36.偽りの残照-2
ひらり、とオスカーの上着の裾がはためく。
彼の姿が、消えた。
(は……?)
一体どこにいったのかと、辺りを見回す。
そんな中、オスカーの“声”だけが聞こえた。
「君には、これで行こうか」
姿が、見えた。彼は、クロウの背後に立っていた……あまりにも簡単に、死角に入られてしまっていた。
「ッ!?」
彼の存在に気づいたクロウの目が、驚愕に開く。クロウの肩に手を乗せ、オスカーはサングラスの奥で目を細めていた。
「【蝕毒】、【痛禍】」
まずい、と思った頃には遅かった。
ふざけているような様子で、とんでもない組み合わせの術を入れられた。
その名の通り、毒を付与する『蝕毒』。
相手の痛覚を強化する『痛禍』。
——どちらも、拷問に使うような術だ。
オスカーは、不思議そうに首を傾げる。
「あー、まだ駄目?」
凶悪な術をもろに受け、クロウは流石に倒れかけていた。
しかも彼は、元々傷を負っていた。痛禍のせいでそちらの痛みも増しているはずだ。
「困ったなぁ、そろそろひっくり返って欲しいんだけど? ……声も出せないくらい、苦しそうなのに」
オスカーの指摘通り、クロウの声が出ていない。
先ほどまでのように、悪態を吐く余裕はないらしい。
それでも、彼は執念で立ち続けている——そしてルーシオは、気づく。
今、彼が立っている場所は、恐怖に震えあがっている自分を、覆い隠して庇うような位置だ。
(あいつ……っ!)
馬鹿野郎、と叫びたくなったが、耐える。
今、自分が叫んだところで、どうにもならない。
歯を噛みしめ、ルーシオは拳銃を取り出してオスカーへと向ける。
もはや隙を見て彼の脳天を撃ち抜く以外、勝ち筋は存在しない。だが、手の震えが止まらない。
(止まれ、止まれ止まれ止まれ……! ビビってる場合じゃ、無いんだよ……!)
震える自身の手を、何とか抑え込もうとする。震えが、止まらない。
その間ふらつきながらも、クロウは何度もオスカーに斬りかかる。
もはや馬鹿にするような様子でナイフをかわし続けるオスカーは距離を取った後に肩を竦め、「やれやれ」とわざとらしく首を横に振るった。
「仕方ないなぁ、やるっきゃなさそう。おじさんはこれ、得意じゃないんだけどなぁ」
地を蹴り、一気にクロウとの間合いを詰める。
その刹那、彼は自身の右足をクロウの腹部に叩き込んでいた。
(あ……っ)
血が、辺りに飛び散る。
もう悲鳴すら、上がらなかった。
オスカーには相当に強く筋力強化を掛けていたようだ。
クロウはその勢いのまま近くの壁に叩きつけられ、壁を伝うように、ずるりと地に落ちる。
(く、クロウ……!)
急所をぶつけないように、咄嗟に判断したのだろう。
壁と身体の間に挟まれた彼の右翼は、変な方向に折れ曲がっていた。血を、吐いていた。それでも何とか、クロウは起きあがろうともがいていた。
「ッ、う……」
肩で、呼吸をしているような状態だった。
身体を起こす、滑り落ちる。それを、繰り返している。
「えー? まだ動くの? でもこれ、正当防衛を通り越しちゃったねぇ……まあ良いか。
生きてはいるっぽいし? さぁて、目的を聞かせてもらおうか?」
そう言って、オスカーは自身の足元に転がっていたクロウのナイフを拾いあげ、振り返る。
「ねぇ? もうひとり……そこに、いるよね? 早く出ておいでよ」
「!?」
ぞわり、と全身が震えあがった。
先程までよりも、ずっと強い恐怖がルーシオを支配する。
まるで凍りついたかのように、身体が「寒い」と訴え、震え上がる。
「さてさて、どっちかなぁ? ……俺の中では、二択なんだけどさ。
うーん、とりあえず、彼で確認させてもらおうかなぁ」
オスカーは、サングラスを外しながらクロウの元へと歩み寄って行く。
どういうことか、彼の素顔を見たクロウが、あからさまに怯えていた。
「あ……」
「ははっ、流石に知ってたかー……色々と、残念だったねぇ?」
あの顔は、相当だ。あれは、まずい。
今すぐに、クロウを逃がしたい。なのに、ルーシオも、クロウ本人も。全く、動けなかった。
(一体、何が……!? くそ……っ)
背を向けられたというのに、今がチャンスだというのに。身体が、全く言うことを効かない!
