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道の向こう  作者: 高田昇
第一部 黎明
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第九章 惜敗

 日露講和交渉は、満州での日露両軍の戦闘が終了してから約一ヶ月経って開かれた。


明治38年11月15日

 アメリカのポーツマスにて日露間の講和条約が締結された。


 一、ロシア帝国は大日本帝国の北緯三十九度線―平壌から元山―以南の韓国に対する指導権を認める。


 ニ、大日本帝国はロシア帝国の満州に対する指導権を認める。


 三、上記の条約を恒久的平和維持に貢献するために、北緯三十九度線以北の韓国を中立地帯とする。満韓に駐留する日露両陸軍の兵力を制限する。


 四、大日本帝国は、遼東半島、満州における占領地を全てロシア帝国に返還する。


 五、ロシア帝国は、東洋世界の平和と安全に誠実なる貢献を果たすため旅順における海軍力を制限する。



 この上記の五ヶ条が大間かな講和条約の主体であったが、満韓における日露両軍の軍備制限以外は、明治36年10月6日に開かれた日露談判でロシアが日本に提示した内容と全く変わらなかった。つまり、ロシアの要求が講和条約に通ったために、『日本はロシアに敗れた』と世界に報じられた。しかし、日本の国土を割譲や賠償金を支払った訳でもない。陸海軍の主力は健在であった。ポーツマス条約によって朝鮮半島における四分の三の主導権を獲得、ロシアの南下政策に終止符を打ち国土防衛には成功している。


 一方のロシアは、海軍は壊滅し、満州の陸軍は暴走した事実は列国の全てが認知している。日本との戦争で得たものは無く、国内の反政府運動は勢いを衰えさせたとはいえ、ロマノフ王朝への忠誠心は大きく揺らいだ。


 日本がロシアに負けたとは一概にはいえず、正確には『ロシア優勢での引き分け』と捉えた国が殆んどであった。そのため、列強の植民地支配を受けたアフリカやアジアの国々では『小さな有色人種の国が白色人種の大国と互角に渡り合う事が出来た』と、民族自決の気運が少なくとも高まり、独立運動の兆しが起き始めた。また、ロシアを敵視するトルコや北欧諸国などでも、日露戦争によってロシアが多大な被害を被った事を受け、ロシアからの影響下の離脱する気運が高まっていた。



 日本は領土こそは失わずに済んだが、多くの戦没者を出して財政は底を着いた。


 『臥薪嘗胆』を合言葉に飲まず食わずで重税に耐えて、日本の勝利を信じて来た国民達の感情は遂に大爆発をした。その怒りの矛先は政府と軍部である。


 桂内閣は敗戦の責任を負い総辞職した。軍部では特に陸軍が国民感情の矛先にあり、多くの幹部将校が失脚をした。


 その失脚をした多くが軍官を問わず、敗戦の責任を背負い自害をした。



明治38年12月1日

 立憲政友会から伊藤博文の後継者である飛田貞直を首相とした桂内閣に替わる新内閣が誕生した。


 この内閣は、国力の回復を最優先課題とし、軍備は国土と領海の防衛に限定した。


 日清戦争後から日露戦争終結までの日本の国家予算の六割が軍事費に投じられていたが、戦争が終わった事によって多額の軍事費が工業や開発産業に投資される事となった。また、日本国民にはロシアへの敵愾心がまだ根付いており、 これがエネルギーとなり、日本の重工業の発展に大きな拍車をかけた。


 外交においては、日英同盟を継続させた事は言うまでもない。また、外貨の返済が大きな課題となった。


 韓国との関係は、日露戦争中の明治37年8月22日に締結された第一次日韓協定で日本の従属国となっている。しかし、戦争中に大韓帝国皇帝高宗は、ロシア、フランス、アメリカ、イギリスに密書を送り日本の支配からの脱却を謀ろうとした事実が発覚した。そこで、明治四十年に第二次日韓協定を締結させ、韓国皇室の政治的発言権を剥奪し、韓国の国会が内政を行い、外交権を日本に譲渡する事になった。


 特に『韓国皇室の政治的発言権の剥奪』に日本政府は力を入れた。『大韓帝国』から『大韓民国』へと国号が変換されたのはその強い表れである。


 韓国の国防は中立地帯警備と国土防衛が主な任務で、各種兵器軍艦は日本からの輸入を受け近代化を行った。日本も『居留民の保護』を名目とした二個歩兵連隊を主体とした『韓国駐屯軍』を駐留させている。


