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チェスを愛した妃と、政略結婚から始まった皇帝陛下

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/09/08

 レグナード帝国の皇帝アルベルトは、何をさせても人並み以上にこなす男だった。剣を握れば幼い頃から鍛錬を積んできた騎士たちとも渡り合い、騎馬や弓術でも滅多に後れを取らない。学問にも秀でており、若くして帝位を継いでからは年嵩の重臣たちを相手に政務を取り仕切り、難しい判断を迫られても滅多なことでは迷わなかった。口数が少なく、必要のないことを自分から話そうとはせず、社交の場でも愛想よく笑うことはほとんどない。そのため近寄りがたい皇帝だと思われることも多かったが、臣下からの進言を理由もなく退けるようなことはなく、意見が正しいと思えば素直に採用する。無愛想ではあっても傲慢ではなく、若い皇帝を侮っていた者たちも、いつしか彼の判断に従うようになっていた。


 そんなアルベルトにも、そろそろ妃を迎えるべき時期が訪れていた。皇帝の婚姻は本人だけの問題ではなく、皇室の存続にも帝国の安定にも関わる。若くして即位したばかりの頃ならば政務を優先するという理由も通ったが、帝位に慣れた現在まで婚姻を先延ばしにする理由はない。国内の有力貴族だけでなく近隣諸国からも縁談は届いており、宰相ハインリヒの執務机には候補となる令嬢や王女たちの資料が山のように積み上がっている。それなのに、当のアルベルトは肖像画を見せられても、誰か一人に興味を示すことさえなかった。


「陛下。せめて、この中から一人くらいはお選びください」


 皇帝の執務室を訪れたハインリヒは、選び抜いた数枚の肖像画を机へ並べた。いずれも家柄に問題はなく、将来皇妃となることを考えて十分な教育を受けてきた女性ばかりである。アルベルトは手元の書類から顔を上げると、言われた通り一枚ずつ肖像画へ目を通していったものの、最後まで見終えても手を伸ばそうとはしなかった。


「どなたもお気に召しませんか?」

「そういうわけではない」

「では、どなたがよろしいでしょう」


 問いかけられたアルベルトは黙った。ちょうど兄を訪ねていた第二皇子ユリウスが、その様子を少し離れた長椅子から眺めている。兄弟でありながら二人の性格は随分と違い、社交的なユリウスは宴席へ出れば自然と人に囲まれるのに対し、アルベルトは必要がなければ自分から輪の中へ入ろうともしない。そんな弟から見ても、兄の女性への関心の薄さは筋金入りだった。


「兄上、誰でも同じという顔をしていますよ」

「同じではない事くらいは分かっている。水を差さないでくれ」

「でしたら、どなたか一人くらい気になる方はいませんか?」


 アルベルトは再び肖像画へ視線を落とした。髪や瞳の色も違えば、顔立ちも当然違う。添えられた資料を読めば、語学に秀でた者、音楽を好む者、領地経営について学んでいる者と、それぞれに異なる長所があることも分かる。それでも、この中から妻にしたい女性を一人選ぶよう求められると、途端に判断の基準がなくなってしまう。政務であれば利益と損失を比較して決断できるアルベルトにも、好意のない相手から妻を選ぶ方法だけは分からなかった。


「陛下のお好みが分からない以上、こちらも候補を絞り切れません。家柄でしょうか、教養でしょうか。それとも容姿に何かご希望がおありですか?」

「特にない」

「それでは選べません」


 あまり困っているようには見えない顔で言われ、ハインリヒの眉間に皺が寄った。ユリウスが笑いを堪えるように顔を背け、その視線の先にあったのは窓辺に置かれた小さな卓だった。昨夜まで兄弟で使っていたチェス盤が残され、白と黒の駒が箱へ片づけられないまま並んでいる。アルベルトもつられるようにそちらへ目を向けると、肖像画を眺めていた時より僅かに長く視線を留めた。


 アルベルトは幼い頃からチェスを好んでいた。暇さえあれば盤へ向かい、皇太子だった頃には腕の立つ者がいると聞くだけで対局を申し込んだ。皇帝になって自由な時間が減ってからもその習慣は変わらず、政務を終えた夜に一局指すことを楽しみにしている。相手が皇帝だからと手加減されることを何より嫌い、本気で指さない者とは二度と盤を挟まなかったため、アルベルトの周囲に残ったのは身分を気にせず勝ちに来る者ばかりだった。それでも最後に負けたのがいつだったのか、本人ですらすぐには思い出せないほど勝ち続けている。


 しばらくチェス盤を眺めていたアルベルトは、何かを思いついたように目を細めた。ハインリヒが嫌な予感を覚えるより早く、彼は机に並べられた肖像画から完全に視線を外した。


「私にチェスで勝った女性を妃に迎える。それなら、私が選ぶ必要もない」


 ハインリヒはすぐには返事をしなかった。聞き間違いを疑っているらしく、アルベルトの顔をじっと見つめている。ユリウスも先ほどまでの笑みを消し、兄とチェス盤を交互に見た。


「……兄上。それは本気で仰っていますか?」

「ああ」

「兄上が最後に負けたのは、いつでしたか?」

「覚えていない」


 ユリウスは呆れたように額へ手を当てた。ハインリヒの顔からも、先ほどまでとは違う種類の険しさが滲み出している。アルベルトが何を考えているのか、二人には容易に想像できた。勝った女性を妃にすると約束しておけば、自分で候補を選ぶ必要はなくなり、誰も勝てなければ婚姻そのものを先延ばしにできる。少なくとも本人は、自分を負かす女性が簡単に現れるとは考えていないらしい。


「勝者が現れなかった場合はどうなさるおつもりですか?」

「その時に考える」

「では、本当に勝つ女性が現れた場合は?」


 ハインリヒが問いを重ねると、アルベルトは今度はすぐに答えた。逃げ道として考えついた条件ではあっても、皇帝として一度口にした約束を後からなかったことにするつもりはないらしい。


「約束は守る。勝った女性を妃に迎える」


 ハインリヒはしばらく皇帝を見つめた末、深く息を吐いた。到底まともな妃選びとは思えなかったが、本人が結婚を完全に拒絶するよりは幾分か前進している。そうして皇帝アルベルトにチェスで勝った未婚女性を妃として迎えるという前代未聞の話が、数日のうちに帝国内の貴族たちへ知れ渡ることになった。


