表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
道の向こう  作者: 高田昇
第二部 大東亜戦争
12/21

第十章 挫折

 ヨーロッパ東部に欧州列強国の一国に列なるオーストリア=ハンガリー帝国がある。周辺の小国や少数民族を支配する事によって国力をつけて来た国である。支配地の中に、東ヨーロッパ南方のバルカン半島に位置するボスニア・ヘルツェゴヴィナと言う地域があった。


1914年6月

 オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者である皇太子フランツ=フェルディナント大公が次期皇帝として、国民に自身の指導力を示すために夫人ゾフィー・ホテクを連れてボスニアに視察しに訪れた。


6月28日

 皇太子夫妻を乗せた車がボスニアの州都サライェヴォに差し掛かった時だった。


 セルビア人の民族主義者ガヴリロ・プリンツィプと言う19歳の青年が放った凶弾を受け、皇太子夫妻は暗殺された。


 ボスニアにはセルビア人と言う民族がいた。そして、オーストリア=ハンガリー帝国の隣国にセルビア王国と言うセルビア人の独立国があり、ボスニア在住のセルビア人はセルビアへの統合を望んでいたためオーストリア=ハンガリー帝国に対して反発的であった。そして今回の事件に繋がったのである。


 実行犯のガヴリロ・プリンツィプはその場で取り押さえられ、共犯者も次々と捕らえられた。彼等は尋問の末、暗殺に使用した武器などの必要品を全てセルビア政府から供給された物だと白状した。


7月23日

 オーストリア=ハンガリー帝国政府はセルビア政府に対し48時間の期限を設けた10カ条から成る最後通牒を通達した。


 セルビア政府は一部条件を除く全ての条件に同意した。しかし、一部条件の保留を口実にオーストリア=ハンガリー帝国は7月28日にセルビアに対して宣戦布告をする。





 オーストリア=ハンガリー帝国とセルビアの戦争が第一次世界大戦へと発展する。その発展の原因を作ったのがロシア帝国である。ロシア帝国はセルビアを支持して、7月31日に軍に総動員令を発した。


 ロシアのオーストリア=ハンガリー帝国に対しての宣戦布告は時間の問題であった。このロシアの戦争介入に隣国のドイツ帝国は難色を示した。元々、ドイツ帝国とロシア帝国は同盟関係にあった。しかし、ドイツ帝国第3代皇帝ヴィルヘルム2世の代で同盟関係は解消されオーストリア=ハンガリー帝国と軍事同盟を締結したのである。


 当時の軍事同盟は、同盟国の一国が二カ国以上の国と交戦した場合に同盟国が参戦する義務があった。


 ロシア帝国のオーストリア=ハンガリー帝国へ参戦すればセルビアと合わせて二カ国と戦争する事となる。即ち、ドイツ帝国もオーストリア=ハンガリー帝国との同盟に基づいてロシア帝国に宣戦しなければならなくなる。


 そして当時のロシア帝国はイギリス、フランスとも同盟を結んでおり、ドイツ帝国のロシアへの宣戦布告は英仏の二大国との戦争も意味していた。ヨーロッパ諸国とアフリカ、太平洋における植民地もが戦場となる世界大戦となる。


