Episode1 -4-
―水曜日―
翌日、午前中いっぱいかけて、大量殺人を犯した死刑囚と面会し、愁は警視庁へと戻って来た。捜査一課一係の部屋の前を通り過ぎると、中からくぐもった声が追い掛けてきた。「ばばのざん」
愁が振り返ると、口の中に食べ物をめい一杯詰めた桜井が部屋から出て来た。彼はしきりに口を動かし、無理矢理口の中のものを飲み込んだ。桜井が着ているスーツが高校の制服に見える。とても26歳には見えない容姿だが、彼もまたエリートだ。コミュニケーション能力の低い田中より、早く上に行くのではないかと専ら噂されている。「DVDの画像にモンタージュによく似た男が映っていました。被害者が殺害される一日前の映像です」
桜井が話しながら部屋へと戻って行くので、愁はその後ろを付いていく。「画像は鮮明ですか?」
「モンタージュよりはマシって言うところですかね」桜井は自分のデスクに行くと、ノートパソコンを指差した。
桜井のデスクの隣で、パンを田中がパンにかじりついていた。「マッドさんが映像を処理してくれたんですよ。すごいですよね。元はかなりひどい画像だったんですよ」
愁はパソコンに映し出されている画像に見入る。確かにモンタージュよりはマシ、と言うくらいの荒い画像だった。だが、モンタージュよりは見やすい。
画像の人物はモンタージュの男によく似ていた。ごく普通の男。大きくもなく、小さくもない目。どちらかと言えば白めが大きく、ややきつい印象を与える。小ぶりな鼻。薄い唇。髪の毛は黒く見えるが、キャップを被っている為正確なところは不明だ。髪型も不明。ジーンズに白っぽい丸首のティシャツ、黒のパーカーを着ていた。レジ台に遮られ、全身は解らない。
「この帽子はどこのものですか?」
「W/Bというブランドのものです。渋谷と原宿にしか店舗がない、若い男性に人気の店の様です。今、池上達を行かせています」田中が2個目のパンの袋を開けながら言った。コンビニのロゴの入ったビニール袋の中から菓子パンを一つ取り出し、愁に差し出す。「一つどうですか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」愁はにっこりと微笑む。それ、ソーセージ入りでしょ、食べられませんよ、と心中ではきっぱりと断る。
「午後はこれを持って聞きこみです」
「何かアドヴァイスは?」何時もの田中の締めの台詞。
目に掛かった前髪を指でかき上げ、愁は少しだけ考えてから口を開いた。「そうですね、出来れば世田谷の方を中心に。モンタージュの公開は何時になりましたか?」
「まだ決定していないそうですよ」桜井はそう言いながら、愁をちらっと見た。「何故、世田谷の方を中心に、なんですか?」
「誰でも“始めて”は入念に準備をすると思いませんか?」
「なるほど」桜井は納得した様に頷いた。
「この画像、私にも送って頂けると有難いのですが」
「マッドさんが送るって言ってましたよ」
桜井のデスクの上にプラスチックのカップに入ったコーヒーが置かれ、愁はその手の先を見た。
制服を着た若い女性。「どうぞ」彼女は微笑むと言った。
「ありがとうございます」愁はにっこりと微笑み、再びパソコンの画面に視線を戻した。「この防犯カメラは目立つ場所にありましたか?」
「いえ、隠しカメラだそうですよ。最近は色々物騒なので一台を目立つ場所に、一台は隠しているそうです。客席にもありましたが、買って直ぐに店を出ている様なので映っていなかった様です」温泉マークが所狭しと描かれているマグカップとパンを両手に持ち、田中が少しずつ口に運びながら言った。
「実際見ましたけど、上手く隠されていました。殆ど外からは判断出来ないと思います」
「どうかしましたか?」愁が目頭に手を持っていくのを見て、田中がすかさず口を開く。彼にも愁の癖が分かりはじめていた。
「この画像は隠している方で、目立つ場所のカメラにはこの男は映っていないんですよね?」
「えぇ」と田中は言った後で、はっとパソコンの画面を見た。「こいつはカメラの場所も解っていた上で店に行っていたのか・・・」
「世田谷の方の被害者はコンビニエンスストアで働いていましたよね。店には防犯カメラが2台あったと記憶しています。そのどちらにも怪しい人物は映っていなかったと書かれています」