「いくら隙だらけな君たちでも、流石に俺の本名くらいは調べてるよねぇ?
俺、本名は『オスカー・ローランド・ドレイク』っていうんだけど」
それは、流石に知っている。
彼が、名門貴族であるドレイク家の長男であるという事実も……当然、知っている。
「俺さ、長男なのに、家督継いでないんだわ。ていうか、“継げなかった”の」
くるくると、オスカーは器用にナイフを回してみせる。その状態で話しながら、軽い足取りでクロウに近づいていった。
「俺には継がせられないって、申し訳ないって、親には本気で謝られたよ。
まー、芸能人辞める気なかったし、他に目的もあったし……全然、気にしてなかったんだけどねぇ」
オスカーは、クロウを見下ろし、手を伸ばす。彼は折れた右翼の根本を掴み、容赦なく持ち上げた。
「い……っ、ぁ……っ」
自分の全体重が一箇所に掛かる痛みに、クロウは呻く。それなのに、動けない。全く抵抗できて、いない。
だらりと、クロウの身体が宙に浮いている。
「ほれ、頑張りな」
「……っ」
容赦なく彼を無理矢理立ち上がらせ、自身の身体に密着させるような姿勢を取らせる。
そして、翼から右腕へと手をスライドさせ、捻り上げる。拾ったナイフを痛みに顔を歪めるクロウの首に突きつけ、不敵な笑みを浮かべてみせた。
その視線は、明確に“こちら”を向いていた。
「——ねぇ? なんでだと思う?」
(な……っ!?)
夕焼けのような色だと思い込んでいた、オスカーの橙色の瞳。それすら、偽りだった。
今、彼の瞳は。
闇の中でも分かる程、美しく“金色”に輝いていた。
(ッ、駄目だ……居場所が、バレてる……)
その金色が、物陰に隠れているはずのルーシオの姿を、まっすぐに捕らえている。
銃を構える両手が、大きくがたがたと震える。油断すれば、銃を落としそうだった。
「これ、知ってる? 黄金眼っていうんだけど。実は俺のだいぶ前のご先祖様がさ、黄金眼の竜人族だったらしいのよ。
でねぇ、それが世代を超えて俺に発現しちゃって……ほら、隔世遺伝って奴?」
何故、自分を見ているのか。何故、居場所がバレているのか。
分からない、どうして、こんなことになったのだろう。
「しかも、途中でちょいちょい竜人族を経由したせいなのかなぁ?
俺ってね、ヒト族なのに……普通の黄金眼よりもだいぶ魔力が多いんだよねぇ」
全てを理解したルーシオは、黙って目を伏せる。
「そんなの、分家の当主にしちゃダメなのよ。もはや貴族制度なんて形骸化しちゃいるけど、あってないようなものだけど……何が、争いの種になるか分かんないじゃん?」
先祖返りの、黄金眼。
そんなの……勝てるはずが、ない。
仮にクロウが万全の状態であっても、彼にはきっと勝てなかった。
またしても自分の情報収集能力の低さが、判断力の弱さが、仲間を危険に晒してしまった。
(……最初から勝てる相手じゃ、無かった)
絶望が、ルーシオを支配する。
(ここはクロウを切り捨てて拠点に情報を持ち帰るのが正解だ。分かってる。分かって、る……)
せめてクロウの命を絶つのは、それだけはやめて欲しい。そう……願ってしまった。
(何か、何か方法は……ッ!?)
