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道の向こう  作者: 高田昇
第二部 大東亜戦争
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第十二章 中満戦争

 ソ連と満州義勇党の共謀によって建国された『満州国』を中華民国は国際連盟の場で訴え、加盟各国が中華民国の立場を支持した。特に常任理事国の大日本帝国とその同盟国である大韓民国からの支持は大きかった。


 韓国にしてみれば社会主義国家がソ連に続き二ヵ国が自国と隣接する事になり、国内の社会主義勢力が活発になる可能性がある。韓国の同盟国の日本にしても、韓国で社会主義革命が起きれば日本にも飛び火する事は火を見るより明らかである。


 反社会主義国家にとっても決して対岸の火事ではなかった。


 1932年2月に国際連盟の総会で満州国解体案が大多数の賛成で可決された。しかし、国際連盟の満州建国への非難がソ連の連盟脱退に繋がってしまう。


 これにより、ソ連は満州国の開発の自由権を得た。そして満州国にしてもソ連からの支援を受け、国家体制の基盤が固められ、軍隊においても兵器の供給を受け軍備の近代化に拍車がかかった。


 満州国とソ連は周辺国の勢力均衡を崩してしまった。事態を重く受け止めた大日本帝国、大韓民国、中華民国の三ヵ国は将来の戦争に備えて軍拡を始めた。そして自然と満韓中立線、中満国境線に両国軍が部隊を多数配備させて行き、緊張状態となった。もし、満州との国境で戦争が起きれば、戦火は極東アジア全てを巻き込む大戦争へと突入する。世界の注目を集めた。




 ワシントン体制後からの大日本帝国について語る。


 第一次世界大戦後の戦後恐慌、続く関東大震災、昭和恐慌と日本国内は震災や恐慌による不況に見回れるも、国内の開発の推進と韓国、中国との貿易によって辛うじて景気の回復を見い出した。


 軍事について、昭和初期の大日本帝国軍の戦略思想は世界最高水準に達していたと言っていいだろ。


 昭和5年-1930年-の時点で日本軍の陸軍常備兵力は13個の師団で20万の常備兵力であった。この兵力で敵国から日本と韓国を防衛して行くために精神主義にとらわない合理性を求めてあらゆる戦略研究が日夜行われた。そして、導き出された結論と言うのが新兵器の積極的導入と運用による新戦術の考案であった。この新兵器と言うのが、飛行機と戦闘車輌である。その後、満州事変を経て師団の増設が進められた。


 海軍においても、昭和10年時の主要艦艇は、


戦艦4隻(内、艦齢20年以上が2隻)

重巡洋艦4隻(内、艦齢20年以上が2隻)

軽巡洋艦8隻(内、艦齢20年以上が4隻)

航空母艦6隻(内、小型空母2隻)

駆逐艦32隻

潜水艦18隻

その他戦闘及び補助艦艇数十隻


 これらの保有する艦艇が日本海軍の全力であった。日本海軍が仮想敵国と定める米英海軍の強大な艦隊に勝つためには、陸軍同様に航空機の戦略的な運用と潜水艦の活用が決め手となる事を結論付けた。


 仮想敵国と比べて、日本軍の少ない戦力でいかに効率的に勝って行くか。日露戦争以降、常に己れを知り、相手を知り合理的可能性を追求する軍隊へと成長していた。


 そして、満州国との有事に備え陸軍は常設の13個師団に加え9個の師団を新設させた。

海軍においても、艦艇の建造に拍車がかかった。




 後に、東アジアの国々を巻き込んだ戦争は『極東大戦』と呼ばれ、日本では『大東亜戦争』と呼ばれる。大戦は、満州と中華民国との国境線での衝突が発端となって勃発した。


 だが、戦争の火蓋を切ったのは満州でも中華民国でもない。中華民国国内に勢力を持つ、中国共産党である。中満両国を交戦させ、漁夫の利を得て支配地の拡大と中国全土の社会主義革命をもたらすため起こした策略であった。


1937年7月5日

 北京郊外から程近い所に中華民国と満州共和国の軍事境界線があった。その境界線には中満の軍が睨みあっている。そこへ中国共産党の工作員が満州側陣営に向かい銃撃を行い満州兵数人を射殺した。


 満州軍は中華民国軍からの銃撃と決め、部隊を越境させて中華民国軍に攻撃を加えて一帯を占領した。大東亜戦争における『中満戦争』と呼ばれる戦争の始まりである。


 翌日には戦闘の事実が両国の報道機関によって国民に知れ渡る。だが、戦闘の状況や経緯等よりも、相手国への無法な攻撃の非難が主な内容を占めていた。そして、いよいよ中満両国の国民感情は、満州事変以来の対立に火が着き両国世論の大半が敵国討伐に沸いた。


