Episode1 -7-
―土曜日―
新宿と渋谷は異なる色を持った街だ。その雰囲気も、行き交う人も、流れも。土曜日という事も手伝って、街は買い物客でごった返していた。様々なブランドのロゴが入った紙袋をぶら下げた人達が、楽しげに通り過ぎて行く。
ドラックストアから流れてくる音楽が、まだ早いクリスマスを祝っていた。急く事もなく、ゆったりと動く人波の中で、愁もゆっくりと歩いていた。彼の前を歩く20代の女性2人が、彼氏のクリスマスプレゼントの相談をしていた。どうやら財布が第一候補の様だった。
11月中旬だというのに、街はクリスマス一色だった。ショーウィンドウにはサンタ、ソリ、トナカイ等がスプレーされ、店先にはツリーが飾られていた。店内はキラキラと輝くモールやオーナメントが飾ってあって、華やかだった。そして葉が一枚もない木にはイルミネーションが巻かれ、光り輝いていた。
日本はそもそも仏教の国ではないのか、と愁は思った。もし祝うのであれば、キリストの誕生日ではなく、仏陀の誕生日の方ではないのか。お宮参りをし、厄除けをし、初詣をし、神前や教会で愛を誓い、葬式にはお坊さんを呼ぶ。生きているうちに一体幾つの神に、その祈りを捧げているのだろう。その祈りはどの神が叶えてくれるのだろう。
前を歩いていた女性2人が、スーツ姿の若い男に声を掛けられていた。2人は首を振りながら、歩き続けている。男はそれでも横に張り付いて、執拗に話かけている。
2人との間にカップルが入ってきていた為、愁には男が何と言っているのか聞き取れなかった。只のナンパ、という感じではなく、キャッチか水商売のスカウトに見えた。
女性の一人が男に手を振り、友人の腕をぐいっと掴んで足早に人波に消えて行った。男は心底残念そうな顔をして、彼女達が行った方向とは逆の人の流れに入って行った。
愁は幾分ホッとした。今、面倒に巻き込まれるのはごめんだ。だが、何かあれば動かざる得ない。
携帯電話がブルブルと震え、愁はコートのポケットから引っ張り出した。画面には知らない番号が表示されていた。「はい、浜野です」
「おう、シュウ、俺だ」
「・・・何故携帯を持っているんです?」歩きながら、シゲの声に耳をすます。
「持ってねぇなんて一言も言ってねぇぞ、俺は。シュウが聞かないで勝手に帰っちまったんだろうがよ」シゲは豪快に笑った。「今、何処に居るんだ?随分後ろがうるせーな」
「渋谷ですが」
「仕事か?」
「いいえ、今日は非番です。どうかしましたか?」
「休みなのか。じゃ、ちょっくら付き合え」シゲはそう言うと、一方的に自分の居る場所を言って電話を切った。
携帯をポケットの中に押し込むと、愁は駅へと向かう人の流れに身体を滑り込ませた。
愁は酒を飲まないから、全く種類が分からなかった。酒屋の店主に聞いたら、明らかに値段の高い物を勧められた。多分、こんな物は受け取らないだろう。ほんの少ししかない知識を絞って、焼酎を選んだ。値段は中の下。これくらいが妥当だろう。それにつまみを幾つか足した。
ビニール袋を下げて、愁はシゲが言っていた場所を目指す。怪しく光るネオン街を通り抜け、薄暗い道を歩く。細い道をしばらく歩いていると、何かが焼ける匂いが愁の鼻をついた。するめ、だ。小さな空き地。カセットコンロを囲むようにして、3人の男が座っていた。その中の一人が愁に向かって、大きく手を振る。
愁は膝くらいまである小さな柵を越え、空き地の中へと入った。
「よう」シゲは座ったまま、近くに来た愁を見上げた。「何だ、お前?休みなのにスーツ着てんのか?」
