旅の終点。お出口のないグリーン車
旅の終点。お出口のないグリーン車
人間、あまりに退屈が極まると、目の前に差し出された罠がどれほど怪しくても、自ら首を突っ込みたくなるらしい。
金曜日の夜、僕の手の中にあったのは、差出人不明の「旅のしおり」だった。
「なんだ?これ。」
旅のしおり。修学旅行でよくありがちな、あのしおりだ。
「ちょっと分厚いな、これ。学生のいたずら……いや、間違えてポストに入れちゃったのか?」
裏表紙を見る。そこには
「釈 航寂 ――俗名:佐伯航 様――」
と書かれていた。少し不気味だったが、京都の由緒ある寺社ツアーだから、雰囲気を出すためのちょっとした遊びだろう。と考え、しおりを開いて中を見てみる。
明日からの三泊四日、京都の最高級旅館に泊まり、予約の取れない割烹を巡るツアー。ご丁寧にも、明日の朝八時十二分発の新幹線グリーン車の切符まで同封されている。
誰の悪戯だ。僕の住所と名前を知っていて、こんな大金をドブに捨てるような真似をする奴なんて心当たりがない。……けれど。
「まぁ、毎日毎日同じことの繰り返しだし。たまにはいいか。」
明日から始まる予定のない有給休暇を、このカビ臭いアパートでスマホを眺めて過ごすことへの嫌悪感が、僕の理性を塗りつぶしていった。
ベッドの上に寝転がり、もう一度しおりのページをめくる。
単なるパンフレットのコピーではない。僕の名前が印字されているだけでなく、中身を読み進めるうちに、背筋に冷たいものが流れる。
『二日目 昼食:炭火焼ステーキ(※ミディアムレア、ソースはわさび醤油限定)』
『三日目 十三時:カフェでの休憩(※ピスタチオのアイスクリームをどうぞ)』
喉の奥が張り付いたように渇く。
僕は重度の甲殻類アレルギー。なんてことはなく、ただの好き嫌いが激しいだけなのだが。エビやカニが食べられない。しおりのメニューからはそれらが完璧に排除されていた。それだけならまだ、よくある配慮かもしれない。だが、ステーキの焼き加減の好みも、最近僕がひそかにハマっているピスタチオのフレーバーも、ドンピシャで指定されている。
――僕の好みを、僕以上に知っている。
ぞくり、と少しだけ悪寒が走った。
大学時代の友人、会社の同僚、元カノ。知人の顔を思い浮かべてみるが、どれもしっくりこない。こんな回りくどくて金のかかるサプライズをするような奴はいない。
「……まあ、いいか」
ぽつりと呟いた声は、狭い部屋の壁に虚しく吸い込まれた。
奇妙な恐怖よりも、この息が詰まる日常から連れ出してくれることへの期待が勝ってしまった。もしこれが悪質な詐欺で、現地で法外な請求をされたら、その時は逃げ帰ってくればいい。
僕はクローゼットの奥から埃をかぶったキャリーケースを引きずり出し、数日分の着替えを詰め込み始めた。
しおりの1ページ目、明日の最初のスケジュールに目を落とす。
『08:12 東京駅発 のぞみ号 乗車』
その横には、小さな文字でこう書き添えられていた。
『遅刻は厳禁です。今この瞬間から、この美しい旅は始まっています』
カチリ、と胸の中で何かのスイッチが入る音がした。
翌朝、スマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。
遠足の日の子供のように、胸が弾んで仕方がなかったのだ。いつも、仕事のある日なら憂鬱でしかない洗面台の鏡に向かい、お気に入りのシャツの襟を整える。キャリーケースを引いて玄関に立ち、ドアを開けた。
朝の引き締まった空気が、肺を優しく満たす。
