9.震えをこらえて-3
「大丈夫か!?」
駆けつけた先。少々息が切れている様子ではあったものの、レヴィは無事だった。彼女の背後には、逃げそびれたらしい水竜種の人々。
そして、彼女の眼前には水竜種と全く同じ見た目をしているが、瞳に違う虹彩を持つ男が立っている——興奮しているのか、随分と息が荒い。
レヴィはラザラスを一瞥した後、叫ぶ。
「ラズさん、あの人っ、あの人が、黄金眼です! 一般的な竜人族より魔力が多いので、気をつけてください!」
レヴィの魔力量は、確かに多い。
しかし、竜人族より多いかと言われると、残念ながら怪しい。
(魔術戦じゃ勝ち目がない……っ、なら、拳銃で……!)
そこでロゼッタは気づく。今、レヴィは拳銃を持っていない。
いつの間にか、『空間収納』の中にしまっていたようだ。
そもそも——“保護すべき対象”を相手に、攻撃などできるはずもない。
ラザラスも軽率に動くことはできず、相手の動向を伺っている。
男は敵意を通り越して殺意を抱いているというのに、彼らは威嚇射撃さえ許されない。
「……っ」
ギリギリと奥歯を噛み締め、男は怒りの裏に恐怖心が入り混じった瞳でレヴィを睨んでいる。
レヴィはレヴィで、一歩も動けない。逃げれば、自身の後ろで腰を抜かしている人々に彼の攻撃が行ってしまうかもしれないからだ。
男は他の水竜種よりも傷つけられており、全身打撲痕だらけだった。手枷を着けられていたと思しき両手首は擦り切れ、出血している。何とか逃げ出そうと、必死にもがいていたに違いない。
だからこそ彼は、もはや誰が”味方”で、誰が”敵”なのかも、全く判断できない状態なのだろう。
レヴィはちらりと、その小さな背で庇っている水竜種達の姿を見る。
動けるのであれば、ラザラスに着いて逃げてくれれば、それで良い。そんな彼女の意思が感じられた。
(ど、どうしよう、どうすれば……!)
頭が、回らない。これは放置して良い状況ではない。
だが、無策で飛び出せばかえって迷惑だ。衝動的に動いてしまいそうな心を律し、ロゼッタは男の動きを注視する。
男が、酷く咳き込む。
それでも、彼の黄金色に輝く瞳はレヴィをとらえて離さなかった。
「はー……っ、はー……っ」
息が、荒い。相当に苦しいのだろう。
頭部を殴られてもいたのか、頭から出血している様子だ。ぽたぽたと、流れた血が床に落ちていく——その時、ぞくり、とロゼッタは背筋が凍りつくような感覚を抱いた。
何かに耐えている様子のレヴィの後ろから、小さく悲鳴が上がる。
レヴィは背後の存在を必死に庇おうとしているが、彼女自身も決して余裕があるようには見えない。
「大丈夫! 大丈夫ですからね!」
レヴィは逡巡しつつも、両手を前に突き出した。
「……っ、【崩霊】!」
黄金眼の男に向かって、レヴィは何らかの魔術を放った。
しかし、効果がない。効いていない!
(完全に押し負けちゃってる……!)
『崩霊』は無属性の中級術だ。相手の魔力を分散させ、魔術の発動を阻止する術。
となると、相手は何かしらの術を発動させていたことになる。
レヴィに庇われた人々が震え上がっている様子、ロゼッタ自身が抱いた感覚から考えるに、男が使っていたのは恐怖心を付与する術だろうか。
(本には無かった気がするから、上級術かもしれない……いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない!)