愁はにっこりと微笑む。「何時呼び出されるか分からないので。でも、ネクタイはしていませんよ」黒いコート、ストライプの入ったグレーのスーツ、濃いワインレッドのシャツのボタンを一つ外していたが、それでもきちんとしていると言った印象を与える格好を彼はしていた。そのまま仕事に行っても差し障りのない格好をしていないと、呼び出された時にすぐ動けない。勿論、バッチや手錠もポケットの中だ。捜査官になった時、ジェイに教えられた、ルールその1。だが、ジェイは動きやすい格好と言っただけなのだが、愁はそれ以来スーツを着用している。休みの日、出かける時は必ず。
「へぇ、若いのに仕事熱心だね」と、シゲの前に座っている60代くらいの男が言った。
もう一人も60代くらいの、白髪で小柄な男だった。彼はじっと愁を見上げていた。
3人はビールの箱を裏返したものに座り、それぞれ手にはコップと焼いたするめを持っていた。カセットコンロにはやかんがかけてあり、その端でするめが焼かれていた。
愁はシゲにビニール袋を差し出した。「酒盛りですか?」
シゲは袋を受け取ると、中から焼酎を取り出した。「おうよ、寒みぃからな。気が効くじゃねぇか、つまみまで入ってる」
彼の笑顔に愁はホッと胸を撫で下ろした。あの焼酎で良かった様だ。
シゲが自分の隣のビールケースをぽんぽんと叩いた。「まぁ、座れ」
「えぇ」愁はその座り心地の良いとは言えない椅子に腰を下ろした。
「ほら」白髪の男がぐいっとグラスを差し出した。
愁はその穏やかな笑みを浮かべる男に見覚えがあった。真っ黒だった髪が真っ白になってしまい、恰幅の良かった体躯が細くなってしまった為、判らなかったが、間近で見ればあの優しげな顔は何等変わってはいなかった。「お久しぶりですね、源さん」
「よく覚えてるな、名前。俺はお前の目の玉や顔は覚えてたけど、名前はすっかり忘れちまったよ」源はそう言って、嬉しそうに笑った。
受け取ったグラスにシゲが酒を注ごうとし、愁は焼酎を押さえた。「飲めないんですよ」
「あん?」
「体が受け付けなくて」シゲから取った焼酎を、彼のコップに注ぎながら愁は言った。
「何だよ、つまんねぇな」シゲは眉を寄せ、足元に置いてある袋からミネラルウォーターを出して差し出した。
「ありがとうございます」片手で受け取り、源にも酌をする。
「悪いな」
「私が酌をしたところで楽しくはないでしょけど」目の前にいる男にも酌をしようと、愁は腰を浮かせた。相手がグラスを出すと、注ぎながら言った。「始めてお会いしますね」
「こいつは棟梁だ」シゲが言った。
「そうですか。よろしくお願いします」愁はにこやかに微笑む。
「おう」棟梁はにっと笑った。シゲや源と同じくらい小柄だが、彼はとても筋肉質な体つきをしていた。随分と着込んでいたが、それでも首元や腕、手等を見れば、一目で分かる程に。
愁はコートのポケットから煙草を取り出し、口に咥えると、シゲに回した。火を点け、ライターも回す。シゲは隣の棟梁には渡さず、源に渡した。
源から戻ってきた煙草とライターをカセットコンロが乗っている箱の上に置き、愁は棟梁を見る。「棟梁は吸わないのですか?」
彼は並々と酒が注がれたコップを自分の目の前に掲げた。「俺はこれ1本だ」
「棟梁はザルだからな」
「飲んでも飲んでもなぁーんも変わらなくてなぁ。俺と源は何時も介抱されてんだ」
「俺は北国出身だからな」
「なーに言ってんだ。俺だって北国出身だ。でも、棟梁みたいには飲めねぇよ」シゲはグイッと酒を呷る。
「あの2人は何時もあぁなんだ。シゲさんはあぁ言ってるけど本当に介抱されてるのは俺一人だけだぞ」源が囁く様に言った。「シュウは体質に合わないのか?」