しっかりと施錠をして、いつもの通勤路を歩き出す。すれ違うのは、足早に駅へと急ぐスーツ姿の波。昨日までは僕もあの淀んだ波の一部だった。しかし今日、僕の手にはあの「旅のしおり」がある。そう思うだけで、世界が少し鮮やかに見えた。
東京駅の新幹線ホームは、朝の活気に満ち溢れていた。
けたたましいアナウンスが響く中、電光掲示板を見上げる。
『08:12 のぞみ号 号車:八車 座席:十一番A席』
しおりに書かれた通りの列車が、静かにホームへと滑り込んできた。
「この電車か……新幹線なんていつぶりだろ。」
八号車――グリーン車のマークが輝く乗車口から、車内へと足を踏み入れる。厚みのある絨毯が靴底を優しく迎え、車内にはほのかな高級車の匂いが漂っていた。
窓側の十一番A席に体を沈める。深く、包み込まれるような座り心地に、思わず贅沢なため息が出た。
ぷしゅぅ、と静かにドアが閉まり、のぞみ号が滑るように走り出す。車窓を流れるビル群が、見る見るうちにスピードを上げて遠ざかっていく。東京駅を離れた瞬間、肩に乗っていた仕事の重圧が、嘘のように消えていくのが分かった。
「本当に、京都に行けるんだな……タダで。」
窓の外の青空を眺めていると、控えめなノックの音とともに、パーサーの女性がワゴンを押してやってきた。
彼女は僕の席の前で足を止めると、丁寧に頭を下げた。
「佐伯様、お目覚めのお飲み物はいかがいたしますか?」
————ビクッ
「えっ……あ、はい」
まだ名前も名乗っていないのに、人より少し色白の彼女は満面の笑みを浮かべている。
「ご旅行の主催者様より、佐伯様にはこちらを、と事前に承っております」
差し出されたのは、僕がいつも出勤前に好んで飲む、特定のカフェの淹れたてのアイスアメリカーノだった。しかも、氷少なめのカスタマイズまで完璧だ。
驚きつつも、冷たいコーヒーを一口飲む。すっきりとした苦味が喉を潤し、最高の旅の始まりを実感させてくれた。
「旅行の主催者か……」
一体誰がこんな粋な演出をしてくれているのだろう。謎の差出人に対する疑問は、しばらく寛いでいると、極上のVIP待遇を楽しむ純粋な興奮へと変わっていた。
窓の外に京都の街並みが見え始め、新幹線は滑らかにホームへと滑り込んだ。
改札へと向かう人の波に乗りながら、僕はしおりの次の項目を確認する。
『11:45 京都駅新幹線中央口を出て右、ハイヤー乗り場へ』
時計の針は11時43分を指していた。改札を抜けて右へ曲がると、磨き上げられた黒塗りの高級セダンが美しく並ぶ一角があった。その手前、端正なスーツに身を包んだ初老の運転手が、小さなボードを掲げて立っている。
そこには、端正な文字で『佐伯 航 様』と書かれていた。
僕が恐る恐る近づくと、運転手はすぐに僕のキャリーケースに目を留め、深く頭を下げた。
「佐伯様でいらっしゃいますね。お待ち申し上げておりました。お荷物をお預かりいたします」
流れるような動作でトランクに荷物が収められ、後部座席のドアが静かに開く。本革のシートに腰を下ろすと、車内は心地よい静けさに包まれていた。
「本日は、料亭『骨の華』までご案内いたします。道中、お好みの音楽や、エアコンの温度などご要望がございましたら何なりとお申し付けください」
車が静かに発進する。東寺の五重塔を車窓から眺めながら、鴨川沿いを北上していく。窓の外に広がる京都の古い街並みは、秋の柔らかな光に照らされて、まるで一枚の絵画のようだった。
毎日、満員電車に揺られてすり減っていた自分が、今はこうして特別なハイヤーの特等席から世界を眺めている。謎の差出人が用意してくれたこの『非日常』という麻薬に、僕は完全に酔いしれていた。
車は祇園の喧騒を少し外れた、静かな路地へと入っていく。