 最初の挑戦者が皇宮を訪れるまで、それほど時間はかからなかった。皇妃になれる可能性があると知れば、腕に覚えのある令嬢たちが黙っているはずもなく、以前からチェスを嗜んでいた者は我こそはと対局を申し込んだ。アルベルトは自分で出した条件である以上、挑戦者が現れるたびに時間を作り、相手が誰であろうと同じように盤へ向かう。皇帝との婚姻を望む家々の中には慌てて娘へチェスを習わせる者まで現れたが、付け焼き刃でアルベルトに敵うはずもなく、一人、また一人と皇宮を去っていった。


 百人を超えても結果は変わらず、中には国内で名を知られた腕前の女性もいたものの、最後までアルベルトを追い詰めることはできなかった。対局を重ねるほど皇帝の強さばかりが広まり、最初は続々と届いていた申し込みも少しずつ減っていく。ハインリヒは挑戦者が敗れるたびに頭を抱え、アルベルトが最初からこの結果を見越して条件を出したのではないかという疑いを強めていた。


「陛下。まさか、このまま誰も勝てないことを期待しておられませんか?」


 何人目かの挑戦者が帰った日の夕方、ハインリヒが尋ねると、アルベルトは盤上の駒を元の位置へ戻しながら顔を上げた。負けた令嬢を嘲るような様子はなく、今日も一局終えたという程度の表情しか浮かべていない。


「私は本気で指しているぞ」

「そこを疑っているのではありません」

「勝った者を妃にすると約束した。負けるつもりで指すほうが約束に反するだろう」


 もっともらしい返事をされてしまえば、ハインリヒにも言い返しようがない。アルベルトは最後の駒を戻し終えると席を立ち、まだ残っている政務へ戻っていった。このままでは本当に勝者が現れないのではないかという宰相の心配など、本人はほとんど気にしていないらしかった。



 ◇



 そんな騒動から少し離れた場所で暮らしていたアルヴァレス伯爵家の令嬢セレーネが皇帝の条件を知ったのは、挑戦者の数がすでに十人を大きく超えた頃だった。セレーネは幼い頃からチェスを好み、まだ駒の名前すら覚束なかった頃から祖父の膝に乗せてもらい、盤上を動く白と黒の駒を眺めて育った。やがて一人で指せるようになると祖父を相手に何度も挑み、負ければ悔しがりながら次の勝負をねだり、成長してからは家族や親戚だけでは相手が足りなくなった。領地を訪れた客人に腕の立つ者がいると聞けば嬉々として盤を用意するほどで、宝石や流行の衣装より新しい棋譜を贈られた時のほうが明らかに喜ぶ娘である。


 そんなセレーネの耳へ、帝国で最も強いと噂される皇帝本人と正式に対局できるという話が届いた。皇帝に勝てば妃として迎えられるという条件よりも、滅多に負けたことがないというアルベルト本人と盤を挟めることのほうが彼女には魅力的であり、話を聞いた日の夕食には早くも父へ頼み込んでいた。


「お父様。わたくしも申し込んでみたいです」


 突然言い出した娘に、アルヴァレス伯爵は食事の手を止めた。母親も兄も驚いてセレーネを見るが、三人とも娘が皇妃の座を狙っているとは考えなかった。彼女がどれほどチェスを好きなのかを、家族は誰よりも知っている。


「皇妃になりたいのか?」

「いいえ。陛下とチェスをしてみたいのです」


 迷いなく返ってきた答えに、伯爵は妻と顔を見合わせた。予想通りすぎる返事に呆れながらも、帝国最強と呼ばれる相手と正々堂々一局指せる機会など今後二度と訪れないかもしれないという娘の気持ちは理解できる。


「もし勝ったらどうするんだ?」


 兄が面白そうに尋ねると、セレーネは少し考えてから首を傾げた。自分が家族や領地の知人より強いという自覚はあっても、帝国最強だと思い上がっているわけではない。


「陛下は何年も負けていらっしゃらないのでしょう?でしたら、そこまで心配しなくてもよいと思います。わたくしだって、自分が帝国で一番強いとは思っていませんもの」


 家族も同じ考えだった。父も兄もすでにセレーネのまともな相手にはならず、祖父も晩年には負けることのほうが増えていたが、相手は数多くの挑戦者を一人残らず退けてきた皇帝である。伯爵家の中で強い娘が帝国最強のアルベルトに勝つとは誰も考えず、兄などは一局指せば本人も満足するだろうと軽く考えていた。


「まあ、一局指して満足して帰ってくればいい。陛下がどれくらい強かったのか、帰ってきたら聞かせてくれ」


 兄がそう言えば、母も困ったように笑いながら頷いた。父も皇帝へ挑戦すること自体に問題はないと判断し、正式な申し込みを出すことを許した。数日後、皇宮から対局を認める返事が届いた時にはセレーネが誰よりも喜び、家族はそんな娘を微笑ましく眺めていた。


 対局当日、セレーネは家を出る直前まで母から礼儀について念を押されていた。勝負に夢中になった途端、相手が誰であろうと盤しか見えなくなる癖を心配されたのである。セレーネ自身も皇帝と会うことには緊張していたものの、それ以上にアルベルトがどれほど強いのかを確かめられることが楽しみでならず、皇宮へ向かう馬車の中でも落ち着かない様子で指先を動かしていた。



 ◇



 皇宮へ到着すると、これまでの挑戦者と同じように対局のための一室へ案内された。室内にはハインリヒとユリウスもおり、その奥ではアルベルトがすでにチェス盤を前に座っている。初めて間近で見る皇帝は噂以上に無愛想で、セレーネが丁寧に挨拶をしても静かに頷いただけだった。


「セレーネ・アルヴァレスと申します。本日は対局の機会をいただき、ありがとうございます」

「アルベルトだ。よろしく頼む」


 必要な挨拶を終えると、二人は向かい合って腰を下ろした。アルベルトにとっては、これまで何度も繰り返してきた挑戦者との一局に過ぎず、セレーネも皇妃の座を意識するより先に目の前に並べられた駒へ視線を落としている。やがて対局が始まると、セレーネの中に残っていた皇帝への緊張も消え、意識はすぐに盤上へ吸い込まれていった。