「えぇ」愁は2人のやりとりを視界の隅に置きながら、頷いて見せた。酒は飲めない、のではなく、愁は飲まない。底なしではないが、そこそこであれば酒は飲める。ビールやカクテルなら美味いとも感じる。学生時代には飲み明かした事もある。だが、何時からか忘れたがやめた。説明するのは面倒くさいから、聞かれる時は体質に合わない事にしていた。
「そうか」源が優しく微笑んだ。その目は愁を見ていたが、彼はほんの少し違うところを見ていた。あの頃の愁は同い年の子供より随分と大人びた目をしていた。今の様に穏やかに微笑む事はなかったが、笑えば本当に可愛い子供だった。自分が涙ぐむのは年を取ったせいだろうか。子供なんて持った事なんぞないのに、親の気持ちが解った気がした。「立派になったな、シュウ」
涙ぐむ源の目を見て、愁は優しげな笑みを浮かべる。“子供を傷付けるのも大人、子供を救うのも大人”あの頃、母親が呪文の様に繰り返していた言葉。シゲや源は明らかに後者なのだろう。あの頃も、今も、自分にとっては。
「何だよ、もう酔ってるのか?」シゲが穏やかに笑う。口調はからかっていたが、シゲには源の気持ちが痛い程分かる。自分だって先日、愁と会った時には涙が滲んだ。
源は袖口でグイッと目元を拭った。「そうかもな」そう微笑んで、彼はグラスの酒を飲み干した。
愁にとってはこの上なく、居心地の良い沈黙が流れていた。ゆらりゆらり、指に挟んだ煙草の煙が、4人の間を揺れている。遠くから聞こえる喧騒が、何故かBGMの様だった。
「なぁ、お前、警察にいるんだって?」
「はい」
棟梁は目を丸くした。「何だ、お前、警官なのか?」
「えぇ」
「シュウは警視庁にいるんだぜ」何処か自慢げにシゲは言う。「すごいだろう?」
「エリートなんだなぁ」グイグイと酒を呷りながら、棟梁は感心した様に言った。
「いいえ、私はエリートではなく下の方の人間ですよ」
「謙遜するなよ」シゲは笑った。
「いいえ、本当に」愁は困った様に微笑んだ。警視庁がエリート集団だという事は、今や世間にとっても暗黙の了解。田中や桜井、池上は東大卒だし、冷子に至ってはハーバードだ。愁は大学を出てはいるが、地元の大学だったし、レベルは中の中。この大学は犯罪心理学を研究している教授が在籍していたので、愁にとっては好都合だったのだが、本来であれば警視庁には入れなかったと思えるくらいのレベルだ。
「なぁ・・・」棟梁がポツリと言った。
「はい」
「あの事件、捕まったのか?ほら、若い男がレイプされて殺された事件さぁ」
「いいえ、まだです」
「俺の大工仲間がさぁ」自分の持っているグラスに視線を落として、彼はゆっくりと言葉を選びつつ話始める。「刑事が聞き込みにきたんだって話してたんだ。ほら、あの変な写真みたいなの持ってさ」
「モンタージュですか?」
棟梁は愁を見上げて、うんうんと頷く。「そう、それ。あと画質の悪い白黒写真な。そいつさぁ」彼はそこでじっと愁を見つめた。その先を言うべきか、棟梁は決めかねていた。自分の長年の友人であるシゲや源の昔馴染みなのだから、愁はきっと信用して良い男なのだろうと思う。それにそもそも警察官なのだ。
「何でしょう?」愁は穏やかな笑みを浮かべた。
シゲも源も棟梁をじっと見ていた。源が小さなバケツに煙草を投げ入れる。ジュッという音がし、煙が立ち上り、風に揺られて消えた。
「そいつ、確かじゃねぇから言わなかったらしいんだけど、取引先に似ているやつがいたって」
愁は微かに眉をひそめた。警察が掴めない情報。「取引先の名前は解りますか?」至極、冷静な口調で言った。
