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道の向こう  作者: 高田昇
第二部 大東亜戦争
19/21

第十七章 二正面反攻作戦

1940年9月

 北海道での戦いは、ソ連海軍水上艦艇部隊による稚内沿岸部着上陸地点への艦砲射撃から始まった。日本軍は稚内の沿岸部の数ヶ所に簡易な砲台を設置されており応戦したが、ソ連軍に打撃を与えられず瞬く間に破壊された。


 沿岸部への艦砲は数時間に及んだ。そして着上陸地点をほぼ手中に収めたと判断したソ連軍は、翌16日に侵攻作戦の第二段階へと入り陸軍部隊の上陸を開始させた。しかし、樺太と北海道には海が隔てていたため短期間で100万単位の大軍を上陸させるのは不可能であったが、それでも上陸部隊の規模は日に日に大きくなるため日本陸陸軍は苦戦を強いられた。


 北海道に配置されている日本陸軍の師団は、地元の旭川第7師団、本州のから派遣された第13師団と第15師団の三個だけであった。宗谷海峡の制海権を得て部隊揚陸に勢いにのっていたソ連軍は稚内から南下して支配地域の拡大を図り、日本陸軍が本格的な砲火を交えたのは9月20日の事である。


 日ソ両軍の戦闘は凄まじいものであった。ある戦線では数キロメートルにわたって日ソ両兵士の遺体で地面を覆っていた。ある遺体は体の一部や大半が欠如しており、ある遺体は日ソ両兵士が壮絶な格闘の末に相討ちとなったのか組みあった状態で息絶えていた。しかし、戦局は順調に部隊を上陸させ戦線に送るソ連軍に対して日本軍は部隊の増援も乏しく常に守勢であり日に日に戦線を南下させて行き12月には士別市が日本軍の最前線となった。


 第13師団の師団長は飛田貞直の次男、飛田輝定ひだ てるさだ中将であった。飛田は、兵士の士気を鼓舞しようと自らもゲートルの短靴に履き替え泥と埃で汚れた軍服のまま前線の兵士たちの所へ行き励ましまわった。


 彼の工夫と行動は、前線で戦う兵士たちの士気を保ちソ連軍の侵攻を遅滞させる一翼を担っていた。


 だが、日本軍はソ連軍への反撃準備を着々と整えていた。陸軍は新設師団を完成させて行き、海軍は宗谷海峡の制海権奪還のための部隊が整えられていた。そして、日本軍は制空権の支配のため陸軍の主力戦闘機である九七式戦闘機と海軍の主力戦闘機である九六式艦上戦闘機に代わる新型戦闘機の実戦配備も急ピッチで進んでいた。




 日本軍は、明治維新以来の最大規模の戦争を戦っていた。南方では中国大陸と朝鮮半島で戦い、北方では北海道で強大なソ連軍と雌雄を決していた。


 戦争は、ソ連軍の大軍の前に日本軍は守勢を強いられてはいた。しかし、劣勢ではなかった。


 日ソ開戦後、日本陸軍の編成は以下のようになっている。


 第3軍

 支那軍

 朝鮮軍


 日本陸軍の部隊編成は師団-軍(2個以上の師団を隷下に持つ)-総軍(2個以上の軍を隷下に持つ)となっている。この内、北海道に配備されている第3軍以外の支那軍と朝鮮軍は総軍であった。


 また、二つの総軍は帝国の国外で外国軍と共同で戦うため、日本軍の大本営とは別の指揮系統の下にあった。


 朝鮮軍は『日韓連合軍司令部』の指揮下にあり、支那軍は『日中連合軍司令部』の指揮下で行動していた。


 そして、朝鮮軍を率いる指揮官が飛田貞直の長男、飛田義直ひだ よしなお陸軍大将であった。彼は叔父の飛田源七郎に比べて優れた将では無かったが、優れた部下が多くいた。


 朝鮮軍総司令部に石原莞爾いしはら かんじと言う少将の参謀がいた。彼は、日ソ戦争を開戦以前から推測していた。そして、開戦に備えて朝鮮、中国、満州の地形調査を足掛け六年かけて行い作戦を練っていた。