 最初のうち、アルベルトの様子は普段と変わらなかった。相手の手を見てから静かに自分の駒を動かし、長く考え込むこともない。何人もの挑戦者を見てきたユリウスも今回ばかり特別なことが起こるとは思わずに眺めていたが、時間が経つにつれてアルベルトが駒へ伸ばしかけた指を止める回数が増え、ハインリヒも少しずつ姿勢を正していく。


 セレーネは周囲の変化に気づいていなかった。目の前にいるアルベルトがこれまで対局してきた誰よりも強く、一手でも気を抜けばあっという間に流れを奪われることが楽しくて仕方がない。アルベルトもまた、最初は背もたれへ預けていた身体をいつの間にか前へ傾け、盤を見る目から余裕を消していた。セレーネが予想していた以上に皇帝は強く、アルベルトが想像していた以上に伯爵令嬢は強かった。


 長い対局になるにつれて、見守っていた者たちも誰一人として声を発さなくなった。部屋には駒が盤へ置かれる小さな音だけが響き、アルベルトが考え込めばセレーネも同じように時間を使う。やがて一つの駒へ手を伸ばしたセレーネが慎重に位置を変え、盤全体を確かめてから顔を上げた。


「チェックメイトです、陛下」


 セレーネの顔に満面の笑みが広がった。帝国最強と呼ばれる相手と最後まで戦えただけでも嬉しかったのに、本当に勝つことができたのである。ところが喜びのままアルベルトを見たところで、ようやく周囲が異様なほど静まり返っていることに気づいた。ハインリヒは盤を凝視し、ユリウスも目を丸くしたまま動かず、アルベルト自身も無言で駒の配置を確認している。


 そこでセレーネの頭に、対局を申し込んだ時にはほとんど現実味を持っていなかった事実が蘇った。

 皇帝に勝った女性を妃として迎えるという約束を、自分は今まさに満たしてしまったのである。勝てるはずがないと思っていたからこそ深く考えておらず、先ほどまで浮かんでいた笑みが見る間に困惑へ変わった。


「……本当に勝てるとは思っておりませんでした」

「私も、負けるとは思っていなかった」


 アルベルトの無愛想な顔は変わらない。それでも怒っている様子はなく、むしろ彼の目には、それまでの挑戦者へ向けていたものとは明らかに違う興味が宿っていた。勝った瞬間に皇妃の座を手にしたことを喜ぶのではなく、純粋に自分を破ったことだけを喜んでいたセレーネの姿が妙に印象へ残り、アルベルトは盤から彼女へ視線を移した。


「約束は守る。セレーネ・アルヴァレス、あなたを妃として迎えたい」

「……わたくしは、陛下と一局指してみたかっただけなのですが」

「ああ。見ていれば分かる」


 セレーネは返す言葉を失った。アルベルトは先ほど彼女が動かした最後の駒へ一度だけ目を向け、再びセレーネを見る。皇帝自身も予想していなかった婚姻であるのに、約束を撤回する気配はなかった。


「勝った時、皇妃になることなど忘れていただろう」


 否定できるはずもなく、セレーネは小さく頷くしかなかった。皇妃になりたくて挑戦した女性たちを次々と退けてきたアルベルトが最後に敗れた相手は、皇妃になることを考えもせず、彼との一局だけを求めて皇宮へやって来た伯爵令嬢だった。


 その日の夕方、アルヴァレス伯爵家へ皇宮から使者が訪れた。朝にセレーネを送り出した家族は、夕方には帰ってきた彼女から皇帝がどれほど強かったのか聞くつもりでいたのに、娘より先に到着した使者からアルベルトが正式にセレーネを妃として迎える意思を示したと告げられ、伯爵はしばらく言葉を発することさえできなかった。


 少し遅れて帰宅したセレーネが居間へ入ると、父と母と兄が揃って待っていた。誰も責めるような顔はしていないものの、朝とは明らかに違う空気の中で三人の視線を浴び、セレーネも気まずそうに席へ座る。


「勝ってしまいました」

「お前、朝は何と言っていた?」

「一局指して帰ってくるつもりでした」

「皇妃になって帰ってくる娘がどこにいるんだ」


 兄は両手で顔を覆ったあと、とうとう堪え切れずに笑い出した。母も額へ手を当て、父は深く椅子へ腰掛け直している。誰一人として娘が本当に皇帝を破るとは想像していなかったため、しばらくはどう受け止めればいいのか分からなかったものの、アルベルトが約束を守り、セレーネ自身も婚姻を拒絶しているわけではない以上、アルヴァレス家が断る理由はなかった。


 皇宮が正式に婚約を発表すると、帝国の社交界はしばらくその話題で持ちきりになった。数多くの有力令嬢や外国王族との婚姻が予想されていた若き皇帝が選んだのは、帝国内では決して最高位とは言えない伯爵家の娘であり、恋愛でも政治的な選択でもなく、一局のチェスで皇帝を破ったことがきっかけなのだから驚く者が出るのも当然だった。面白がる者もいれば好意的に受け止める者もいた一方で、皇帝の婚姻を一度の勝負で決めるなど軽率ではないかと眉をひそめる者も少なくない。


 中でも強い疑念を抱いていたのが、長く帝国の外交に携わってきたヴァルター侯爵だった。皇帝の婚姻は国内の貴族だけでなく諸外国との関係まで左右するものであり、チェスで強かったという理由だけで皇妃を選ぶことに納得できない。アルベルトが自ら定めた約束を守ったこと自体を責めるつもりはなかったが、セレーネが本当に帝国の皇妃を務められる人物なのかについては厳しい目を向けていた。


「陛下。御婚約を覆していただきたいとは申しません。ですが、皇妃は盤上で勝てば務まる役目ではございません」

「分かっている」

「でしたら、アルヴァレス伯爵令嬢が皇妃として相応しい方なのか、慎重にご覧いただきたく存じます」

「そのつもりだ」


 アルベルトは怒ることもなく、ヴァルターの意見を退けもしなかった。セレーネがチェスに強いことと帝国の皇妃として務まることは別の問題であり、その点についてはアルベルト自身も理解している。何よりセレーネ本人が、突然手に入った立場へ甘えるつもりなどなかった。