打ち水がされた石畳の奥に、見事な木造の門構えが見えた。歴史を感じさせる暖簾が風に揺れている。ここが、一般の予約は数ヶ月待ちと言われる老舗の料亭だ。
車が止まると同時に、門の奥から和服姿の美しい若女将がすっと姿を現した。
ドアが開けられ、僕が足を一歩踏み出すと、彼女は満面の笑みで深く一礼した。
「佐伯様、ようこそお越しやす。お足元の悪い中、遠方からありがとうございます。お部屋を暖めてお待ちしておりました」
門をくぐると、微かにお香の匂いが漂い、庭園のししおどしが心地よい音を響かせている。
これから始まる贅沢な時間の予感に、僕の胸は高鳴るばかりだった。
案内されたのは、美しく手入れされた中庭が全面に見渡せる、贅沢な総檜造りの個室だった。
部屋の隅には季節の生け花が飾られ、静寂の中にただ、庭のししおどしが時を刻む音だけが響いている。
「本日の御献立でございます」
すっと運ばれてきた前菜の美しさに、思わず息を呑んだ。
驚いたのはその中身だ。僕は重度の甲殻類嫌いだが、エビやカニの代わりに、今が旬の極上の白身魚や、僕が大好物である鴨のローストが絶妙な仕立てで並んでいる。事前の確認なんて一切していないのに、この料亭は僕の身体の秘密を完璧に把握していた。
「……美味しい」
一口ごとに感動が広がる。お造り、お椀、焼き物。どれもが職人の洗練された技を感じさせる、至高の味だった。日常のストレスが、上質な出汁の香りと共に溶けていくような感覚に陥る。
――だが、焼き物が運ばれてきたあたりで、僕は奇妙な感覚に囚われ始めた。
料理を運んでくる若女将や、お酒を注いでくれる仲居たちの姿をぼんやりと眺めていて、ふと気づいたのだ。
(みんな、ずいぶんと色白だな……)
京都の格式高い料亭だ。おしろいを塗っているのだろう、と最初は思った。だが、よく見るとそれは化粧の白さではなかった。首筋も、着物の袖から覗く手首も、透き通るように白い。まるで長年、一度も太陽の光を浴びたことがないかのような、どこか生気のない、磁器のような白さなのだ。
先ほど僕をここまで送り届けてくれた、ハイヤーの運転手の顔を思い出す。
彼の顔も、バックミラー越しに見た手元も、確かに同じような白さだった。
「お口に合いましたでしょうか、佐伯様」
すっと料理を置いた仲居の女性が、僕に微笑みかけた。
間近で見るその顔は、やはり不自然なほど白い。シミ一つない滑らかな肌だが、唇の赤さだけが、白いキャンバスに血を落としたように鮮やかに浮き上がっている。
「あ、はい。すごく美味しいです。……あの、みなさん、お肌がとても綺麗ですね」
照れ隠しもあって何気なく褒め言葉を口にすると、彼女の動きがほんの一瞬、ピタリと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、細い目をさらに細めて、にこりと微笑んだ。
「恐れ入ります。当家の者どもは皆、主人にお仕えするにあたり、最高の状態を保つよう整えられておりますゆえ」
主人。それは、この完璧な旅を僕に贈ってくれた、あの差出人のことだろうか。
「佐伯様も、この旅が終わる頃には、きっと私どものお仲間でございますよ」
鈴の鳴るような澄んだ声だった。しかし、その言葉の意味を頭が理解しようとした瞬間、背筋に冷たい粟が立つような、形容しがたい違和感が胸の奥に澱のように沈んだ。
彼女たちが部屋を去った後、僕は自分の手のひらを見つめた。健康的な、少し日焼けした、ごく普通の僕の手。
部屋の冷房が、少しだけ強く効き始めたような気がした。
料亭を後にした私は、さらに山の手へと坂を上り、深い竹林に囲まれた隠れ家のような高級旅館に到着した。