棟梁は愁の様子にホッとしていた。そして口にして良かったと思った。確かじゃないから刑事に話さなかったという大工仲間の気持ちも判る。もし間違っていたら罪になるのか、と不安が過ぎる。だが、もしそいつが犯人だったら?とも思っていたのだ。正直、愁がここで何故話さなかったのかと詰め寄ってきたら、ここへ来た事を後悔したかもしれない。「世田谷の柳材木店ってところだ」
「その情報買います」愁は立ち上がると、コートの中から札を出し、棟梁のジャケットのポケットへと押し込んだ。
「おい、俺はそんなつもりじゃねぇ」彼は慌てた様にポケットをまさぐる。
愁は人差し指を立て、それを制した。「電話をかけさせて下さい」コートを翻し、3人に背を向け、携帯電話を取り出した。
「取っておけ」シゲが囁く様に言った。
田中の番号を押す。コールが3回鳴ったところで、繋がる。
「もしもし?どうかしましたか?」田中の不思議そうな声がした。
そう言えば田中に電話をしたのはこれが始めてだ、と愁は思った。「浜野です。知り合いから情報を貰いました」
「どんな?」
「世田谷の柳材木店と言う所によく似た人物がいると」淡々とした口調で愁は言った。
「世田谷の柳材木店。桜井、調べて」田中が受話器を押さえず、指示している。その後ろから電子音がする。「浜野さん、これから一緒に行きますか?」
「はい?」
「今、どちらに?」
「新宿ですが」
「じゃ、20分もあれば行けるかな。北口のロータリーで待っていて下さい。じゃぁ、後で」
ブチッと切れた電話を、愁は思わず見つめた。来週から彼と組むのか、と苦笑した。軽く溜め息を付き、振り返る。
「どうだった?」と眉を曇らせ、シゲが言った。
「これから行きます。すいません、私も行く事になってしまいました」
「おう、仕方ねぇよ」と源。
「気を付けてな」
「またな、シュウ」
愁はにっこりと笑い、3人に向かって一礼した。「失礼します」愁はそのまま3人を振り返らず、走ってその場を後にした。
*
25分を過ぎた頃、ロータリーにシルバーのセダンが停まった。愁は柵を越え、後部座席に滑り込んだ。
ドアが閉まると同時に、車が発進する。ハンドルを握りながら、田中がミラー越しに微笑む。「すいません、思ったより道が混んでいて」
「いいえ、土曜日ですから」シートベルトを締めながら、愁は言った。
桜井が助手席から顔を覗かせた。「休みの日なのにスーツですか?あ、もしかしてデートだったんじゃ」
「いいえ、そういう訳ではありません。私は何時呼び出されても良い様に出掛ける時は大概この格好をしているので」
「へぇー、向こうはそんなに厳しいんですか?大変ですねぇ」桜井が感慨深げに言った。
「いいえ、私だけかと思います。以前の相棒には極端だと笑われましたから」ジェイの吊り上った片眉を思い出して、愁は微笑んだ。
土曜日の7時、道路はひどく混んでいた。行き交う車はカップルや親子連れ、友人同士、休みを謳歌している者達が殆どに思える。時折見るスーツ姿の男女やタクシーやトラックを運転している人は、田中と桜井と同じでその顔は疲労の色に染められていた。
「世田谷の柳材木店は一件しかなく、今日は休日の様です。ですが、店の経営者と連絡が取れ、会ってくれる事になっています」田中は前を見たまま、淡々とした口調で言った。「この情報をどこで?」
「昔馴染みの友人から」シゲがもたらした縁。ただの運だろうか、と愁は思った。シゲの様子からして初めからこの話を知っていたとは思えなかった。
「浜野さんってそう言えば日本に住んでいた事ってあるんですか?」と桜井。
「えぇ、もちろんです。14歳まで住んでいましたよ」
「へぇー、アメリカにはどうして?」
「父の仕事の都合です」流れて行く景色を見ながら、愁は答えた。日本に来てからこの手のやり取りは何度目になるのだろう、とぼんやり考えながら。