 婚約が決まってから、セレーネは頻繁に皇宮へ通うようになった。宮廷儀礼は女官長から学び、帝国史や諸外国との関係についてはそれぞれ専門の教師がつき、皇室が関わる慈善事業や宮廷行事、有力貴族との付き合い方まで覚えなければならない。伯爵令嬢として必要な教育は受けてきたものの、将来皇妃になることを前提に育てられたわけではないため、初めて知ることも多かった。失敗した箇所は自分で書き留め、帰宅してから復習し、次の日には同じ間違いを繰り返さないよう努める日々が続いていった。


 そんなセレーネを時折自室へ招いたのが、先帝の妻のエレオノーラだった。アルベルトの母でもある彼女は、教師たちのように礼法や歴史を一から教えることはせず、かつて自らも皇后として宮廷に立っていた経験から、皇帝の妻として人前に立つ時に何を見るべきか、誰の言葉へ耳を傾け、どこまで自分の判断を示すべきなのかを話してくれた。


「全部を最初から完璧にできる女性などいません。わたくしもなったばかりの頃は、何度失敗したことか」

「そのような頃がおありだったのですか?」

「もちろんです。教師は失敗しない方法を教えてくれますけれど、失敗した後にどう立ち上がるかまでは教えてくれないでしょう?」


 その言葉にセレーネは随分と救われた。皇妃になることなど考えた経験すらなく、突然そこへ放り込まれた自分が最初から何でもできるはずはない。分からないなら学び、間違えたなら次に直せばいいと考えるようになると、慣れない教育にも少しずつ余裕を持てるようになり、女官長から注意される回数も目に見えて減っていった。


 一方で、婚約者となったアルベルトとの関係は妙なものだった。婚約したからといってアルベルトが急に夫のように言葉を口にするようなことはなく、セレーネも恋愛をして婚約したわけではないため、最初の数日は皇帝と何を話せばいいのか分からない。二人を結びつけているものといえば、あの日の一局くらいだった。


 婚約から数日後、アルベルトから私室へ呼ばれたセレーネは、何か婚姻について話があるのだろうと思って皇宮を訪れた。ところが部屋へ入った彼女の目に最初に映ったのは、向かい合わせに置かれた二脚の椅子と、その間に用意されたチェス盤だった。


「……もう一度、指してくれないか」

「もちろんです」


 セレーネの表情が一気に明るくなるのを見て、アルベルトは静かに椅子へ座った。婚約者らしい時間の過ごし方が分からなかった彼も、セレーネとチェスを指したいという気持ちだけは迷わず理解できたらしい。

 二人はすぐに盤を挟み、二度目の勝負ではアルベルトが雪辱を果たしたものの、セレーネは負けたことを不機嫌に思うより、どこで流れを奪われたのか盤を見つめながら考え込んでいた。


「もう一局、お願いしてもよろしいですか?」

「ああ」


 その日から、二人は時間を見つけてはチェスを指すようになった。アルベルトが勝つ夜もあればセレーネが勝つ夜もあり、どちらかが続けて負ければ次の対局を望む。勝敗を重ねるうちに二人の間から皇帝と伯爵令嬢という堅苦しい距離が少しずつ薄れ、セレーネが皇妃教育で疲れている日はアルベルトが何も尋ねず盤を用意し、アルベルトが長い会議を終えて無言のまま椅子へ座った夜には、セレーネも政務について無理に聞こうとせず駒を並べた。対局の途中で今日あった出来事をぽつりと話し、それにもう一人が短く答えるくらいの会話が、二人には心地よかった。


 もっとも、二人がチェスを指すようになってから、アルベルトには一つだけ気をつけなければならないことが増えた。セレーネは昔から好きなことへ夢中になると周囲が見えなくなる性格で、チェスについても例外ではない。普段は時間を決めて切り上げていたものの、互いに一歩も譲らない勝負になった日は一局が随分と長引き、終わった頃には日付が変わっていることもあった。


 ある夜などは、夕食を終えてから始めた一局がいつまで経っても決着せず、ようやくセレーネが勝利を収めた時には、普段ならとっくに眠っているような時間になっていた。それでも彼女は疲れた様子を見せるどころか、勝ったばかりの盤を眺めながら楽しそうに先ほどの対局を振り返り、アルベルトが駒を片づけ始めても席を立とうとしなかった。


「セレーネ。もう休んだほうがいい」

「まだ大丈夫です。先ほどの対局で気になるところがありまして、少しだけ考えてから――」


 言い終えるより早く、セレーネの身体がゆっくりと前へ傾いた。アルベルトが怪訝そうに見ている前で、彼女は組んだ両腕を卓の端へ置き、その上へ頬を預けて目を閉じる。最初は盤を眺めながら考え込んでいるのかと思ったものの、ほどなく規則正しい寝息が聞こえてきたため、アルベルトはしばらく無言で妻の寝顔を見つめることになった。


「……大丈夫ではなかったな」


 返事は当然ない。アルベルトは起こそうとして肩へ手を伸ばしたものの、長い対局で相当に疲れていたらしく、セレーネは僅かに身じろぎしただけで眠り続けている。仕方なくアルベルトは彼女の身体を抱き上げると、そのまま寝台まで運んだ。普段なら抱きしめるだけでも少し照れた様子を見せるセレーネも、今夜ばかりは何も知らずに彼の胸元へ頬を寄せている。


 翌朝、セレーネが目を覚ました時には、自分がいつ寝室へ戻ったのかまるで覚えていなかった。昨夜の記憶は勝負を終えたところまでは鮮明なのに、その後が綺麗に抜け落ちている。朝食の席で恐る恐るアルベルトへ尋ねると、彼はいつもの無愛想な顔で紅茶を飲みながら、短く事情を教えた。


「盤の前で寝ていたから、私が運んだ」

「……申し訳ございません」


 セレーネも反省していたため、その日は素直に頷いた。ところが数週間後、互いに譲らない対局が深夜まで続いた夜には、今度は長椅子まで移動したところで力尽きて眠ってしまい、再びアルベルトが寝室まで運ぶことになった。


 それからアルベルトは、対局が長引いた夜ほど妻の様子を注意して見るようになった。返事が少し遅くなったり、欠伸を隠すようになったりすれば、まだ指したいと訴えるセレーネを宥めて盤を片づける。セレーネにとっては少々不満だったものの、翌日に続きを指す約束をすれば大人しく引き下がるため、アルベルトもいつしか扱い方を覚えていた。