玄関で出迎えてくれた女将や数人の仲居たちも、やはり一様に、あの透き通るような白い肌をしていた。静謐な廊下ですれ違うスタッフ全員が、非の打ち所がないほど色白で、誰もが判で押したような美しい微笑みを浮かべている。
案内されたのは、美しく手入れされた竹林が全面に見渡せる、贅沢な専用露天風呂付きの離れだった。
玄関で出迎えてくれた女将や仲居たちも、やはり一様に、あの透き通るような白い肌をしていた。静密な廊下ですれ違うスタッフ全員が、非の打ち所がないほど色白で、誰もが判で押したような美しい微笑みを浮かべている。
「凄いな。京都の格式高い宿だから、美意識や美白のケアが徹底しているんだな……」
そうして、広々とした和室の奥にある檜の湯船へと向かった。
脱衣所で服を脱ぎ、ガラス戸を開けて露天風呂へと足を進める。贅沢に溢れ出る湯に、ゆっくりと身体を沈めた。
「あぁ……」
思わず声が漏れる。芯から身体が温まり、仕事の疲れが湯の中に溶け出していくようだ。見上げれば、竹林の隙間から美しい月が覗いている。これ以上ないほどの極上の夜。謎の差出人への感謝が再び胸に湧いてくる。
――その時、湯船の隅に置かれた、アメニティの木箱が目に入った。
中には上質なタオルと一緒に、丸い陶器の器が入っている。手に取って蓋を開けると、中には真っ白で滑らかな質感の『クレイパック(泥パック)』が並々と詰まっていた。
器の横には、宿のロゴが入った小さな説明書きが添えられている。
『当館自慢の特製白泥パックでございます。お顔や全身に深く馴染ませ、湯船でじっくりとお温まりください。芯まで浸透したとき、当館の真の美しさを分かち合うことができます』
「なるほど、これか」
僕は納得した。あの仲居たちも、運転手も、この宿の特別な泥パックを毎日使っているから、あんなに不自然なほど色白で綺麗だったのだ。謎が解けた安心感から、僕は指先でその白い泥をすくい、顔や首筋に面白半分に塗りたくった。
泥は驚くほど滑らかで、肌に触れた瞬間、吸い付くようにピタりと密着した。湯船に深く浸かり、目を閉じる。
じわじわと身体が温まるにつれて、肌に塗った泥が、心地よく皮膚を締め付けていくのを感じた。数分が経ち、シャワーでお湯をかけてごしごしと擦ると、泥はすっきりと綺麗に洗い流された。
タオルで顔を拭き、脱衣所の鏡の前に立つ。
「うわ、すごいな……」
思わず声が出た。鏡の中に映っていたのは、くすみが完全に消え去り、まるで一晩で生まれ変わったかのようにツヤツヤと白く輝く自分の肌だった。心なしか、昼間よりも少し色白になった気がする。さすが1泊10万円以上の高級宿のサービスだ、と僕は一人で感動してしまった。
すっかり上機嫌になった僕は、ふかふかの布団に潜り込んだ。
枕元にしおりを置き、目を閉じる。明日、2日目のスケジュールには何が書かれているのだろう。心地よい疲労感と温泉のぬくもりに包まれながら、僕はあっという間に深い眠りに落ちていった。
小鳥のさえずりと、竹林を揺らす柔らかな風の音で目が覚めた。
昨夜の温泉の効果は絶大で、身体が驚くほど軽い。布団から起き上がり、何気なく洗面台の鏡を覗き込む。
「……やっぱり、肌の調子がいいな」
昨夜の泥パックのおかげか、肌のトーンが一段明るくなっている。それどころか、心なしか首筋のあたりまで、昨日より少し白さを増している気がした。高級宿の美容効果に改めて感心しながら、部屋に運ばれてきた朝食に向かう。
朝食もまた、言葉を失うほど見事なものだった。
炊き立ての土鍋ご飯に、美しく出汁を吸った出汁巻き卵。焼き魚からは香ばしい煙が立ち上っている。もちろん、エビやカニなどの甲殻類はどこにもない。