 一言でまとめるとロシア帝国の戦争介入の意志一つで世界大戦に発展するのである。


 ヴィルヘルム2世は、ロシア皇帝ニコライ2世に電報交渉を試みたが決裂した。この交渉の決裂によって列国の参戦と世界大戦は現実の物となった。


 ドイツ帝国陸軍がロシア帝国陸軍と正面きって戦えば兵力にまさるロシア軍に利がある。


 ドイツ陸軍がロシア陸軍に勝るには奇襲攻撃しか無かった。


 そして、ロシアの同盟国であるフランスが存在する。ドイツは東西に敵国がある。


 オーストリア=ハンガリー帝国軍はドイツ帝国軍程の戦略戦術が無く、フランスへの備えもドイツがしなければならなかった。


8月1日

 ドイツ帝国はロシア帝国に宣戦布告し、続いて3日にフランスに宣戦布告をした。


8月4日

 イギリスはドイツ帝国に宣戦布告をした。


 欧州大戦の始まりであった。




 日本は日露戦争以後、第一次世界大戦勃発まで積極的な外交政策を控えていた。


 この時の内閣は、大正3年1月に海軍の汚職事件によって退陣した山本権兵衛内閣にかわり2月に再び飛田貞直が二度目の内閣総理大臣に就任した。


 8月4日のイギリスの対独参戦に伴い、日英同盟に基づいて大日本帝国の対独参戦の旨を英国政府から打診された。


大正3年8月7日

 東京の皇居にて、内閣閣僚と元老が天皇の前で国家の方針を決定する御前会議が開かれた。会議の内容は日英同盟に基づく対独参戦の有無である。御前会議の参加者は全員、日英同盟に基づく対独参戦の方向で一致した。


 続いて軍隊の動員規模と戦線である。ドイツ帝国の中国と太平洋にある植民地攻略は決定されたが、欧州方面への陸海軍の派遣が議論された。


 大日本帝国は日露戦争での傷痕が癒えていなかった。国内発展は途上にあり、陸海軍の欧州への派兵は財政を苦しめる。結局、財政と兵站を理由に欧州方面への派兵は海軍の駆逐艦部隊だけとなった。


 日本政府と軍は対独参戦の準備を進め、8月23日にドイツ帝国に対して日英同盟に基づく宣戦布告を通達した。しかし、一つ想定はされていた問題が起きた。


 ドイツ帝国が持つ中国の唯一の権益は、三東半島にある租借地の青島のみである。その青島を大日本帝国が宣戦布告をした翌日の24日に満州に駐留するロシア陸軍と旅順のロシア艦隊が青島を攻撃して陥落させた。


 ドイツ帝国から青島を奪い、中国進出の足掛かりを築こうとした日本の思惑は崩れた。それでも日本軍は、10月に海軍を持って太平洋にあるドイツ帝国の植民地である南洋諸島を攻撃して占領にした。その後、日本軍は欧州方面に駆逐艦隊を派遣して、英仏の輸送船を護衛しつつドイツ、オーストリア海軍と海戦を繰り広げた。


 欧州での大戦は、1916年2月にフランスのヴェルダン要塞の前にドイツ軍の快進撃が止まり、7月1日にフランスのピカルディ地方のソンムにおいて英仏軍の総攻撃が始まった。だが、ヴェルダン要塞の攻防、ソンムの戦いで英仏連合軍と独軍は決定的な戦果が出ずに着状態となった。しかし、連合軍には日本やアメリカの支援があり戦線の維持は出来たがドイツ軍には日米の様な支援国が無く弾薬や物資が乏しくなり始めた。


 そのため、1917年2月1日にドイツ海軍は『再び』潜水艦を駆使して作戦任務海上の船舶への無差別攻撃を開始したのだ。


 最初のドイツ海軍潜水艦による艦船への攻撃は1914年の開戦当初から実行しており、当初は攻撃する艦船を制限していたが、翌15年から無差別攻撃へと切り替わり、5月7日イギリスの客船ルシタニア号を雷撃して撃沈した。しかし、沈没したルシタニア号にはアメリカ人も多くが乗船しており多くの死者を出した。この事件によって中立の立場であったアメリカの世論はドイツへの反感が多数を占めるようになり、連合国への支援に回ったのであった。


 そして今回のドイツ潜水艦による二度目の無差別攻撃作戦の開始とドイツの対米謀略が発覚したことにより、いよいよアメリカの地独参戦の動きを見せた。


1917年4月6日

 アメリカ合衆国がドイツ帝国に宣戦布告をする。アメリカの参戦によって戦局は連合国軍に傾いた。1918年9月30日、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリ帝国の同盟国であったブルガリア王国とオスマン帝国が連合国に降伏した。続いて11月3日にオーストリア=ハンガリー帝国が降伏する。