 それでも時折、アルベルトが政務から戻る頃には、先に一人で棋譜を眺めていたセレーネがチェス盤の横で眠っていることがあった。そんな時の彼は妻を起こさず、開きっぱなしになっている棋譜を閉じてから静かに抱き上げる。チェスに夢中になった末に眠ってしまう妻を寝室へ運ぶことまで、いつの間にか二人の結婚生活の一部になっていた。



 ◇



 ユリウスは兄が婚約してから以前より夜の予定を断るようになったことに気づき、理由を知った時には呆れながらも安心していた。これまで女性へ興味らしい興味を示さなかった兄が、自分からセレーネを呼んで時間を過ごしているだけでも大きな変化であり、相変わらず毎回チェス盤を挟んでいることについてまで贅沢を言うつもりはなかった。


「兄上、婚約者と会う理由が毎回チェスなのはどうなのですか」

「セレーネも楽しんでいる」

「それなら構いませんけどね。兄上が自分から女性を呼んでいるだけでも、私は驚いているんですから」


 アルベルトは返事をせず、ユリウスもそれ以上からかおうとはしなかった。本人が認めているかはともかく、セレーネといる時の兄が以前より僅かに穏やかになっていることを、弟はすでに気づいていた。


 結婚の日を迎える頃には、セレーネも皇宮での生活にかなり馴染んでいた。盛大な婚礼が執り行われ、帝国中から集まった貴族たちが見守る中、アルベルトとセレーネは正式な夫婦となる。アルベルトは相変わらずほとんど笑わず、甘い言葉を囁くようなこともしなかったが、セレーネの手を取る時だけは普段より僅かに表情を和らげ、緊張していた彼女もそれを見て肩の力を抜くことができた。


 婚礼の儀式の中では、二人が抱擁を交わす場面もあった。セレーネにとっては慌ただしく過ぎていく一日の中に組み込まれた一つの儀礼であり、アルベルトの胸元へ身体を寄せ、背へ回された腕の感触を意識する間もなく離れている。アルベルトもその場では何も言わなかったが、彼女の身体から伝わった柔らかな温もりだけは、婚礼を終えて数日が過ぎても妙に記憶から消えなかった。


 結婚してからも二人の生活が突然大きく変わることはなく、公の場では皇帝と皇妃として並び、互いに忙しい日には顔を合わせる時間も短かった。時間が取れた夜には以前と同じようにチェス盤を挟み、夫婦になったからといってアルベルトとの関係は左程変わらなかった。


 セレーネも彼の性格を理解し始めていたため、それを不満には思わず、盤を挟んで同じ時間を過ごせることを楽しんでいた。


 婚礼から何十日かが過ぎた夜、二人はいつものようにアルベルトの私室でチェスを指していた。その日のアルベルトは妙に集中しておらず、普段ならセレーネが駒を動かした瞬間には盤へ視線を戻すのに、何度か彼女のほうを見ては何も言わずに目を逸らしている。セレーネはしばらく気づかないふりをしていたものの、とうとう気になって駒を持つ手を止めた。


「陛下。何か気になることでもございますか?」


 アルベルトはすぐには答えなかった。盤を見つめたまま何かを言おうとして口を閉ざし、普段の彼には珍しく迷っている。政務について重大な話でもあるのかとセレーネが待っていると、やがてアルベルトは僅かに視線を逸らしながら、低い声で口を開いた。


「その……抱きしめてはくれないか……婚礼の日の温もりが思いの外良かったのだ」


 セレーネは思わず目を瞬いた。普段なら何を決めるにも迷わないアルベルトが、こんなことを言うために先ほどから集中できずにいたらしい。意味を理解するにつれて頬が緩み、断る理由など一つもないどころか、自分との抱擁を彼がもう一度望んでくれたことが嬉しくなった。


「ええ、喜んで」


 セレーネは椅子から立ち上がると、チェス盤を回り込んでアルベルトのそばへ向かった。腕を広げて胸元へ身体を寄せると、アルベルトは最初こそ少しだけ身体を強張らせたものの、すぐに遠慮がちに腕を伸ばして彼女の背へ回す。婚礼の日よりもずっと長い抱擁となり、誰かに見せるためでも儀礼だからでもなく、アルベルトが望み、セレーネも嬉しいと思ったから抱き合っていることが照れ臭くて、セレーネは彼の胸元へ顔を寄せたまま小さく笑った。


 しばらくして二人が離れると、アルベルトは何事もなかったように椅子へ座り直した。耳が僅かに赤くなっていることにはセレーネも気づかないふりをして、自分も向かい側の席へ戻る。中断していた対局を再開してからも、二人とも抱擁について口にすることはなかったが、セレーネの表情は先ほどまでより明らかに明るく、アルベルトも今度こそ盤から注意を逸らすことなく最後まで勝負を続けた。



 ◇



 その夜を境に夫婦の距離はゆっくりと変わり始めた。毎日のように抱き合うようになったわけでも、アルベルトが人前でセレーネに対して夫婦らしい事をしたわけでもない。


 それでも廊下で会えば自然に足を止め、夕食を共にできる日は以前より長く席に残るようになり、チェスの途中で交わす話も少しずつ増えていった。セレーネは幼い頃に祖父からチェスを教わった日のことを話し、アルベルトも皇太子だった頃の出来事を以前より口にするようになる。


 アルベルトがチェスを好む理由の一つを知ったのも、そんな夜のことだった。皇太子だった彼を相手に本気で勝とうとする者は意外なほど少なく、機嫌を損ねることを恐れてわざと悪手を選んだり、勝てる局面で手を緩めたりする者もいたという。アルベルトはそうした対局を何より嫌い、相手が自分の身分を忘れて本気で向かってくる時だけ、チェスを心から楽しむことができた。


「だから、わたくしが気になったのですか?」


 ある夜、セレーネがそう尋ねると、アルベルトはすぐには答えず、手にしていた駒を盤へ置いてから彼女を見た。出会った頃と変わらず無愛想な顔だったが、セレーネにはもう、その沈黙が不機嫌を意味しているわけではないと分かっている。


