第十一章 満州事変
話を日露戦争終結後に遡る。ポーツマス条約によってロシア帝国は満州の支配権を確固たるものとする。旅順においても小型の巡洋艦に制限をされた旅順艦隊も再編された。
清国から満州の割譲という案が持ち出されたが、国際社会の圧力により白紙となる。それでもロシアからの投資と企業の進出によって満州の開発と入植は着々と進められた。しかし、全てが上手い様にはならなかった。ロシア帝国の支配に満州各地に匪賊という武装集団が続々と出現してロシア人への殺戮事件が多発した。ロシア軍は匪賊の掃討に出たが匪賊の方が一枚も二枚も上手で、遊撃戦を持ってロシア軍を翻弄させる。
そもそも満州に駐留するロシア軍自体の兵力がポーツマス条約によって兵力が制限されていた。対する匪賊は非戦闘者を含めて数百万に及んでいた。匪賊の中で特に突出していたのが『義勇党』と呼ばれる集団で、ロシアと戦う匪賊を約300万以上を束ねる一大集団であった。ロシア内外から一目置かれた組織である。匪賊を掃討する筈のロシア軍が、逆に匪賊に掃討される有様であった。
匪賊とロシア軍との戦いは十数年続いた。その間、300万の集団を持つ義勇党内部で大きな変化が起きて来た。満州人民の自由と平等が義勇党の原動力である。その思想が『義勇党を中心とした満州人民の自由と平等』へと変わった。義勇党独自の社会主義に似た思想が芽生え始めて来たのだ。
義勇党とロシアとの争いは1917年、第一次世界大戦中に起きたロシア革命をを持って終了する。
日露戦争以降、ロシア帝国国内は混乱と貧困が続いてきた。しかし、ロシア帝国が大日本帝国に辛勝したことで反政府運動の抑制には繋がったが、反政府側は次の機会を持っていた。
そして、サラエボ事件に端を発した第一次世界大戦の介入とドイツ帝国軍へのロシア帝国軍の敗北を機に反政府運動団体は一大革命を始めた。1917年の二月革命によってロシア帝国ロマノフ王朝は潰え、ゲオルギー・リヴォフを首相とする臨時政府が成立する。
しかし、成立して間もない臨時政府は同年十月の革命によって倒れ、臨時政府と二重政府状態だったボリシェヴィキと呼ばれる派閥が主導権を握り、ソビエト-労働者・農民・兵士のボリシェヴィキ内の『評議会』-に権力を移譲させた。
この革命政府内の抗争とドイツの戦争の混乱に乗じて、旧貴族、軍人、自由主義者など反革命政府派勢力が白軍を組織して蜂起した。ロシアで内戦が起きた。
ロシア内戦はボリシェヴィキ政府側に利があった。ボリシェヴィキの支配地域はロシア全土の9割以上を占めており兵の大規模徴集が可能であった。また、ボリシェヴィキ政府はこの内戦に乗じてロシアの勢力圏内にある満州の義勇党に接近した。
この時、義勇党はすでに満州の裏政府として君臨して内部組織は独自の社会主義体制に染まっていた。
義勇党とボリシェヴィキ政府は『ある条件』を持って盟約を交わし、満州、シベリア方面の白軍を義勇党の協力を持って攻略しっていった。
一つ余談に、ロシア革命による大日本帝国のロシア干渉戦争についてを書く。ロシア革命によって社会主義思想が世界に飛び交った。『全ての平等』が社会主義の根幹である。つまり日本の国家の在り方である天皇制を真っ向から批判するもので、日本政府は社会主義思想を敵視した。日本のみならず諸外国列強もそれぞれの理由の下、社会主義を警戒した。
1918年に第一次世界大戦も大局が決し、大日本帝国を含む列国が連合軍を持って『革命政府からチェコ軍団(オーストラリア=ハンガリー帝国軍の捕虜)』を救出を名目に挙って出兵した。
大日本帝国軍は韓国軍と共に出兵し、樺太、ウラジオストクなど沿海州の沿岸南部を限定に戦った。この戦いで日本軍将兵は『日露戦争の恨み』を合言葉にボリシェヴィキ政府側の労働者や農民を中心としたパルチザンに善戦した。予想以上の快勝に酔ってウラジオストク以北への北進も検討されたが、国力の事情により取りやめられ、列強各国軍の撤退に伴い撤兵した。この戦いを後に『沿海州出兵』と呼ぶ。
義勇党の敵であったロシア帝国は倒れた。だが、新しい敵は幾等でもいた。清朝滅亡後に組織され、ロシア帝国に換わって満州の支配権を得た北洋軍閥の奉天派である。
