され、長州軍の士気が高まり、西洋式の軍事鍛練を受けた諸隊は質をもって幕府軍に挑み、各戦線で撃退した。
そして慶応4年(1868)、薩長土肥から成る西南諸藩は倒幕を開始した。源七郎は、山県有朋と黒田清隆を指揮官とする北陸道鎮撫総督府の下で北越、会津、函館と各戦場を転戦していった。その都度、源七郎は良く戦った。一個小隊を率い幕府側の中隊規模の部隊を奇襲や釣り野伏せをもって蹴散らした。
また、会津では長州の部隊に軍規を一方的に無視をして、八月十八日政変、禁門の変、長州征討など数々の屈辱を受けた敵の土地で略奪や暴行が行われる中、源七郎率は自分の隊に徹底して軍規に服するよう厳命したが、軍規に違反した部下が数名出た。彼らを源七郎は斬り伏せた。
この事態は、上官である山県の耳に届き源七郎を呼び事の詳細を訪ねた。
源七郎は、軍規を守る兵士こそ強兵として国を守り国を強くするものだ。と問い、そのためには、どのような理由であろうと軍規を乱す者は私情を捨てて裁くものだと言った。後に山県は、戦争での源七郎の功績と彼の軍人としての素質を見抜き、重職に着かせるようになる。
明治維新後の源七郎は陸軍に入り、新政府の政策に反対する各地の士族反乱の鎮圧に従事していき、西南戦争の時には大佐となっていた。
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