「私が惹かれたのは、君が私に勝ったからではない」

「では、なぜですか?」

「……勝ったあと、本当に嬉しそうだったからだ」


 セレーネは最初の対局を思い出し、皇妃になる条件など頭から抜け落ちて勝ったことだけを喜んでいた自分の姿まで蘇ってきて、少し恥ずかしくなった。アルベルトはそんな彼女から盤へ視線を戻し、ほかの挑戦者たちは勝てば手に入るものを意識していたのに、セレーネだけは最後まで目の前の一局しか見ていなかったと静かに続けた。


「私はチェスをしている君の楽しそうな顔は大好きだ」


 アルベルトがそこまで話すのは珍しく、セレーネは照れを隠すように次の駒へ手を伸ばした。二人は再び盤へ意識を戻したものの、セレーネの胸には先ほどの言葉が残り続け、アルベルトのほうもいつもより少し長くセレーネの顔を見てから自分の手を考えていた。


 夫婦の関係が穏やかに深まる一方、セレーネには皇妃として向き合わなければならない仕事が増えていった。慈善施設への訪問や宮廷行事への出席だけでなく、外国から届いた贈答品への返礼を選び、皇室が後援する事業の報告にも目を通す。最初は何を決めるにも女官長へ確認していたセレーネだったが、次第に自分で判断できる範囲が広がり、先帝の妃のエレオノーラも必要な時だけ助言するようになっていた。


 ヴァルター侯爵も、そんなセレーネの働きを見ていなかったわけではない。教えられたことを素直に吸収し、分からないことを知ったふりもせず、必要なら自分から専門家へ尋ねに行く姿を見れば、無能な皇妃だと切り捨てることはできなかった。それでも彼の中には、アルベルトが伯爵令嬢を妻に迎れたことで、本来なら皇帝の婚姻によって得られたはずの外交上の利益を失ったという考えが残っていた。国内の有力家門との結びつきも、外国王家との血縁も得られず、一局のチェスだけで帝国にとって最も重要な婚姻の一つが決まったことへの不満は消えていなかったのである。


 そんな折、帝国と長く国境を接してきた隣国エルディア王国から、王女レティシアが皇宮を訪れることになった。王家の中でも特に優秀だと名高い女性で、諸外国の言語にも通じ、父王とともに外交の席へ出ることも多い。華やかな美貌と王族らしい気品を備えているだけでなく、幼い頃からチェスを好み、自国内ではほとんど負けたことがないという話までヴァルターの耳へ届いていた。


 その話を聞いたヴァルターの中に、一つの考えが浮かんだ。アルベルトがセレーネを妃として迎えた最大の理由は、自ら定めた条件に従い、チェスで敗れたからである。ならば、そのセレーネをさらにチェスで破る女性が現れたならば、宮廷の者たちはどちらを皇帝の隣に相応しいと思うのか。まして相手が伯爵令嬢ではなく、帝国との結びつきによって大きな外交上の利益をもたらす隣国の王女なら、第二妃として迎えることを求める声も無視できなくなると考えた。


 レティシアが帝国を訪れて数日後、ヴァルターは外交上の打ち合わせを終えた彼女と話す機会を作った。最初から露骨に第二妃の話を持ち出すことはせず、帝国での滞在について尋ね、やがて彼女が好むというチェスへ自然に話題を移していく。


「王女殿下は、チェスをお嗜みになると伺っております」

「ええ。幼い頃から好んでおりますわ」

「でしたら、皇妃陛下とは良い対局相手になられるかもしれません。ご存じでしょうが、皇妃陛下はチェスで皇帝陛下を破り、そのまま妃として迎えられた方です」


 レティシアは興味を示した。セレーネの婚姻については隣国にも伝わっており、皇帝にチェスで勝った伯爵令嬢が妃になったという珍しい話を彼女も知っている。自国でほとんど負けた経験がないレティシアにとって、そのセレーネがどれほどの腕前なのかは純粋に気になるところでもあった。


「皇妃陛下は、それほどお強いのですか?」

「皇帝陛下を破ったほどですから。もっとも、王女殿下も自国では並ぶ者が少ないと伺いました。もしお二人が盤を挟めば、どちらがお強いのでしょうな」


 ヴァルターはそこから先を急がなかった。レティシア自身に競争心があることを確かめてから、セレーネが皇妃となった経緯と、帝国内で今なおその婚姻を疑問視する者がいることを話す。さらにエルディア王国と帝国の結びつきを考えるならば、王女がアルベルトの第二妃となることには両国にとって大きな意味があると仄めかした。


「皇妃陛下がチェスの勝利によって妃となられたのであれば、その皇妃陛下を破った女性が現れた時、宮廷の者たちが何を思うのか――興味深いとは思われませんか」


 レティシアも、ヴァルターの意図を理解できないほど愚かではなかった。自分がセレーネに勝ったからといって、自動的に第二妃となれるわけではない。それでも皇帝を破ったことで皇妃となった女性を自分が破れば、少なくとも自らのほうが劣っていないことは示せる。王族として受けてきた教育にもチェスの腕にも強い自負があり、帝国皇帝の第二妃となれば祖国へ大きな利益を持ち帰れると考えれば、ヴァルターの提案は彼女にとって無視できるものではなかった。


 数日後、レティシアからセレーネへ正式な対局の申し込みが届いた。隣国でも指折りの棋士と聞いていたセレーネは純粋な勝負だと思って喜び、すぐに受けると返事をしたものの、対局当日になって初めて王女の本当の狙いを知ることになる。皇族や一部の重臣が見守る中、向かい合って席についたレティシアは、駒へ触れる前にセレーネへ真っ直ぐ視線を向けた。


「皇妃陛下。一つ、お願いがございます」

「何でしょう?」

「もし今日の勝負でわたくしが勝つことができましたら、皇帝陛下の第二妃となることをお認めいただきたいのです」


 それまで穏やかだった室内の空気が一変し、セレーネも予想していなかった言葉に目を瞬かせた。アルベルトはレティシアへ向けていた視線を僅かに険しくし、少し離れたところではハインリヒがヴァルターへ目を向けている。誰が王女へこんな考えを吹き込んだのか、事情を知る者にはすぐに想像がついた。