 飛田は石原の意見を十分に聞き入れて作戦の戦略を執り、隷下部隊に命令をだしていた。


 朝鮮軍隷下には仙台の第2師団が組み込まれており、師団隷下の歩兵第15旅団の旅団長に宮崎繁三郎みやざき しげさぶろう少将がいた。


 彼は戦争を通じて戦上手と呼ばれるようになっていた。抱える戦場は常にソ連軍の猛攻にさらされて戦力的劣勢であるのに、ソ連軍に一泡も二泡も吹かせる戦果を出し続けていた。飛田は宮崎の活躍に期待を込め、彼の必要な支援を惜しまなかった。


 また、朝鮮軍の隷下には朝鮮半島を担当する陸軍航空隊も加わっていて、隷下の加藤健夫中佐率いる飛行第64戦隊が目覚ましい戦果を上げていた。


 飛田義直の存在は、ソ連軍に少なくない影響を与えていた。彼の叔父の存在はソ連軍人が知らない筈がなく、日韓連合軍の抵抗も合間って士気は決して高いものではなかった。


 そして朝鮮軍総司令部では、ソ連への反攻作戦に向けてある作戦が計画されていた。




1941年

 日本が戦争を始めて2年を過ぎ、昭和も16年目を迎えた。日本軍の反撃は海軍の制海権の確保から始まる。同時期に津軽海峡と旅順のソ連海軍部隊への攻撃を行う事でソ連軍の動揺を誘うのが狙いであった。


 制海権獲得の先陣を飾るのが日本海軍の空母機動部隊であったが、空母部隊は日ソ開戦時から活躍の出番が少なく輸送船団の護衛など後方支援任務にまわされて目立った戦果を挙げていなかった。


 海軍でも陸軍同様に航空機の有効性は認知されてはいた。だが、海軍の航空機使用はあくまで主力艦隊による艦隊決戦の支援任務としての運用に止まっていたのだ。そのため、沿岸部防衛に戦略転換をしたソ連海軍は日本艦隊との大規模な艦隊決戦を避け小部隊による遊撃戦闘に徹していた。


 開戦当初に就任した連合艦隊の司令長官は愚将では無かったが優れてはいなかった。そして、戦争中中に病を患い司令長官の席を降りる事となった。


 新たに司令長官に就任したのは海軍大将の山本五十六であった。


 山本は日本軍の反抗に伴う制海権制覇に向け、海軍史にその名を轟かす戦略を企てた。


 雷撃機と急降下爆撃機を主力とした航空部隊による敵艦隊への攻撃である。


 大胆な作戦だけに、半信半疑で中々支持を得ない海軍軍令部と連合艦隊内の艦隊決戦派を押し切り、山本は作戦を支持する航空派と共に作戦の強行に踏み切ったのだ。


 1月13日黎明、万全の備えで出撃した二つの空母機動部隊は、それぞれの攻撃目標に向けて攻撃部隊を放った。


 この時、日本海軍は九六式艦上戦闘機に変わる新しい艦上戦闘機を投入した。零式艦上戦闘機である。防弾性を犠牲にする事で得た抜群の旋回性能と3000㎞を飛ぶ長い航続距離、弾薬数こそ少ないが20㎜機関砲を取り付けた事による敵戦闘機への一撃必殺の破壊力を有し、九六式艦上戦闘機を凌駕する性能を幾つも持つ戦闘機である。


 最初に戦闘が始まったのは津軽海峡の方である。第一目標が、樺太の北海道侵攻の前線基地と兵站拠点を兼ねる大泊ーコルサコフーの軍港を空襲した。


 港には北海道に向かおうとする多くの艦船や潜水艦、陸上には補給物資、戦闘車両などが占めていた。


 攻撃側からすれば目暗撃ちでも攻撃しても必ず命中するだけの規模であった。


 爆撃隊は陸上物資と施設の破壊にあたり艦攻隊と雷撃隊は艦船、特に輸送船と潜水艦の攻撃に専念した。


 空襲は第一次攻撃と第二次攻撃の二回に渡る数時間の攻撃でソ連軍の樺太兵站拠点は甚大な被害を被り、後の戦いに多大な影響を及ぼす事になる。


 そして樺太を襲った空母機動部隊は、稚内に橋頭堡を築いているソ連軍への攻撃を行う。


 また、旅順の方を担当した機動部隊も攻撃部隊を指す向けた。ソ連の旅順軍港は樺太ほどの部隊や規模ではなかったが、港内に停泊していた艦船と陸上施設及び物資、港内周辺部の永久堡塁に攻撃を与え、旅順のソ連軍に手痛い被害と戦意を挫かせた。