必死に頭を回転させようとしたが、首を絞められるような感覚を覚えた。酷く、肩が跳ねた。カチカチと、歯が鳴ってしまいそうだった。
感情が出ないように必死で特訓した両の耳が、なすすべもなく、ぺたりと垂れる。何も、考えられなかった。
「ほら、尻尾巻いて逃げだせば良いんじゃない? 情けなくてみっともないけど、それが正解だよ。
下手なことやったら……この子の首、飛んじゃうしねぇ?」
怯えながらも、ルーシオは顔を上げてオスカーを、クロウを見る。
「……」
彼は拘束されたまま、ナイフを突きつけられたまま。恐怖心を、完全には隠せていない様子で……クロウはすっと、目を閉じた。クロウはルーシオから、目を背けることを選んだ。
助けを求めるわけでも、命乞いをするわけでもない。「早く逃げてください」という、ルーシオに対する声無きメッセージだ。
彼の行動の意図は、分かっていた……それでも。
(できるかよ、そんなこと……!)
全身が震える。
頭がおかしくなってしまいそうだった。
否、既におかしくなっているのかもしれない。
——自分は今、ありえない選択をしようとしている。
「……ッ」
持っていた銃を、落とさないよう、必死に握り続けた銃を、遠くに放り投げた。
自分に敵意がないことを証明するため、オスカーの視界に入る場所に、投げ捨てる。
カラカラと、無機質な音が路地裏に響く。それに合わせて、ルーシオはアスファルトを蹴った。
「指示を出したのは、俺だ……! 俺が、責任者だ!」
足が酷くもつれて、倒れ込みそうになりながらも。
根性だけで、オスカーの前に飛び出した。
「だから、頼む……頼む、から……!」
怖い、怖い怖い怖い。
息が、上手く吸えない。苦しい。
強い重力に押し潰されるような、ありえない感覚が、ルーシオを襲う。
いっそ、勢いよく倒れ込んでしまいたかった。
「頼むから……っ、そいつは、助けてやってくれ……!」
俯きそうになりながらも、ルーシオはどうにか顔を上げる。
冷や汗が頬を流れて、地面に落ちる。寒い。
オスカーの金の瞳に射抜かれ、それだけで死んでしまいそうだった。
「……」
オスカーはそんなルーシオを見つめながら、深く息を吐き出す。
ふっと、鼻で笑われたのが分かった。
「ま、ギリギリ及第点かな。この子見捨てて逃げ出したら、どうしてやろうかと思ったけど」
その時、ぷつり、と。
今まで感じていた、“何か”が途切れた。
(あ……)
まるで重石が落ちたような、不思議な感覚。
突然の出来事に、ルーシオは狼狽える。どうしようもないほどに感じていた恐怖心が、無くなっていた。
「……」
膝から崩れ落ちそうな感覚が一瞬で消え、吸えなかった空気が一気に胸に流れ込んだ。
その様子を見て、いつの間にやらクロウの右腕の拘束を解き、負担が少ない脇の下に腕を回していたオスカーは、困ったように笑った。
「はーあぁ、まったく……どこから行こうかなぁ」
彼はクロウを、ゆっくりと地面に横たえる。
クロウの意識があるのかどうかは、ここからは分からない。ただぐったり目を閉ざしたまま、荒い呼吸をしていることだけは分かった。
彼に突きつけられていたナイフはいつの間にか、少し離れた場所に転がっていた。
……あんなにも、劣勢だったと言うのに。
(絶対に殺られるって、これで終わりだって……思っていたのに……)
彼は、一体何を考えているのだろう。
ルーシオは、素直に疑問を口にする。
「あ、あんた、一体……一体、何者だ……?」
「え? 大御所俳優のオスカー様ですが?」
「い、いや、そうじゃなくて……」
そんなことは知っている!
ルーシオは困惑の眼差しを向けるが、オスカーはへらへら笑っている。
「まあ、君らの目的は分かったしねぇ」
「え……?」
「いやー、うっかり殺さなくて良かった良かった。おじさま、人殺しになるとこだったよ! あはは!」
楽しげに、オスカーは首を傾げて笑ってみせる……が、
「楽しく笑って済むなら、良かったんだけどねぇ……笑えない。本ッ当に、笑えないよ、これ」
——否、その目は“一切”笑っていない! 表情を変えただけだ!
「さーて、お説教の時間でーす」
「えっ?」