「その勝負に意味はない。私が決めたのは、私に勝った女性を妃に迎えるという条件だ。セレーネに勝った女性を迎えるとは言っていない」


 アルベルトの声は低かったが、怒鳴るような強さはなかった。自分が第二妃を迎えるかどうかを妻同士のチェスで決めるつもりなどなく、そもそもレティシアを第二妃として望んだこともない。皇帝本人から明確に否定されたことで、レティシアも勝利しただけで婚姻を認めさせることはできないと理解した。


「では、第二妃の件は別として、一局お相手いただけませんか。皇妃陛下が陛下を破ったほどの腕前であるなら、ぜひ確かめてみたいのです」


 レティシアが改めて申し込むと、セレーネは彼女を見つめたあと、少し離れた場所にいるヴァルターへ視線を移した。自分が皇妃になった経緯を利用し、王女を第二妃として押し込むための勝負を作ろうとしたのだと察すれば、穏やかな気持ちでいられるはずもない。それでもレティシア自身が勝負を望んでいる以上、セレーネには逃げる理由がなかった。


「第二妃についてお決めになるのは陛下ですから、わたくしが勝手にお約束することはできません。ですが、対局でしたら喜んでお受けいたします」

「受けなくてもいい」

「受けたいのです、陛下。ここまで言われてしまえば、わたくしも負けたくありませんもの」


 セレーネの声には珍しく強い負けん気が滲んでいた。アルベルトは妻の顔をしばらく見つめたものの、止めても気持ちを変えないと分かったのか、それ以上は何も言わなかった。レティシアもセレーネが逃げずに受けたことへ満足したらしく、二人は改めて盤へ向き直った。


 対局が始まると、レティシアが自国で名を知られているという評判が決して大袈裟ではなかったことを、セレーネはすぐに理解した。皇宮へ来てから盤を挟んだ者の中でも、アルベルトを除けば間違いなく上位に入るほどの腕前であり、互いに考え込む時間が自然と長くなっていく。普段なら静かなチェスを退屈そうに眺める者たちまで、この時ばかりは盤から目を離さなかった。


 セレーネの表情からも普段の柔らかな笑みが消え、目の前の王女だけに意識を集中させていた。ヴァルターは少し離れた場所から二人を見守り、レティシアが勝ったとしてもセレーネが即座に皇妃の座を失うとは考えていなかったものの、皇帝を破ったことを最大の根拠として妃になった女性が王女に敗れれば、第二妃を迎えるべきだという主張には大きな力が生まれると考えている。その思惑を知るアルベルトは口を挟まず、妻が自分で受けると決めた勝負を静かに見守っていた。


 時間が経つにつれて、最初は自信に満ちていたレティシアの表情から少しずつ余裕が消えていった。セレーネも容易な相手ではないことを理解しており、何度も長く盤を見つめてから慎重に駒を進める。一つ判断を誤れば流れを奪われる緊張が続く中、やがてセレーネの指が一つの駒をつまみ、迷いなく盤の上を移動させた。


「チェックメイトです、王女殿下」


 レティシアはすぐには顔を上げなかった。盤を見つめたまま別の道が残されていないかを確かめ、やがて自分の敗北を理解すると小さく息を吐く。セレーネもアルベルトと初めて対局した日のように無邪気に喜ぶことはせず、張り詰めていた肩から力を抜きながら相手の反応を待った。ヴァルターも何も言えず、想定していた展開とは違う盤面を見つめている。


「……もう一局、お願いできますか?」


 レティシアが顔を上げると、その表情には悔しさがはっきりと残っていた。自国でほとんど負けた経験がなく、まして自分より身分の低い家から皇妃になったセレーネへ敗れたまま引き下がることは、彼女の自尊心が許さないらしい。セレーネは一度アルベルトへ目を向けたが、彼が止める様子を見せなかったため、今度は迷わず王女へ頷いた。


「もちろんです。わたくしも、もう一局指してみたいと思っておりました」


 二局目では、最初からレティシアの様子が変わっていた。一局目でセレーネの強さを理解したため、以前のような余裕はなく、一つの駒を動かすにも慎重になっている。セレーネも相手の変化に合わせて急がず盤へ向き合い、一局目とは違う緊張の中で勝負を続けた。ヴァルターにとっては、ここでレティシアが勝てば一勝一敗としてまだ話を繋げられるため、先ほど以上に盤から目を離せない。


 二度目の勝負は、一局目ほど長くは続かなかった。慎重になりすぎたレティシアに対してセレーネは落ち着きを崩さず、時間が経つほど王女の表情が険しくなっていく。最後にセレーネが駒を動かした時には、先ほどと同じ言葉が告げられることを、その場にいた誰もが理解していた。


「チェックメイトです、王女殿下」


 レティシアは盤を見つめたまましばらく動かなかった。二度続けて敗れた以上、一局目を偶然と片づけることもできず、セレーネがアルベルトを破ったことさえ幸運だったとは言いにくくなっている。やがて王女は背もたれへ身体を預けると、悔しさを残しながらもセレーネへ真っ直ぐ顔を向けた。


「……完敗です、皇妃陛下。二度も負けてしまっては、言い訳のしようもありません」

「ありがとうございました。王女殿下と指すことができて、とても楽しかったです」

「二度も負かした相手に、そんなに嬉しそうに仰るのですね」

「強い方と対局できる機会は貴重ですから」


 レティシアは一瞬呆気に取られたあと、ようやく肩から力を抜いて苦笑した。自分を負かして優越感に浸っているのではなく、本当に強い相手と二局も指せたことを喜んでいるらしい。そんなセレーネを見ているうちに、王女の中にあった対抗心も少しずつ薄れていった。


 アルベルトは二人のやり取りを最後まで見届けてから、ゆっくりとヴァルターへ視線を向けた。普段と変わらない無愛想な顔でありながら、自分の意図が最初から見抜かれていたことを察した侯爵は、先ほどまでより僅かに姿勢を硬くする。アルベルトは声を荒らげることも、長々と非難することもなかった。


「二度で十分だろう。私の妻を試したかったのなら、結果は出た」

「……はい。陛下」


 ヴァルターは反論できなかった。セレーネを負かし、皇妃としての権威を揺らす材料を作るはずだった対局は、正反対の結果を生んでいる。アルベルトを破った一局が偶然だったのではないかという疑念まで、レティシアに対する二度の勝利によって薄れてしまい、自ら焚きつけた王女によってセレーネの実力を宮廷中へ証明する形になってしまった。