同7月6日

 満州政府は、中華民国政府に対して数カ条の要求を実質の最後通牒と言う形で提示した。


・満州国独立の容認

・中華民国政府が拘束する社会主義者の解放と国内の社会主義の容認

・日本、アメリカ等からの兵器供給の停止


 この最後通牒が中華民国総統蒋介石に届けられるが、蒋介石は迷わず満州からの要求の拒否を通達して徹底抗戦の意志を表明した。


7月7日

 満州政府は占領地の拡大と戦線への部隊の増強を決定する。短期決戦を持って中華民国軍を各個撃破した後、華北地方を占領下に置いて講話を成立させる戦略を立てた。一方の中華民国は、華北地方で満州軍を人海戦術を持って撃破して講話に持ち込む戦略を立てていた。


 この時、中満両国は、互いに支援国である日本とソ連の派兵要請という考えには至らず、当事国のみで事を済まそうとした。だが中華民国と満州国の戦火は、華北を主戦場にして長期化して激しい攻防が繰り広げられた。この間、両国は総力戦の構えをとり、進まぬ戦況に双方の軍は増援を送り続け、数百万に達する軍勢が入り乱れた。




 戦争は大局を見い出せぬまま、年を越して1年目が過ぎた。この総力戦は発展途上国である中華民国の国家基盤に大きな打撃を与えた。


 戦争によって国民の生活が貧窮した。中華民国の国民は、満州に対するかつての反感を忘れ、国民党政府に対する反発が強くなった。そして、この国民の反感を逆手に取り、戦争形勢を揺るがす一大事が起きる。


 かつての北洋軍閥奉天派の首領張作霖の息子で、現国民政府全国陸海軍副司令官の地位にあり、前線に立つ張学良が反乱を起こした。彼は張作霖爆殺後に奉天派を継ぎ、軍閥を就いたが早々に蒋介石の国民党に降伏して、改めて満州の支配権を得た。しかし、満州事変によって彼の満州は社会主義者によってあっという間に奪われてしまった。だが、張学良の恨みの矛先は蒋介石に向けられた。蒋介石は満州への出兵どころか撤兵を行った事を義勇党以上に根に持った。これが彼に反乱を決意させたきっかけである。


 張学良は、中国西北部と華北部を支配下に置き中華民国からの離脱を宣言した。これによって、前線の中華民国軍の指揮系統が大混乱した。そのため多くの兵士が張学良に付くか、満州軍の捕虜になるかで分かれてしまい、現役兵の大半を失う大被害を招いた。


 更に国内の共産党が四川地方の内陸部を拠点に各地で武装蜂起を起こして中華民国軍に攻撃を開始した。現役兵を大量喪失して、有効な対処のとれない中華民国軍は各地で共産党軍に敗北を続けた。この局地戦での共産党の連勝が、貧窮に苦しむ人々の支持を集めて行く。


 中華民国は、各方面から攻撃を受け、敗北を重ねて支配地の多くを失い続けた。開戦から1年3ヶ月経過した10月時点の中華民国の勢力圏は、長江以南から華南地方の平野部までとなってしまった。


 劣勢の戦局に追い込まれた蒋介石は、遂に大日本帝国に派兵の要請を始めた。しかし、日本からは『検討中』と言う返事しか帰ってこず、再三に渡って派兵を要請した。


 日本政府は派兵の有無に躊躇していた。中華民国と関係を強化しつつ満州との戦争に備えて軍備を整えて来たが、あくまで満州との全面戦争を起こすもので無く、力の均衡による平和の維持を目指すものであった。


 もし、日本が中満の戦争に介入すれば満州の友好国であるソ連の対日参戦を招くのは目に見えていた。だが、中華民国の防衛は日韓の安全保障上欠かせない問題である。


 最終的に帝国政府は日本の進路を天皇陛下の英断で決める事にした。即位して14年目、37歳の若い天皇に大日本帝国の国運を任せたのである。


 天皇の決断は揺るぎないものだった。かつて日露開戦の決断を下し、最大の国難に立ち向かった祖父明治帝の姿と重ねた。そして内閣閣僚、元老の前で告げた。


 「危機に瀕する友国を助け、運命を共にせよ」


 この言葉に大日本帝国の方針は決まった。

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