ロゼッタは影の中で自身の魔力を操作し始める。
飛び出そうかとも思ったが、ちょうど練習していた術だ。このままでも問題なく使える。
この状況下だ。気にしている場合ではないと首を横に振るい、ロゼッタは叫んだ。
「【魔力譲渡】!」
魔力を流す。必要量が分からないため、体調を崩さない程度、相当量の魔力を一気に流した。
レヴィは驚き目を丸くした後、すぐに黄金眼の男へ視線を戻した。
「感謝します! 次こそ……! 【崩霊】!」
バチンッ、と何かが弾ける音がした。
抱いていた恐怖心が、水に溶けるように消え去っていく。レヴィの術が成功したらしい。
——だが、
「レヴィ!」
ラザラスが、叫ぶ。
ロゼッタの眼前でレヴィの身体が横に飛び、視界にはそこには無かったはずの“金色”が飛び込んできた。
何かが壁に激突する。鈍い音が響く。その直後、大きな悲鳴が聞こえた。
迫り来る男からレヴィを庇い、ラザラスが殴り飛ばされたのだと気づくのには、少し時間が掛かった。
「ラズさん!?」
「ッ、ごほ……っ、早く、逃げろ……!」
壁に背を強く打ちつけたせいで、声が出にくいのだろう。
痛みに耐えながらも、咳き込みながら絞り出された、ラザラスの叫び。それを聞いた水竜種達は、ようやく脱兎のごとく逃げ出した。
守る者がいなくなったレヴィは、全身を巡る魔力を掻き集め、叫ぶ。
「【拘束】!!」
しかし、効果がない。相手が悪すぎる。「そんな」と小さく呟くレヴィの声が聞こえた。
「殺してやる……殺して、やる……!!」
慟哭のような、唸りが響いた。
黄金眼の男は、ラザラスの上に跨り、容赦なく拳を叩きつける。
ドスッ、ドスッ、と肉を殴る音が響く……どういうわけか、ラザラスの反応が鈍い。
まともに抵抗している様子が、一切見られない!
(もう、迷ってる暇なんてない!)
ラザラスは動けない。魔力を出し切った、レヴィも同様だ。
もう一度、レヴィに魔力譲渡を使うという手段もあった筈だが——考えるよりも先に、身体が動いていた。
ロゼッタは影を飛び出し、「逃げ出したい」と叫ぶ身体を一喝しながら声を張り上げる。
「こっ、こっちを見てください!!」
情けないほどに、声は震えていた。だが、それでも構わなかった。
男の意識がこちらに向き、ラザラスを殴るのをやめてくれれば、それで良い。
(……ごめんなさい)
ロゼッタは、己の影を踏みしめるように前に出る。
酷く震える右腕に、左手を添える。人差し指と中指を立て、男に突きつけた。
「【拘束】!」
叫ぶ。ラザラスに跨っていた男が弾け飛ぶように床を転がった。
そのまま、ロゼッタは男に歩み寄って行く。
「……っ、来るな! 来るな、来るな!!」
先程までの高圧的な振る舞いが虚勢であることが瞬時に分かるほどに……哀れなほどに、悲痛な叫び声が上がった。
——彼は、怯えていただけだ。
「いやだ……っ、もう嫌だ! やめてくれ! 助けてくれ……!」
いきなり暴力を振るわれて、そのまま知らない場所に連れてこられた。目が覚めた時には、冷たい檻の中に入れられていたのだろう。彼の場合はその強さゆえに、能力も封じられていたに違いない。
何も分からない。逃げ出すことさえできない。これで、恐怖を感じないはずがない。彼も別に、暴れたくて、暴れたわけではない。
(怖いよね……気持ちは、分かるよ)
ちゃんと、気づいていた。それでも、こうするしか無かった。
ならばせめて、少しでも早く安心して欲しいとロゼッタは願った。
「あの、わたしの種族……分かります?」
全力で『拘束』を掛けたつもりだが、成功している保証はどこにもない。
彼が動き出すかもしれない恐怖心と戦いながら、ロゼッタは姿勢を低くし、床に転がる男に声を掛ける。男は目を丸くし、口を開いた。
「! か、“宝竜祖”……!?」
「あっ、思ってたのとだいぶ違う答え返ってきましたね!?