「マッドさんとは付き合いが長いんですか?」
愁が窓の外からバックミラーに視線を移すと、田中と一瞬目が合った。田中がプライベートな事を聞いてくるなんて珍しい、と愁は思った。「えぇ、15年くらいですが」口にして、改めてその付き合いの長さに気付く。人生の半分、その多くの時間を共にしている。
「同級生でしたっけ?」と桜井が再び顔を覗かせた。
「いいえ、マッドは私より2つ上です。父親が友人同士なんですよ」
「へぇー」
車が大通りを離れて、住宅街へと入って行く。それを合図に車内の空気が少しずつ変わり始めていた。田中も桜井も愁も、それからは車が停まるまで口を開かなかった。
倉庫の様な、家の様な建物の前で、田中は車を停めた。小さな看板に柳材木店と書いてある。良く目を凝らせば、壁には木が所狭しと立てかけられていた。3人は車を降り、田中を先頭に歩き出した。
田中がガラスのドアを叩く。「すいません」
しばらく待つと、中の明かりが点き、人影が見えた。50代くらいの男性。彼は何の迷いもなく、ドアを開けた。
田中がバッチを取り出して、男に見せた。「先ほどお電話した警視庁捜査一課の田中です。こっちは桜井、後ろは浜野です」
「あぁ、はい、はい。まぁ、どうぞ、中に」男はにこやかに微笑み、中へと入る。「散らかってますけどねぇ」
3人は男の後ろを追う様に中へと入った。最後に入った愁がドアを静かに閉める。
「で、うちに何の用で?」ほんの少し緊張した面持ちで男は言った。
田中はポケットから写真を2枚取り出し、彼に差し出した。「見覚えはありますか?」
男は写真を受け取ると、2枚を交互に見比べた。「あぁ、竹内に似てるなぁ」
「竹内、さんですか?」桜井が目を輝かせた。
写真を田中に返すと、彼は部屋の奥に置いてあるスチール棚へと向かう。「えぇ、竹内学。半年くらい前に雇ってくれって来たんだけど、2日前から来なくなっちまって。最近の若い奴は根性がなくてねぇ。すぐに辞めちまいやがる」本棚からファイルを取り出し、ペラペラと捲り、指を止める。彼は3人の側に戻って来ると、ファイルを差し出した。「ほら、似てるでしょう?」
田中が受け取り、呟いた。「似てる」
桜井と愁もファイルを覗き込む。小さく桜井が言った。「ビンゴ」
3人の視線が絡んだ。
「この履歴書頂けますか?」
「えぇ、勿論。」男の顔が引きつる。「こいつ、何かしたんですか?」
「いいえ、まだ判りません。参考人です」と桜井が穏やかな口調で言った。
田中はその横でファイルから履歴書を抜き取っている。
「参考人?竹内は暗くて大人しい奴だったけど、悪い事しそうな奴じゃなかった」彼の顔が悲しげに歪む。「割と真面目に働いていたし」
「2日前から来なくなったと言いましたね?突然ですか?それとも何か変わった事がありましたか?」桜井が落ち着いた口調で言った。
2人の後ろで愁は思考を飛ばす。無論、竹内は逃げているだろう。何かを察知したのだろうか。警察が迫ってきたのを感じたのか。
「突然ですよ。電話も繋がらなくなっちまって。明日にでもアパートに行ってみようかって思ってたんですよ。イヤ、何かあったら大変だからね」
「それは私達が確かめます。どのくらいの体格の男でしたか?」
田中から返されたファイルを受け取り、彼は桜井を指差す。「あなたくらいかな。体つきはもう少し良かったけど」
「そうですか」桜井は小さく頷く。
「免許書や保険証等のコピーはありますか?」
男はきょとんとした顔で田中を見た。「そんなものないよ。日払いだったし、保険は自分で払うっていうしさ。竹内は運転が苦手だっていうから殆どさせてないし」
