第十三章 日本介入
1938年11月1日
大日本帝国は中華民国救援のために陸軍6個師団を派兵し、韓国には同国軍と共に満州に侵攻するため3個師団を送った。そして、北海道には駐屯する第7師団に加えて2個の師団を配置してソ連の上陸に備えた。海軍は日露戦争以来の戦時編成である連合艦隊を組織して日本近海の防衛と海上補給路の警備に当たった。
日本の介入によって、風前の灯火であっ中華民国は窮地を一応のところ脱した。中国戦線での反撃作戦の第一段階に、まず日本陸軍航空隊の戦闘機部隊が制空権確保のため動いた。日本陸軍の低翼単葉戦闘機である九七式戦闘機は、旋回性能と格闘性、操縦性、射撃安定性が満州空軍が使用するソ連製の戦闘機であるI-153やI-16より優れていた。また、日本軍の航空兵力が満州軍の航空兵力よりも勝っていた事も要因にあり制空権は短期間に日中側に傾いた。制空権を確保した後、陸軍航空隊は満州軍地上軍や兵站、補給路への空襲を行い戦闘能力の削減に務めた。
12月4日
中国へ派遣した日本軍部隊の集結が完了し、反撃作戦は第二段階に移る。現在、日中連合軍は長江を境に、中華民国の首都である南京から約50キロ西方の対岸に位置する都市儀征を拠点に布陣する満州軍と対峙していた。
長江以北全域を占領下に置く満州軍を駆逐するには長江を渡河しなければ事は始まらない。日中連合軍の航空部隊は、長江対岸部の儀征にほど近い渡河予定地点に連日空爆を行い防御陣地破壊に努めた。また、日本海軍の艦隊が東シナ海の満州軍占領地沿岸部まで接近して陽動作戦を行った。
12月20日
日中連合軍の大部隊が航空隊の支援の下で長江を渡河し、満州軍への逆襲に出た。満州軍は日頃の空襲によって戦闘能力を消耗され、通信系統も破壊された状態で各部隊間での統率に影響を及ぼしていた。まともな迎撃が取れないまま日中連合軍の渡河を容易に許してしまい、各個に分散していた中小の部隊が日中連合軍に撃破されて行った。また、日本軍は迅速な部隊の移動を行うために、騎兵に代わる装甲車両装備部隊も実戦投入された。中満の戦争は、日本軍の新装備の試験に最適な場所を提供したようなものであった。装甲車両部隊も騎兵に劣らない機動力を発揮した。そして、騎兵に勝る攻撃力と防御力を持って満州軍を襲い、戦果拡大に貢献をする。
儀征の戦いを制した日中軍は、満州軍の中国国内での掃討に向けて軍を北進させた。
1939年3月9日
山東省の省都済南で日中連合軍は満州軍に決戦を挑み、6日間の戦いの末に打ち破る。同年7月末に北京を制圧する。この時点で勝敗は決したかの様に見えた。しかし、そうではなかった。満州軍はなおも中国に増援を送り、日中連合軍に抗戦の構えを取った。この頃には戦争の動向を見守っていた四川方面を制圧下に置く中国共産党や西北部を拠点とする張学良の勢力が動いた。元々両勢力と満州は油と水の様な関係であったが、満州が敗れれば次の矛先は自分たちに向けられる。共産党と張学良、満州が日本と中国国民党に共闘する体制を取った。連勝を重ねる日本軍であっても兵力は中華民国軍に比べれば少ない。日中連合軍は4個の軍団-日本軍の名称は『軍』-を編成して方面に分かれ、日本軍は中満の国境付近で満州軍と戦い、中華民国軍は西北部で張学良と共産党勢力と戦う。
9月、華北の石家荘で中華民国軍の軍団が張学良と共産党軍との戦いに敗れて敗走した。このため、敵軍の士気を挙げさせたばかりか日中連合軍は軍団の配置転換を余儀なくされた。そして戦力が減った分、残りの軍の強いられる負担が大きくなる。
石家荘の戦いを境に満州軍が逆襲に転じた。満州経由で主要兵器を供給された張学良の勢力と共産党にが中原部に進攻し、日中連合軍の兵站基地として機能していた主要都市を陥落させ補給路の遮断を図った。日中連合軍もただ敵の策略に翻弄されるままではなかった。日本本土からの増援軍が中国に上陸した。中国の戦争は、2つの陣営に分かれた複数の国や勢力が入り乱れる泥沼の戦局に陥った。
日本の陸海軍の戦略の中枢である大本営では、満州国内への侵攻の是非が議論された。余談だが、大日本帝国憲法の規定によって政府が戦争の意向を固めれば、後の戦争遂行は軍部が行い政府は干渉できない。これを統帥権と言う。
中国での戦局を打開するために将来、ソ連との全面戦争覚悟で満州に攻め込むか。中国の戦線は戦いが長引けば日本は疲弊する。中華民国国内は厭戦気分が高まり戦争所では出はなくなる。
ソ連製の装備を使用する満州軍との戦争でソ連軍の装備の分析が出来た。装備の質では日本はソ連に勝てなくとも負ける事は無い。しかし、ソ連の物量には負ける。日露戦争は、ロシアの勢力内から集結したロシアの大軍団と物量に日本軍が敗れた。ロシアへのトラウマが日本軍の主要人達の脳裏を支配していた。
この時、満州やソ連に放たれた日本の諜報員は情報収集に明け暮れ、様々な情報網や協力者によって満州の軍事情報を得て日本へと送って行った。そして、彼らの得た情報を総合した結果、在満ソ連軍が本国より重砲や軍用車両、航空機を満州軍に供給する一方で自軍の部隊にも配備され増強されていた。そして、ウラジオストクの海軍基地でも同様で、シベリア鉄道を通して軍艦の資材を輸送させて現地で建造させて進水させていた事がわかった。つまり、極東ソ連軍は日本との戦争の準備を進めていた。
仮にソ連との戦争をしたとしても、どの時期に停戦をするかが問題となる。停戦の時期を誤ればソ連の物量に大陸で戦う日本軍は撃破され、中国、朝鮮半島もソ連の勢力下になり、最悪の場合は日本本土に進攻される可能性もある。
日本政府も日露戦争の時の様に海外に人材を派遣し、日本の正当性を主張するとともに外貨獲得に励んでいた。アメリカは日本を支持した。しかし、日露戦争の時ほどの支援は得られなかった。日本が中国での戦争で満州や社会主義勢力を一掃と国力の低下を望んでいた。日本に代わって自分らが中国に進出するために。ヨーロッパでも同様であった。イギリスやフランスも日本の支持を示すも、勢力を拡大するナチス・ドイツの動向に注視しており、日本への支援をする余裕がなかった。