い、一応、わたし、火竜種のつもりだったんですけど……」
今日だけで3つも竜人族の種類を学んでしまった。
ただ、これは自分に知識が無いだけで、男の言う種族の方が正解なのだろう。
正気に戻ったらしい男は決まりが悪いのか、ロゼッタから視線を逸らしている。
「宝竜祖は、オレみたいな黄金眼とは比べ物にならないレベルの突然変異体、というか……強烈な先祖返りだ」
男は、自嘲気味に笑った。
「髪色は元の種族と同じだが、耳や尾、翼なんかは一番強い魔術の属性に引っ張られて色が変わる。
……まあ、宝竜祖の最大の特徴は、額の赤い宝石だな」
「あ、ありがとうございます……?」
「……。はは……」
種族を説明してくれたことに対して反射的にお礼を口にしたところ、男はロゼッタを見上げ、自罰的な、今にも泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「故郷で宝竜祖サマを見捨てたオレが、違う宝竜祖サマに助けられるとはねぇ……」
「え……?」
「……ッ、すまなかった。本当に……すまない……」
その言葉は、ロゼッタに向けられたものなのか、ラザラスやレヴィに向けられたものなのか——それとも、ここにはいない“別の誰か”に向けられたものなのか。
分からないが、彼が再び暴れることはないだろう。
そう判断したロゼッタが術を解除すると、男はふらりと立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
「アンタ達は、こんなオレを助けに来てくれたというのに……っ、本当に、申し訳ない……!」
とんでもないことをした自覚が、痛いほどにあるのだろう。
男は酷く、泣いている。静かな場に、嗚咽が響く。
何故かラザラスもレヴィも動く気配が無いため、ロゼッタは彼の手を引き、脱出口まで送り届けた。
(……っ、ラズさん、レヴィさん!)
ラザラスとレヴィ。
先程2人が動かなかった理由は、決して『黄金眼の男に怯えたから』では無いだろう。男を回収班の元に送り届けたロゼッタはすぐさま踵を返し、2人の元へと向かう。
「ロゼッタさん!」
倒れたラザラスの上体を支えていたレヴィの声が耳に届く。
「ひゅっ、——かは……っ、ぐ……」
意識はかろうじてあるようだが、左目“だけ”でこちらを見てくるラザラスは荒く、浅い呼吸を繰り返していた。
彼の碧眼が、片方見当たらない。
(え……?)
あまりの痛々しさに目を背けたくなるのに耐え、ロゼッタはラザラスの顔を注視する。
重点的に殴られたらしい顔が、酷く腫れ上がっていることが暗がりでもよく見えた。
鼻や口元からは軽い出血が確認できるが、ここはそこまで問題ではなさそうだ。
問題は右目付近の腫れだ。内出血が酷いらしく、肌の色が紫に変わりつつある。そしてやはり、右目が見えない。腫れのせいか、それとも……違うのか。この可能性は、考えたくなかった。
「ら、ラズさん……っ」
かひゅ、かひゅ、と変な呼吸音が響く。
ラザラスは、右目付近同様に紫色に変色してしまった喉元を力なく掻いている。息が苦しいらしい。
殴られながら、動けないなりに顔を庇おうとはしたのか、腕に着けていた防具はところどころが割れており、その下の腕が腫れ上がっているのも見て取れた。
レヴィは懐からトランシーバーを取り出し、相手の応答を待つよりも早く叫んだ。
「ごめんなさい! 回収班に同行する予定でしたが、今から緊急帰還します!
……待機を、お願いします!」
そして彼女はバッと顔を上げ、ロゼッタを見上げる。
「恥を承知でお願いします。もう一度、『魔力譲渡』を使う余裕はありますか!?」
恐らく『転移』を使うつもりなのだろう。ロゼッタは迷わず頷き、レヴィに手を差し出す。
「必要なだけ! 全部持って行ってください!」
「ありがとうございます!」
レヴィに手を掴まれるのを感じると同時、ゆらりと世界が歪む。
魔力を吸われたせいではない——『転移』が、始まっている。
レヴィは軽く息を吸い込み、叫んだ。
「【転移】!」
緊張からか恐怖からか、忙しなく跳ね回っている心臓の音を感じながら、ロゼッタは転移に備え、すっと目を閉ざした。
そして世界が、音を失った。