1911年に革命家の孫文の主導の下、辛亥革命によって清王朝は滅亡した。その後、中華民国が新しい中国の国家として誕生したが、清国の元政治家であった袁世凱が政権を握り独裁を行ったため、再び中国国内は混乱した。
袁世凱の死後、各地方勢力が乱立して群雄割拠の内乱状態になった。その中の一つが北京を拠点とする北洋軍閥である。そして奉天派とは、北洋軍閥内の派閥の一つで、張作霖を首領として満州の奉天を拠点に、ソ連からの支援を受けて北洋軍閥を束ねていた。
当初、義勇党もソ連の有効勢力である北洋軍閥の奉天派に助力して中国統一の支援をした。ところが、1928年に華南の広州を拠点とする蒋介石率いる国民党の北伐に敗れた。これにより北洋軍閥による中国統一の可能性は潰えた。この結果に義勇党は北洋軍閥への謀略を謀った。
6月4日
北京から奉天に向かう列車があった。その列車には張作霖が乗車していた。国民党への敗北による奉天への敗走であった。
真夜中を列車が満州の殺風景の平野を走行している最中であった。突然爆音が轟き、暗闇を照らす炎が燃え上がった。列車が爆発を起こしたのだ。この爆発で張作霖は死亡した。
義勇党の仕業であった。程なくして義勇党と奉天派の抗争が勃発した。そして程なくして奉天派は国民党になびき、その傘下に吸収された。以後、国民党をも攻撃の標的となる。
満州を舞台に繰り広げられる同国民同士の血で血を流す戦いの中でもう一つ、満州に存在する勢力であるソ連は、着々と重砲や装甲車を満州へ増派していった。
1931年9月1日
満州の都市ハルピンで義勇党党員の先導による大規模な中国人の社会主義デモが起きた。当初、警察によるデモの中止を図ったが失敗し、一夜を明かすと更にデモ参加者の人数を増やしていた。この時、満州は義勇党とソ連の工作によって社会主義思想が全土に浸透していた。そして、デモの勢いが武力蜂起への変貌を兆して来た。
この事態を受け、中華民国は軍隊を出動させてデモ隊を威圧による抑制に乗り出した。ところが、デモ隊は軍の出動を受け『平等への弾圧』と称し、武力衝突が起きた。
中華民国軍はデモ隊との戦闘範囲をソ連居留民地区外と制限して戦った。ここでソ連と衝突すればデモ騒ぎでは収まらない事態に発展するからであった。しかし、事態は結局最悪の方向へと転んでしまう。
9月7日
ハルピンのソ連人居留民地区にて複数のソ連人の射殺体が発見されたのだ。そして、ソ連の政府と軍は素早く行動を起こした。ソ連政府はソ連人殺害を受けて『中華民国政府による社会主義思想の弾圧と殺戮』と非難した。そして軍への出動を命じた。名目は『居留民と同胞の保護』である。同胞とはこの場合、義勇党の事を意味する。
同日、満州に駐留する在満ソ連軍は中華民国軍への攻撃を行い、沿海州方面のソ連軍も続々と満州に侵入した。
ソ連軍の満州侵攻を受けて中華民国総統の蒋介石は、満州方面から軍を撤退させるように命令を出した。ソ連は中華民国に対して宣戦布告は通達していなかった。ここで中華民国軍がソ連軍に対決の姿勢を示せば、全面戦争は免れない。そして満州は、もはや社会主義の巣窟と化しており、社会主義者の掃討は不可能と判断したからだ。軍を自勢力内まで後退させて防御線を築き、今後の処理を国際連盟の場で処理する方針を立てたのだ。
中華民国軍は戦わずして満州から撤退した。蒋介石の読み通り、ソ連軍は侵攻地域を満州に限定して軍を瞬く間に全域に展開させて行った。
1932年1月1日
ソ連軍は満州全土の制圧を完了した事を宣言した。前年の9月初旬に始まって僅か3ヶ月弱での完遂である。
この満州占領した後、ソ連は満州の支配権を中国人に返還する旨を宣言した。しかし、その支配権の返還先となったのが、中華民国勢力の撤退後に満州で唯一の勢力となった義勇党であった。
これが、1917年に義勇党とボリシェヴィキの間で交された条件である。義勇党は満州を実効支配下に置き『満州義勇党』と改称する。そして、満州の中華民国からの独立を発表して『満州国』を建国宣言した。