「佐伯様、おはようございます。よくお休みになれましたでしょうか」
給仕に現れた仲居の女性が、丁寧に一礼する。相変わらずシミ一つない磁器のような白い肌だ。彼女は僕の顔をじっと見つめると、嬉しそうに目を細めた。
「おや、昨夜のお湯がよく馴染まれたのですね。お顔の色が、とても美しくなられました」
「あ、ありがとうございます。すごく良いお湯でした」
褒められて悪い気はしない。彼女から手渡された2日目のしおりを開く。
『09:30 宿を出発。ハイヤーにて、特別な特別拝観へご案内』
宿の玄関を出ると、昨日と同じ黒塗りのハイヤーと、あの色白の運転手が待っていた。「おはようございます、佐伯様」と微笑む彼の肌も、心なしか昨日の夕方よりさらに透き通って見える。
車が向かったのは、祇園の奥深くにある、一般のガイドブックには載っていないような古い寺院だった。
門の前には『特別拝観・佐伯航様貸切』と書かれた立て札がある。僕のためだけに、この由緒正しき寺が丸ごと貸し切られているのだ。胸の高鳴りを抑えきれずに境内へと足を踏み入れる。
見事な枯山水の庭園、静寂に包まれた本堂。歩くたびに、鶯張りの廊下がキュッキュと心地よい音を立てる。
「素晴らしいな……」
贅沢な空間を独り占めする優越感に浸りながら境内を回っていると、住職らしき初老の僧侶が奥から現れ、僕に向かって静かに手を合わせた。
「ようこそお参りくださいました、佐伯様」
挨拶を返そうとして、僕は言葉を詰まらせた。
彼の顔も、袈裟から覗く手首も、やはりあの運転手や仲居たちと全く同じ、生気のない「真っ白な肌」をしていた。
それだけではない。ふと境内の隅に目をやると、庭の手入れをしている庭師も、社務所で作業をしている巫女のような女性も、全員が同じように不自然なほど色白なのだ。
まるで、この京都の街全体が、少しずつ「白い人々」で埋め尽くされていくような感覚。
「佐伯様、お庭はこちらが見頃でございますよ」
白い住職に促され、僕は再び歩き出した。
違和感は確かにあった。けれど、行く先々で受けられる完璧なVIP待遇の心地よさと、自分の肌も綺麗に白くなっているという満足感が、その小さな不気味さを、五感の奥へと覆い隠してしまっていた。
次の目的地へ向かうため、再びハイヤーの後部座席に乗り込む。
特別拝観を終えたハイヤーは、竹林のさらに奥、深い緑に埋もれるように佇む隠れ家的なステーキハウスへと僕を運んだ。
案内されたカウンター席の目の前では、職人が見事な手捌きで炭火を操っている。
運ばれてきたのは、しおりに書かれていた通りのステーキだった。
『2日目 昼食:炭火焼ステーキ(※ミディアムレア、ソースはわさび醤油限定)』
表面は香ばしく焼き上げられ、ナイフを入れると、中心は完璧な薔薇色のミディアムレア。わさび醤油を少しつけて口に運ぶ。その瞬間、濃厚な肉汁と炭の香りが弾け、あまりの美味さに言葉を失った。脂の甘みを引き締めるわさび醤油の刺激が、これ以上ないほど僕の好みに突き刺さる。
「やっぱり、この旅のプロデューサーは天才だ」
大満足で食事を終え、再びハイヤーに乗る。
車はさらに山深くへと進み、やがて舗装の途切れた道の先にある、古びた鳥居の前で止まった。しおりには『知る人ぞ知る名所・白幽谷』とだけ書かれている。
「佐伯様、目的地に到着いたしました。ここから先は、どうぞ徒歩でお進みください。私どもはここでお待ちしております」
運転手に促され、僕は鳥居をくぐり、鬱蒼とした木々の間の坂道を下っていった。
坂を降りきった瞬間、目の前の視界が引き算されたように一変した。