 明治42年には第三次日韓協約で、日韓の間で軍事同盟が締結された。



 日本陸軍は戦後、日露戦争の敗因を背負わされ、国民からの風当たりが悪かった。その中で、大山巌元帥が飛田貞直内閣の陸軍大臣に就任した。


 大山巌は大人物であった。彼は陸軍大臣の席に座るだけで、陸軍の立て直しを全て有能な部下に任せたのだ。


 明治39年4月には飛田源七郎を教育総監に就かせ、新しい人材の育成と教育を任せ、児玉源太郎には参謀総長を任せ戦闘教義の刷新をさせた。


 飛田源七郎と児玉源太郎のコンビは陸軍の立て直しに当たり共通の思想があった。日露戦争で得た教訓を未来を担う学生達に繋げて行き、何故陸軍は敗れたのか。何に原因が合ったのかを追求して、一方的な思考にとらわれない合理的な思考を持った人材へと教育して行く事であった。


 しかし、二人のコンビは長く続か無かった。明治39年7月に児玉が倒れ、帰らぬ人となった。その後、児玉の後任に日露戦争で第2軍司令官であった奥保鞏大将が就いた。


 奥保鞏も優れた軍人であり、大人物であった。つまり、勝つための方法を合理的に考えて実行する決断力に優れていた。


 そして、飛田と奥も明治維新以来の付き合いであり、児玉の死後、奥とのコンビで陸軍の再建を行った。


 明治41年には飛田は元帥となる。翌、明治42年に参謀長に就いた。この頃には、大山巌に次ぐ実力者となっていたが、政治的野心も無く、陸軍の再建に身を粉にしていた。




 最後に飛田源七郎の晩年を書いてこの話を終わらせて、第一部を終了したいと思う。


 飛田源七郎は老人となったが妻子はいなかった。周りからは養子をもらう話が持ち上がったが、飛田は拒んだ。


 しかし、そんな彼が明治44年に再婚をした。相手の女性は二十代であったが、何処の出生なのかは分かっていない。源七郎との間に二人の娘が出来ていた。しかしこの娘たちは、日露開戦以前に身ごもった隠し子であったのだ。


 明治45年には新たに念願の男子が誕生した。だが、跡継ぎが誕生して程ないうちに源七郎は倒れた。急ぎ病院に担ぎ込まれ治療が行われたが、容体は日に悪化していく。


 高熱で魘されながら、『旅順』と日清戦争で戦死した長男の名前を頻りに発し続けた。その姿と響く声は、まるで母親を呼び求める幼い子供の様であり、見る耐えなかった。


 源七郎が危篤状態となったのは暫くしてからであった。病床には妻子と総理大臣の貞直、彼の息子である陸軍軍人の身内が集まった。


 「源七郎、わしじゃ。貞直だ。分かるか?」

 貞直は源七郎の手を握り話しかけたが言葉が伝わっているかはわからない。


 「お主の妻子はわしが面倒を見る。だから、安心せぇ」

 そう言いながら、貞直の目から涙が溢れた。


 「陸軍の事は任せて下さい」

 と、貞直の息子である軍人が膝を下ろして源七郎に言った。


 「伯父上の志は自分達が引き継ぎます」

 貞直のもう一人の息子が言った。この二人の兄弟は、源七郎の良き後輩であり、愛弟子であった。彼等に今出来る事は、虫の息の源七郎が安らかに旅立てる様に声をかける事しか無かった。


 三人の言葉が詰まり、室内が静寂した。このまま長い時間が経過するのかと誰もが思っていた。


 その時だった。弟の手を握る貞直の手に握力がかかった。目を閉じ続けていた源七郎が目を見開いた。口をパクパクと開き何かを発しようとした。


 貞直と二人の息子が、顔を近づけて発する言葉を聞き取ろうとした。


 源七郎は必死に言葉を発しようとした。


 そして、


 「旅順を取れ…あそこには息子が…多くの英霊が眠っている。…旅順を取ってくれ」

 そう言うと源七郎は再び瞼を閉じた。


 そして再び目覚める事はなかった。享年62。




 同年7月、天皇が崩御した事により明治の時代が終わった。



 『旅順を取れ』

 死の間際に源七郎が残した言葉と意思が、この場にいた人間達に宿り、この事から大日本帝国の歴史は、多くの血で塗り固められながら築き上げられて行く事なり、現代へと続いて行くのだった。




 第一部 終わり。

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