 2月上旬、新たに編成された新設師団がソ連軍撃退のため北海道に集結した。第3軍は部隊増強に伴い総軍の『北部軍』に昇格する。その際、飛田輝定は新設された軍司令官となる。また、陸軍航空隊は海軍の新型戦闘機同様に九七式戦闘機に代わる新型戦闘機を実戦投入した。


 一式戦闘機『隼』である。九七式戦闘機の軽快な運動性を受け継ぎ、航続距離を当時の列強国の開発した戦闘機と同水準の1000㎞以上とし、機首に12.7mm機関砲を2門搭載している。ソ連軍もI-16に代わる新型戦闘機のYak-1を配備していたが、航続距離は600㎞台で隼と比較すると飛行時間に大きな差が開いていた。隼の性能は世界高水準であったと言っていい。


 北海道の陸軍航空隊は、ソ連軍戦闘機の弱点を攻める形で制空権確保に乗り出した。戦闘機部隊が波状攻撃を仕掛けた。宗谷海峡の制海権を取られて補給の乏しいソ連軍の航空隊は急速に弱体化していき、地上部隊も空襲によって甚大な被害を受けた。


 北部軍の地上軍もソ連軍の弱体化を見計らって部隊を北上させたが、一方で海軍の協力と護衛の下で稚内からほど近い天塩平野の沿岸部に逆上陸させてソ連軍への挟撃作戦も開始した。


 日が経つ事にソ連軍の占領地は減り、北海道はソ連軍の地獄となった。占領地で蹂躙されていた地元住民によるソ連兵士への虐殺事件が複数発生したのだ。酷いところでは大隊規模のソ連兵士が皆殺しにされた。


 4月頃には、殆どのソ連軍占領地を奪還した。


 北海道の戦いが日本軍の優勢であることを受けた大本営では、新たに樺太攻略作戦も計画された。




4月下旬

 朝鮮半島で戦う日本軍にもようやく一通りの戦力が揃い反撃に転じられた。朝鮮半島でも、北海道のように戦い5月上旬には日韓連合軍の前線が39度線を越えていた。


 そして、戦局を見極めて朝鮮軍総司令部では秘めていた作戦を結構するに至った。


5月21日

 北部軍が樺太攻略作戦を開始して一週間が経過していた。


 朝鮮軍は、海軍の協力を得て余剰の戦力を旅順に差し向けたのだ。主力を朝鮮半島や中国に投入するソ連軍と満州軍に対して遼東半島を占領する事で敵軍の混乱を狙った作戦である。


 年明けから続いた日本海軍の攻撃で旅順軍港と陸上施設、周辺地域は完膚無きまでに破壊されており、大連港に上陸を開始した日本軍は抵抗を受けながらも瞬く間に旅順と周辺地域を占領下にいれた。


 6月上旬には、朝鮮軍の別動軍は遼東半島の全域からソ連軍と満州軍を蹴散らして占領地に置いた。


 この頃からである。朝鮮軍司令部の面々が『おかしい』と考え始めたのは。


 前線のソ連軍の抵抗が日に日に弱まってきたのだ。朝鮮半島で日本軍が反撃に出たとはいえ、ソ連軍の抵抗や逆襲で多大な犠牲を払う中で占領地を増やしてきたのだが6月に入るとソ連軍は気が抜けたかのような状態で日韓連合軍の攻撃から退いて行った。


 樺太では北緯50度を境に日本軍はソ連軍の抵抗によって膠着状態となっているのにだ。朝鮮半島のソ連軍は違った。


6月25日

 日本政府にイギリス政府を通じてソ連から停戦が持ち出された。


 東アジアでの戦争中にヨーロッパでも戦争が勃発し、ドイツ軍がソ連に侵攻を開始したのだ。軍の主力が東アジアにあったため、急ぎ軍をヨーロッパ方面に展開させる必要があった。そして、イギリスもドイツ軍の空襲によって首都ロンドンは脅威にさらされておりソ連と日本の停戦を必要とした。

今回で日本とソ連の戦争は一応の終結となります。そして、日本と満州の関係が…。

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