「……うわあ、すごいな……!」
思わず感嘆の声が出た。そこは、巨大な盆地のような開けた渓谷だった。
地面を埋め尽くしているのは、真っ白な結晶のような細かな石の群れ。渓谷の底を静かに流れる川は、底の石が透けて見えるほど透明で、水面が太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
周囲を生い茂る木々の葉も、この場所特有の生態系なのか、淡い薄灰色や白銀色に変色しており、まるでファンタジー映画の世界か、あるいは神聖な霊場に迷い込んだかのような、息を呑むほど幻想的な風景だった。
川のほとりには、数人の先客が佇んでいた。誰もが静かに、この圧倒的な絶景に見惚れている。よく見ると彼らも、僕と同じあの美しい「旅のしおり」を大切そうに手に持っていた。
「みんな、この特別なVIPツアーの参加者なのかな」
そう思いながら、ふとスマートフォンの画面に目を落とした。画面の黒いガラスに自分の顔が映る。
「おっ……」
驚いたことに、画面の中の僕の肌は、この渓谷の真っ白な景色に照らされて、いつもよりずっと色白で透明感があるように見えた。いや、景色の反射だけではない。昨日から体験している高級料亭の食事や、宿の特製泥パックの効果が、体の芯から現れてきている証拠だろう。どんよりとくすんでいた東京での自分の顔が、まるで嘘のようだ。
「あなた様も、いよいよ『白の美』が馴染んできましたな」
近くにいた上品な老人が、僕の顔を見て優しく微笑みかけてくれた。彼の肌もまた、この美しい白幽谷の景色に溶け込むような、見事な白さをしていた。
「はい、ここのお宿や温泉が素晴らしくて」
と僕は少し誇らしい気持ちで答えた。
都会の喧騒から遠く離れたこの神聖な場所で、心も身体も完全にリフレッシュされていくのを実感する。これほど贅沢で、自分を生まれ変わらせてくれる旅が他にあるだろうか。
僕はハイヤーの待つ鳥居へと、満ち足りた足取りで戻っていった。
2日目の夜も、宿で素晴らしい懐石料理を堪能し、露天風呂を心ゆくまで満喫した。布団に入る頃には、心も身体も都会のストレスから完全に解き放たれ、泥のように深く心地よい眠りについた。
そして迎えた、旅の3日目。
朝の洗面台で見る自分の顔は、さらに透明感を増し、驚くほど洗練された印象に変わっていた。東京にいた頃の、あの疲れ切った冴えない男の面影はもうどこにもない。
『3日目 10:00:宿を出発。ハイヤーにて嵐山の奥座敷へ』
『12:00 昼食:特製京湯葉と京野菜の懐石膳』
『15:00 休憩:指定のカフェにて、ピスタチオのアイスクリームをどうぞ』
しおりの指示は、今日も分単位で完璧に僕を導いてくれる。
嵐山の喧騒から少し離れた静かな料亭で、驚くほど濃厚でクリーミーな湯葉を味わった後、車はさらに奥まった、青もみじが美しい路地へと入っていった。
到着したのは、目の前に静かな池が広がる、モダンな和風の隠れ家カフェだった。
「佐伯様、いらっしゃいませ。お席をご用意しております」
店内に入ると、やはりシミ一つない見事な色白のスタッフが、僕を池に面した特等席へと案内してくれた。窓から差し込む柔らかな光が、スタッフの白い肌を美しく際立たせている。この2日間で、僕自身もすっかり彼らと同じような透明感のある肌を手に入れたため、最初は「さすが高級宿の美容効果だ」と誇らしくすら思っていた。
「お待たせいたしました。こちら、主催者様より指定をいただいております、特製のピスタチオアイスクリームでございます」
運ばれてきたのは、目にも鮮やかな淡い緑色のアイスクリームだった。