 11月11日にはドイツ帝国が連合国との間で休戦条約を調印した。ヨーロッパでの戦争は終結した。




1919年6月28日

 フランスのヴェルサイユで連合国とドイツ帝国との間で講和条約が締結された。それと同時にアメリカ合衆国第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンが、恒久的国際平和を目指す十四か条の平和原則を提言し、国際連盟が創設される事となった。


 大日本帝国も戦勝国の参列に加わり、ドイツ帝国が支配地であった太平洋のマリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島の支配権を国際連盟から委任する形で統治する事となった。委任統治とは名ばかりで実質的に南洋諸島は大日本帝国の植民地となった。


 ヨーロッパでの戦争は日露戦争で疲弊した日本経済に活性化の機会を与えた。


 主戦場が遠いヨーロッパであり、欧州列国が支配したアフリカや東南アジアの植民地の現地民も徴兵されヨーロッパへ大規模な動員が行われた。労働力の減少は植民地での生産を低下させ、海外への輸出に悪影響を及ぼした。そして戦争の長期化によって膨大な物資が必要となりイギリス等から軍事物資の注文が相次ぎ日本は戦争景気に花咲いた。


 さらには国際連盟の常任理事国の一国に名を上げた。これによって国際的発言力を付け念願の列国との関税自主権の完全回復という幕末以来の条約改正が叶った。大日本帝国は国力、国際的発言力などが第一次世界大戦によって飛躍的な進歩を遂げたのだ。


 だが、大日本帝国の国力向上を警戒する国があった。アメリカ合衆国である。


 アメリカ合衆国も20世紀に入りようやく国内の開発が一段落し、海外進出を企てよいとした。大西洋、南米、アフリカ方面は既にヨーロッパ列国の支配下にあり、残るは太平洋と中国権益のみであった。しかし、アメリカの進出にとって目障りな国が日本である。


 アメリカには太平洋に存在する自国領のハワイ、グアムがあり、アジアには1898年スペインとの戦争で獲得した植民地のヒィリピンがある。しかし、この三つの拠点の中間に日本の植民地となった南洋諸島がある。日本は中国への進出を諦めてないにせよ、いずれは太平洋への進出も本格的に乗り出すだろうとアメリカ政府は警戒した。また、日本を国際連盟の常任理事国にまで押し上げたイギリスとの同盟関係も忌まわしかった。


 日本は国力が向上したとは言え、軍事力や経済力はアメリカよりは高くない。そこでアメリカは、これ以上の日本の勢力拡大に歯止めをかけるため一手を講じた。




1921年

 アメリカ合衆国の提唱で開催された国際軍事会議がアメリカの首都ワシントンで開かれた。参加した国はアメリカ合衆国、大日本帝国、イギリス、フランスの4カ国である。会議の内容は、中国、太平洋における権益の相互保障と海軍力の削減である。そして、日英同盟の解消であった。これをワシントン体制と言う。


 アメリカの思惑は見事に命中した。列国との相互保障の確定によって、日英の所有する中国権益、太平洋権益を狙う勢力は無くなり日英同盟は放棄された。


 そしてまんまとアメリカの策略に乗せられた大日本帝国にとっては手痛い打撃であり、外交上の敗北であった。日英同盟によって日独戦争の様に外国との戦争を行う大義名分を得て戦勝国の仲間入りをして自国の権益を広げる機会を得ていた。が、英国との同盟が解消され中国と太平洋の権益拡大を牽制された今、中国への進出という目標は挫折せざる負えなくなった。


 ワシントン体制の確立後、大日本帝国は再び国内の開発と自国勢力の防衛に国力を注いだ。しかし、この結果が軍事費と植民地統治費の増額に歯止めがかかり国内工場へと予算が流れていき後の技術立国日本の礎を築いていく事になる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