2 紅炎のウィルヘルム
*
私を買った男の人は、ウィルヘルムというらしい。帝国風の名前。確かに。外見からして、王国の人ではないと分かってはいたけれど。ご主人様の姿は、別に、帝国人にも似ていない。
ご主人様。そう。ご主人様なのだ。私の。
ご主人様のお屋敷は、聖職者にのみ住むことを許される、聖区に在った。
聖職者? そうは見えない。けれど。何故だか、不思議としっくりとくる。
白い壁に、黒い屋根。大きな煙突。沢山の窓。広い庭。
庭には、白い幹の大きな木が一つ。それから、日時計。
素敵なお家だと思う。
思うのだけれど。
少しばかり、大きすぎる。お掃除が大変。
勿論、お掃除するのが嫌というわけではない。ご主人様は、不思議なことに、私を目も眩むような大金で買ったのに、私に何をさせるわけでもなく。ただ、掃除と食事を作らせるだけ。食事だって、最初は上手く作れないのを、わざわざ家庭教師まで付けて。三か月ほどで漸く、ご主人様が満足するようなものを作れるようになった。
お掃除は……。うん。まだ、大変だけれど。
それだけ。後は、私の好きにさせてくれる。それどころか、お小遣いもくれる。
私は不思議に思うと同時に不安になってしまう。
きっと、ご主人様は気紛れで私を買ったんだ。それなら、きっと。気紛れに捨てることもするかもしれない。
「……ご主人様」
「なんだ、アリス。小遣いか? いいぞ」
「あ……や……お小遣いは三日前に貰いました」
だからといって。訊けるわけもなく。
ご主人様。
綺麗な木目の椅子に座って、優雅に紅茶を飲むご主人様。
私を買った人。沢山の金貨で、私を買った人。
私にそんな価値があるとは思えない。今の私に、そんな価値が。
「あの、その、お小遣いのこと、なんですけど」
「なんだ。少ないか?」
「ぎゃ、逆です。ちょっと、多いと思います。私、こんなに……」
金貨一枚。それがどれだけの価値を持っているのか。ご主人様はもしかしたら知らないのかもしれない。
金貨一枚。銀貨にしておおよそ、三十枚。
普通の市民が一か月暮らすの必要な銀貨が大体、二十枚。
それを、私みたいな奴隷にぽんと、渡すなんて。そもそも奴隷がお小遣いなんて。それ自体が変だけど。
「大地の女神は言っている。大は小を兼ねると。まあ、多いと思うのなら、貯金でもしておくんだな」
貯金。勿論、貰った分を全部使ってしまうようなことはしない。
食費とお洋服の代金は別に貰っているのだし。……うん。それも、変なのだけど。
ご主人様。変な、ご主人様。
そもそも、ご主人様は何をしてお金を稼いでいる人なのだろう。
貴族様? ううん。貴族様なら、聖区に住める筈がない。
「なんだ、アリス。そんなに見つめて。やはり小遣いか? いいぞ」
「だ、だから、違いますっ……。お金は大切にしてください」
「……。ふむ。大切にしているつもりなんだがな……」
あ、あれ。なんだか、寂しそう? 気のせい?
「そ、そんなことより、ご主人様! 朝ごはん、どうでしたか?」
「ん? ……ああ、美味だった。あの、トマトで煮た鳥が美味かった。……そうだな。もう少し、辛いほうが、好みだ。次はもう少し辛く出来るか?」
「はい! じゃあ、次は香辛料を多めに入れますね」
ご主人様は、毎朝のご飯に、ちゃんと感想を言ってくれる。
私は、他の奴隷の事は良く知らないけれど。これが普通じゃないことくらいは、分かる。
あんまり上手じゃなかった最初の頃から、ずっと。感想をくれる。美味しくなくても、ちゃんと食べて、次はどうすればいいかを教えてくれた。
ご主人様は辛いのが好き。それと、酸っぱいのも。苦いのは、ちょっと苦手だけど、アクセントとしてなら、大丈夫。お肉は、鳥が好き。焼いたのよりも、煮たのが好み。
「晩御飯は、何にしますか?」
「お前に任せる。たまには、お前の食べたいものを作るといい」
たまには、なんていうけれど。ご主人様はいつも、お前に任せる、としか言わない。
ご主人様が食事に文句を言ったことはないから、別にいいのだけれど。
「それから。何度も言うが、市場に行くときは気を付けるように。治安は悪くないが……。いや。そうだな。今日は私も行こう」
「! ご主人様も?」
「なんだ。嫌か?」
「い、嫌じゃないです! 準備してきます!」
ご主人様とお出かけ。どうしたんだろう。いつもは、あんまり外に出ようとしないのに。
*
ご主人様と歩いていると、時々、本当なら私なんかが話すことも赦されないような。そんなとっても偉い人が話しかけてくることがある。そんなとき、ご主人様は色々な名前で呼ばれる。
燃え盛るもの。
蒼穹に独り全てを支配するもの。
劫火にて闇を焼き払うもの。
永劫に廻るもの。
昼と夜を分けるもの。
暁の子。
「これは、これは。紅炎のウィルヘルムどの────」
そして、紅炎。
今日もそう。綺麗な服を着た男の人が、一人。ご主人様に近寄って話しかけてきた。
貴族の人だろうか。聖区には、貴族は立ち入ることが出来ないから。貴族の人は、ご主人様が聖区の外に出るのを待ち構えているかのように、頻繁に話しかけてくる。
「……。何用かな」
「いえ。用というほどのことではないのですがね。一つ、挨拶をと────」
ご主人様は、大体の場合、適当な挨拶をして、話をさっさと切り上げてしまう。一見すると、とても雑なようにさえ見える。いいのかな、と私なんかは心配になるけれど。それが許されるくらい、ご主人様は、どうやら、偉い人らしい。
ああ。ご主人様。そんな露骨に面倒そうな顔をしたら駄目ですよ。明らかに、お相手の顔、引き攣ってます。
「ところで、ウィルヘルムどの。そちらの少女は?」
貴族の人が、私に視線を向ける。その視線は、当然だけれど。好意的なものじゃない。
「ああ。買った」
「ああ、ウィルヘルム様。仰ってくだされば、娘を貴方様に仕えさせましたのに。卑しい奴隷など買わずとも」
まあ。確かに。酷い言い草だったけれど。少し、思議には思う。
貴族の間には、自分の子供を、他の貴族の元に遣わせることがあるらしい。
高貴な人に仕えるのは、やはり、高貴な人でなくてはいけない。それは、まあ。そうかなと思う。なら、ご主人様はどうして。
「……。まさかとは思うが。私に意見をするのか?」
……。あれ? ご主人様……。何か、怒っている?
貴族の人も、ご主人様の視線から何かを感じ取ったのか、蒼褪めていた。
「い、いえ。滅相もない」
「私からすれば。お前達は皆同じ。天の下にある灰に過ぎん。薪にすらならない。既に燃え尽きた残骸だ。くだらん。星の女神が何故にお前達を見限ったのか。考えるがいい」
貴族の人は、何度も何度もご主人様に頭を下げると、いそいそと去っていった。
なんだか、可哀想に思えたけれど。ご主人様は何に怒ったのだろう。まさか本当に意見されたことに怒ったわけじゃないのは、私にも分かる。そんなことで怒られるなら、私は毎日怒られている筈だから。
「ご主人様……?」
「ん? ……ああ。気にするな。少し、虫の居場所が悪かっただけだ」
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