スプーンですくい、口に運ぶ。ナッツの濃厚なコクと香ばしさが口いっぱいに広がり、上品な甘さが鼻に抜けていく。僕が普段、コンビニで買って食べているものとは比べ物にならない、本物の味だ。
「本当に……美味しいな」
贅沢な余韻に浸りながら、最後の一口をスプーンですくい上げた、その時だった。
ふと、スプーンの金属面に、自分の口元が歪んで映り込んだ。
僕は息を止めた。
――白すぎる。
確かにこの2日間、泥パックのおかげで肌の調子は格段に良くなっていた。しかし、鏡の代わりにスプーンに映った自分の肌は、ツヤがあるとか、美白だとか、そういう健康的なレベルを完全に逸脱していた。
まるで、血の一滴も流れていない大理石の彫刻のようだ。唇の赤みだけが不自然に浮き立ち、自分の顔なのに、まったく別人の生首を見ているような悍ましさが、胸の奥からせり上がってくる。
慌てて、周囲のテーブルを盗み見た。
贅沢な空間には、僕と同じように「旅のしおり」を脇に置いた客が数人、優雅にティータイムを楽しんでいる。
だが、誰も会話をしていない。スプーンをカチカチと皿に当てる音だけが響く中、全員が、生気のない真っ白な顔で、微動だにせず窓の外の池を見つめている。
その光景は、上品なカフェなどではなかった。まるで、精巧に作られたマネキン人形を並べただけの、静止した空間だった。
「……っ」
急に喉が干からびたように渇き、お冷のグラスに手を伸ばした。その時、僕の手首の袖口が少しめくれた。
僕は目を見開いた。
腕の皮膚が、手首のあたりからじわじわと、あの宿の仲居たちと同じ「不自然な白さ」に侵食され始めている。日焼けしていたはずの僕の肌が、自分の意志とは無関係に、根元から書き換えられていくような感覚。
――この旅は、一体僕の身体に何をしているんだ?
逃げ出したいほどの衝動を覚えながらも、ハイヤーの運転手やカフェの店員たちの「白い笑顔」に見守られ、僕はしおりのスケジュール通りに動くことしかできなかった。
4日目の朝、僕はひどい頭痛とともに目を覚ました。
恐怖と動揺のせいで、昨夜は一睡もできなかった。寝返りを打とうとして、自分の身体がひどく強張っていることに気づく。指先を動かそうとすると、まるで凍りついた木を無理やり曲げるような、奇妙な鈍さがあった。
飛び起きるようにして洗面台へ向かい、鏡を覗き込んだ。
「……うそだろ」
悲鳴になり損ねた乾いた空気が、喉から漏れた。
鏡の中にいたのは、もう僕の知っている佐伯航ではなかった。頬も、額も、耳の裏まで、すべてが生気のない、冷ややかな大理石のように真っ白に変色している。爪の一枚一枚にいたるまで血の赤みが一切消え失せ、代わりに鈍い光沢を放っていた。
慌てて蛇口をひねり、冷水を何度も顔に叩きつける。タオルで皮膚がすり剥けるほど強く擦った。しかし、白い肌は色あせるどころか、水分を吸ってさらにその白さを際立たせるだけだった。
「早く東京へ帰らなきゃ……病院に行かないと」
ガタガタと震える手で着替えを済ませ、荷物をキャリーケースに押し込む。その時、部屋の障子が静かに引かれた。
「佐伯様、お目覚めでございますね。ご朝食をご用意いたしました」
現れた仲居の女性は、僕の真っ白な顔を見ても一切驚かなかった。それどころか、我が子の成長を喜ぶ母親のような、底知れない慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
「おや、まあ……。本当に、見事な仕上がりでございますね。主人もさぞお喜びになります」
