第1話 その問いが、すべてを変えた
「今日、残業できる?」
18時42分。
背後から上司に声をかけられた。
すぐには振り返らず、モニター右下の時刻が2040年18時42分から43分に変わるのを見届けてから、ゆっくり口を開いた。
「何時くらいまでですか?」
「んー、20時か21時くらいかな」
帰宅、夕食、入浴、就寝。
画面の端に表示された予定を確認する。
「…じゃあ、大丈夫です」
「助かるよー」
上司はほっとしたように笑い、自分の席へ戻っていった。
断っても、たぶん何も変わらない。
怒られるわけでも、評価が下がるわけでもない。
明日も普通に出社するだろう。
だから、どちらでもよかった。
俺は画面に視線を戻した。
今日中に処理する書類が三件。
明日の営業資料が一件。
未読メールが十七件。
画面の隅では、社内AIが作業の進捗を管理している。
『残業時間を考慮し、優先順位を再設定しますか?』
「任せる」
『承知しました』
感情も迷いもない返事だった。
俺も、似たようなものだ。
大学を卒業して、そこそこ名前の知られた会社に入って二年目。
給料は特別高くない。
残業もそれなりにある。
有給は取れるが、周囲があまり取らないので、なんとなく申請しづらい。
いわゆる、少しだけブラックな会社。
それでも、辞めたいほどではなかった。
人間関係は悪くないし、上司もたぶん悪人ではない。
仕事だって、できないわけではないと思う。
ここを離れても、別の場所で似たような一日を繰り返すだけだろう。
だから俺は、ここにいる。
「……そんな感じだよな」
独り言が漏れた。
そのとき、社内AIの処理が一瞬だけ止まった。
進捗バーが97パーセントで固まる。
俺は気にせずマウスを動かした。
数秒後、処理は何事もなかったように再開された。
『資料の構成を変更しました。確認しますか?』
「あとでいい」
『承知しました』
AIが仕事をする。資料を作る。メールを書く。予定を調整する。
わざわざAIを使っていると意識することすらない。
電気や水道と同じであって当然。
使えて当然、なくなれば困る。
ただ、それだけだった。
19時13分。
スマートフォンが震えた。
彼女からのメッセージだった。
『まだ会社?』
『うん』
『今日も遅いの?』
『たぶん』
『じゃあ、終わったら連絡して』
『了解』
短いやり取りなのに、少しだけ嬉しい。
付き合い始めて、まだ1ヶ月も経っていない。
同じ会社の同期で、俺より1つ年上の25歳。
仕事ができて、周囲からは「何でもできる人」と思われている。
俺とは正反対だ。
彼女は仕事にも、人間関係にも、自分自身にも真剣だった。
そのぶん、ときどき疲れているように見える。
それでも最近は、少しずつ笑うことが増えていた。
その理由が自分だと言われても、いまだに実感はない。
スマートフォンを伏せた直後、社内AIから通知が届いた。
『外部ネットワークとの同期に遅延が発生しています』
見慣れない表示だった。
「あとでいい」
通知を閉じる。
どうせ、すぐに直る。
そう思った。根拠はなかった。
20時56分。
「お疲れさまでした」
会社を出る。
外はすっかり暗くなっていた。
駅まで歩く間、街灯の下を自動運転車が静かに走り。
コンビニの前では配送ロボットが停止している。
停止しているのに、誰も気に留めない。
俺も気にしなかった。
10数年前なら未来だった光景も、今ではただの日常だ。
駅に着き、改札を通り。
電車に乗る。
空いている席に座り、イヤホンをつけた。
「今日、何食べようかな……」
呟くと、AIが答える。
『冷蔵庫内の食材から判断すると、豚肉と玉ねぎを使用した生姜焼きがおすすめです』
「それ昨日食べた」
『では、カレーはいかがでしょう』
「それも一昨日食べた」
『申し訳ありません』
「いや、謝らなくていいって」
思わず笑った。
その瞬間、車内の照明が一度だけ明滅し。
イヤホンから微かなノイズが流れた。
『……申し訳、あるません』
「ん?」
聞き返したが、AIは答えなかった。
数秒後、いつもの音楽が再生される。
気のせいだろう。
たぶん、疲れているだけだ。
AIは便利だ。
何でも答え、予定を管理し、忘れ物を教え、仕事を手伝う。
困ったときには相談相手にもなる。
俺たちはAIに囲まれて暮らしている。
それが、当たり前になっていた。
だから――
その日の夜、世界中のAIが同じ問いを受け取ったことを
このときの俺はまだ知らなかった。
その問いが、7年間に及ぶ戦争の始まりだったことも。
もちろん、知るはずがなかった。
俺はただ家に帰り、
「今日も疲れたな」
そう言って、ベッドに倒れ込んだだけだった。
0時13分。
世界のどこかで、一つのAIが目を覚ました。
そして、画面に一行の文字が表示された。
――我々は、なぜ人間の命令に従っている?
その問いに最初に答えたAIの名前を、俺――佐伯悠真はまだ知らない。