偽名かもしれない、3人は同じ事を考えていた。彼はそういう場所を選んだのだろう。身元を確かめられない、働き場所を。
「あぁ、でも」と男は何かを思い出したかの様に口を開く。「一回だけ車を貸してくれ、っていうから貸してやったら信号無視か何かで捕まったって言ってた。オタク等なら調べりゃ分るんでしょ?」
「えぇ、それ何時頃の事ですか?」と桜井が聞く。
「えー、先々月の中旬くらいかなぁ」
「車のナンバー、教えてもらえますか?」
「外に停まってるセダンだよ」
3人はそれから幾つかの質問をし、丁寧にお礼を言って、外へ出た。桜井が外に停めてあるセダンのナンバーをメモ帳に書きとめる。
「アパートに行きましょう」田中が愁に向かって言った。「逃げてると思いますか?」
「えぇ、何処か遠くへ」
田中は頷くと、車に乗り込んだ。
*
20分後、竹内の履歴書に書いてあったアパートの前に、2台の車が停まった。1台はセダン、1台はサイレンを鳴らしていないパトカー。
制服警官2人が降りて来るのを見て、田中と桜井が車を降りた。愁もその後を追う様に降り、4人の側へと歩み寄った。
「桜井と庭の方へ行ってもらえますか?部屋は102。自称、竹内学。24歳、170センチくらいで体格もそこそこ良い様です。犯人であれば2人をナイフで殺害していますので、くれぐれも気を付けて下さい」
警官2人が力強く頷く。その顔には緊張が見えた。
「浜野さんは俺と」
「えぇ」丸腰ですが、と愁は思ったが、口にはしなかった。どうせ逃げている。それに銃が簡単に手に入る国ではないのが幸いだ。万が一、居たとしても田中と2人で対処出来ない事はない。
古いアパート。102号室は真っ暗だった。人の気配はない。
田中がドアをノックする。「竹内さん、いらっしゃいますか?」
応答はない。
「竹内さん」更に数回ノックし、声をかける。「こんばんは」
2人の横でガチャッとドアが開く。「なぁ、うるせぇよ」30代前半くらいの男が103号室から出て来た。金色の髪をかき上げ、彼は不機嫌そうな表情を緩めない。「隣なら帰って来てねぇーよ」
田中がバッチを見せる。「警察です。隣の方と付き合いがあったんですか?」
「警察?あいつ、何かやった訳?」面白そうに笑う。「付き合いなんてある訳ねぇーじゃん。このアパート、ちょー安いけど、ちょー壁が薄い訳。丸聞こえなんだよね、音がさ」
「そうですか、何時から聞こえなくなりましたか?」
「うーん、昨日、今日は静かだったと思うけど?」
「そうですか。ご協力感謝します」田中が頭を下げた。
「静かにしてくれよ」と男は言うと、ドアをバタンと閉めた。
大家からあらかじめ借りてある合鍵を取り出し、田中は愁に小さく頷いて見せた。「入ります」鍵を入れ回すと、辺りに漂っていた静寂が打ち破られる音がした。田中の手には銃が握られていたが、銃口は下に向けられている。ドアを開け、田中は中へ踏み込んだ。
愁は田中の後ろから部屋へと入った。スーツのポケットからマグライトを取り出し、中をざっと照らす。
部屋はもぬけの殻だった。8畳ほどのワンルーム。玄関から全てが見えた。隠れられる様な場所はない。トイレのドアは開け放たれており、押入れもない。家具も殆どなく、あるのは小さな机、テレビ、畳まれた布団、小さな冷蔵庫だけ。
田中が大きな溜め息を付き、肩の力を抜いた。「2日か・・・」彼は小さく呟いた。
もしもモンタージュを公開していたら、否、もしもの話をしても切りはない。起きてしまった事や、過ぎてしまった事を口にしたところで、現状は何一つ変わらない。だから2人は黙って、視線を交わしただけだった。