差し出された朝食は、昨日までと変わらず完璧なものだった。僕の大好物が並び、出汁のいい香りが漂っている。しかし、今の僕にはそれを味わう余裕などなかった。箸を持つ手さえ、自分のものとは思えないほど白く、不気味に滑らかだった。一口も喉を通らない僕を、仲居はただじっと、微笑みながら見つめ続けていた。
チェックアウトのためロビーへ向かうと、女将をはじめとする宿のスタッフ全員が並んで僕を待っていた。
「佐伯様、最高の4日間でございましたね。どうぞお気をつけて」
彼女たちの白い顔、白い手、白い笑顔。今の僕は、外見だけなら完全に彼女たちの身内だった。その事実に吐き気を覚えながら、僕は逃げるように宿の玄関を飛び出した。
門の前には、昨日と同じ黒塗りのハイヤーがアイドリングの音を立てて待っていた。
運転手がドアを開け、深く頭を下げる。
「佐伯様、京都駅まで大切にお送りいたします」
バックミラー越しに見る運転手の顔も、やはり僕と同じ白さだった。車は静かに発進し、山の手の竹林を抜けて京都の市街地へと下っていく。
車窓を流れる街並みを眺めながら、僕は祈るような気持ちでポケットのしおりを握りしめていた。
これで東京へ戻れば。いつもの自分の部屋に帰りさえすれば、この悪夢のような白さから覚めることができるはずだ。
道路の混雑もなく、ハイヤーはしおりのスケジュールと1分の狂いもなく、京都駅の新幹線ロータリーへと滑り込んでいった。
運転手は「佐伯様、最高の4日間でございましたね。どうぞお気をつけて」と、相変わらずの端正な白い顔で深く頭を下げた。
僕は荷物をひったくるように受け取ると、逃げるように新幹線のグリーン車に飛び乗った。
———ぷしゅぅ
と静かにドアが閉まり、列車がホームを離れて走り出した瞬間、僕はようやく、張り詰めていた息を吐き出した。
「終わった……ようやく帰れる」
これで東京へ戻れば。いつもの見慣れた退屈なアパートに戻れば、この不気味な肌の白さも、何もかもが元に戻るはずだ。
グリーン車のシートに深く身体を沈め、窓の外を流れる景色をじっと見つめる。
車内は驚くほど静かだった。ふと周囲を見回すと、同じ車両に乗っている乗客たちが、誰一人としてスマホも見ず、会話もせず、ただ真っ直ぐ前を見つめて座っている。その全員の横顔が、窓から差し込む光に照らされて、磁器のように真っ白に透き通っていた。
心臓の鼓動が、ドクドクと不気味に速くなる。
そのとき、ピンポーン、と聞き慣れた車内チャイムが静かに鳴り響いた。
『皆さま、今日も新幹線をご利用いただきまして、ありがとうございます』
スピーカーから流れてきたのは、丁寧だが、どこか抑揚のない機械的な女性の声だった。
『この列車は、黄泉の国行きです』
――え?
聞き間違いかと思い、僕は勢いよく顔を上げた。
同時に、座席の正面、車両の出入り口の上部にある電光掲示板へと視線が吸い寄せられる。いつもならニュースや天気が流れるオレンジ色のデジタル文字が、激しく明滅していた。
文字の動きが不自然なグリッチを起こし、ブレながら、全く別の文字列へと書き換わっていく。
『 黄泉の国 行 』
佐伯は、しおりの裏面を確認した。
「釈 航寂 ――俗名:佐伯航 様――」
と書かれていた。このしおりを見つけた日に、京都の由緒ある寺社ツアーだから、雰囲気を出すためのちょっとした遊びだろう。と思っていたことを思い出す。
あのしおりに書かれていたのは、戒名だったのだ。
脳の理解が追いつかないまま、車内アナウンスの声は冷酷に響き続ける。
『次は、終点。お出口は、ございません』
ガタゴトと激しい音を立てながら、新幹線は東京へ戻るルートから外れていくかのように、真っ白な乗客たちを乗せて、どこまでも深い川の底へ、闇の奥へと猛スピードで突き進んでいった。