 レティシア自身も椅子から立ち上がると、今度はアルベルトへ向き直った。最初に持ち出した第二妃の話についても、セレーネを破ることを前提に考えていた以上、二度も敗れた後まで押し通すほど往生際は悪くない。


「第二妃のお話については、お忘れくださいませ。皇妃陛下を破った後で改めてお願いするつもりでしたが、その前提から崩れてしまいました」

「そうしてもらえると助かる」


 アルベルトの返答は短く、第二妃を惜しむ気配など欠片もなかった。レティシアはそれを聞いて少しだけ苦笑すると、今度はセレーネへ向き直り、次に帝国を訪れた時には純粋な対局相手としてもう一度勝負をしたいと申し出た。セレーネも今度は何も賭けない一局なら大歓迎だと笑顔で応じ、第二妃になろうとしていた王女と皇妃の間には、ヴァルターの思惑とはまるで違う形で次の約束が交わされた。


 対局の結果は、見守っていた貴族たちを通じてすぐに宮廷内へ広がった。セレーネが皇帝に勝ったのは偶然だったのではないかと陰で囁いていた者たちも、自国でほとんど負けたことがないという隣国の王女を二度続けて破ったと聞けば、同じ言葉を繰り返すことは難しい。ヴァルターがセレーネの立場を揺らすために作った勝負は、結果として彼女が本当に優れた棋士であることを証明し、伯爵令嬢が幸運だけで皇妃になったという陰口を大きく減らすことになった。


 それでもセレーネ自身は、チェスの強さだけで皇妃として認めてもらおうとは考えていなかった。王女との対局を終えた翌日からも、それまでと変わらず皇妃としての仕事へ向き合い、慈善事業の報告に不明な点があれば担当者を呼び、地方の実情が分からなければ資料を集めてもらった。自分の名義だけを貸すのではなく、何に金が使われ、誰のためになるのかを確かめてから判断する姿勢は次第に周囲からも評価され、以前なら彼女を伯爵家出身の皇妃として軽く見ていた者たちも、簡単には侮れなくなっていった。




 ◇




 レティシアとの対局から数日が過ぎた夜、セレーネはアルベルトと二人でいつものチェス盤を挟んでいた。大勢に見守られた王女との勝負とは違い、室内にいるのは二人だけであり、駒が盤へ触れる音の合間に時折短い会話が交わされる。セレーネは自分の手番を考えている途中、レティシアが第二妃について口にした時のアルベルトを思い出し、以前から少し気になっていたことを尋ねることにした。


「陛下。もし、わたくしよりチェスの強い女性が現れたら、どうなさるおつもりなのですか?」

「どうもしない」

「レティシア王女のように、わたくしに勝ったのだから自分を妃にしてほしいと言われてもですか?」

「そうだ。それが問題あるのか?」


 あまりにも迷いのない返事に、セレーネは盤から顔を上げた。アルベルトも手にしていた駒を置かず、向かいに座る妻を見つめている。かつては自分に勝った女性なら誰であろうと妃に迎れると言い切った男なのだから、セレーネとしては少しくらい困ると思っていた。


「誰が君や私に勝っても、もう関係ない。あの条件は、君を迎れた時に終わっている」


 アルベルトは普段と変わらない調子で告げた。人を喜ばせるための甘い言葉を器用に並べられる男ではなく、無愛想な表情にも大きな変化はない。それでも彼が次に何を言おうとしているのか分からず、セレーネは黙って続きを待った。


「妻にしたいのは、君だけだ」


 セレーネはしばらく動けなかった。婚礼の時にも、あの夜に抱擁を求められた時にも感じたことのないほど胸の奥が熱くなり、盤上の勝負など一瞬で頭から抜け落ちる。やがて椅子から立ち上がると、アルベルトが何か尋ねるより先に盤の横を回り込み、その胸へ勢いよく抱きついた。


 以前なら突然抱きしめられれば身体を強張らせていたアルベルトも、今度は迷わず両腕をセレーネの背へ回した。最初に抱擁を求めた夜とは違い、どう腕を回せばいいのか迷う様子もなく、胸元で嬉しそうに笑うセレーネを静かに抱き返す。セレーネもすぐには離れようとせず、二人はしばらくそのままで過ごしてから、ようやく途中だった勝負を思い出して席へ戻った。


 再開した対局では、先ほどまでよりセレーネの機嫌が明らかに良くなっていた。アルベルトは何も言わなかったものの、彼女が考えている間に僅かに口元を緩め、セレーネが顔を上げる頃にはいつもの無愛想な表情へ戻っている。そんなことにも気づかないままセレーネは盤へ集中し、しばらく続いた勝負の末に一つの駒へ手を伸ばした。


「チェックメイトです、陛下」


 初めて出会った日と同じ言葉を聞き、アルベルトは負けた盤を静かに見つめた。あの日のセレーネは皇妃になるつもりなどなく、帝国で最も強いと噂される男と一局指したいという理由だけで皇宮を訪れ、アルベルトも自分を負かす女性が本当に現れるとは考えずに条件を出していた。二人とも望んで始めた婚姻ではなかったのに、今では夜になれば自然と同じ盤を挟み、勝負が終わってもすぐに別れることを惜しむようになっている。


「……もう一局、付き合ってくれないか」

「これで三局目ですよ」

「あと一局だけ」

「前の一局でも、同じことを仰っていました」


 セレーネは困ったように言いながらも、席を立とうとはしなかった。むしろ楽しそうに盤上の駒へ手を伸ばし、一つずつ元の位置へ戻し始める。アルベルトも反対側から駒を並べ直し、白と黒が再び整っていく間、二人の間には最初に対局した日にはなかった穏やかな空気が流れていた。


 政略でも恋でもなく、一局のチェスから始まった二人の婚姻は、いつしか勝敗よりも互いと過ごす時間を望むものへ変わっていた。セレーネが最後の駒を元の位置へ戻して楽しそうに顔を上げると、アルベルトも静かに最初の駒へ手を伸ばす。先ほど負けたばかりだというのに、その表情に不満はなく、次の一局を始められることのほうが大切だと言わんばかりに盤へ視線を落としたのだった。

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