桜井がパソコンの中の男を見つめ、呟いた。「じゃぁ、これはラッキーだったって事か」
警察にはラッキー、犯人にはミスだ、と愁は思った。目頭を揉んでいた手を唇に落とし、愁は画像をじっと見つめた。世田谷の防犯カメラの映像にこの男は映っていないだろう。防犯カメラが設置してある事は、大概の店がドア及び窓に警告してある事だし、コンビニエンスも例外ではない。それに殆どがガラス張りの窓から、その位置が確認出来る。だから、この男が防犯カメラをうまく避けていたとしても、差ほど不思議な事ではない。この男は闇雲に殺人を犯している訳ではない。きちんと下調べをするのだ。
「止めないとな」田中が呟く様に言った。「こいつはずっと殺り続ける」
*
報道が過熱し始めたのは、警察が『連続殺人事件』と発表してからだ。朝から晩まで、事件を取り上げ、様々な臆説が飛び交っていた。著名と言われる犯罪心理学者、元刑事、ありとあらゆる人間がコメントを寄せている。無論、犯罪心理学者によるプロファイルもされていた。
新聞の社会面以外は殆ど目にしない愁だが、その過熱ぶりは否応なしに耳に届いた。だから、自分の車の後ろを付いてくる車が見えた時、吐き気がした。黒いセダンタイプの車は、愁の車から1、2台を開けて、警視庁から付いて来ていた。
この手の事はアメリカでも経験済みだったが、苦手である事と煩わしいと思う事に変わりはない。大体刑事でもない自分に付いて来てどうするのか、と愁は思う。だが、そこで自分が捜査一課に配属されている事を思い出して、深い溜め息を落とした。
付いて着ている車を巻くべきか決めかねていると、携帯電話が鳴った。路肩に車を止めると、黒のセダンが横を通り過ぎて行った。車を運転していたのは30代後半くらいの女性で、明らかに慌てふためいていた。その様子が余りにも可笑しくて、愁はククッと笑った。
だが、携帯電話のディスプレイを見て、笑みは消えた。藤沢冷子。
「はい、浜野です」
「今、何処にいるの?」
「出先です」
「あら、残念」
愁は穏やかな口調で言った。「何でしょう?」
「大阪の事件が解決したそうよ。清水があなたにお礼をって」冷子が少し弾んだ声で言った。例え自分の元にある事件ではなくとも、解決出来た事は素直に嬉しいと思う。事件に絡む感情は別にして。お蔵入り事件なんて真っ平御免だ。
黒のセダンが随分と前の方で路肩に停まるのを見て、愁は眉を上げた。「お礼等無用です。お役に立てた様で光栄ですとお伝え下さい」
「光栄ついでに」
愁には冷子の満面の笑みが見えた気がした。
「もう4、5件のプロファイルを頼みたいそうよ」
「えぇ、構いません。パソコンに送っておいて下さい」
「あー、ファイルで送って貰う事にしたわ。その方が見やすいでしょ?多分、明日には着くんじゃないかしら」
えぇ、ファイルの方が見やすいですとも、愁はぐっと言葉を呑み込んだ。そもそも自分に選択の余地がある問いなのか。もう明日にはファイルが届くというのに。だが、愁は穏やかな口調で答えた。「了解しました」
「ありがとう」
「一つお聞きしたい事があります」愁は遥か前に停まっているセダンを困った様な目で見つめた。
「何?」
「報道関係者に追い掛けられているんですが、どうしたら良いでしょうか?」
冷子はくすりと笑った。「公務執行妨害で逮捕したら良いじゃない」
愁は文字通り頭を抱えた。彼女に聞いた自分が馬鹿に思える。
「あら、私は本気よ」彼が黙ったままなので、冷子が口を開いた。「捜査を邪魔するなら逮捕しても構わないと私は思ってるわ。愁、それはあなたが判断して頂戴。捜査官なんだし、手錠だって渡したでしょう?」
「解りました」捜査官ね、と思う。あの部屋と拘置所や刑務所の面会室が居場所。行動化学課があるのに、何故捜査一課に配属されているのか、彼女の真意が理解出来ない。確かに日本に来る前、プロファイルチームから捜査の方に移動させられている。それとてたかが半年くらいの事であり、そこには様々な事情が絡んできている。冷子にもそれは伝わっているはずだ。捜査官3名が行った穴埋めだとしても、あの部屋にあるファイルの量を考えればいきなり一課に配属させられたのは不自然だと思える。そもそも行動科学課がプロファイルした事件を己にもう一度させている事自体がひどく可笑しい。何か考えがあっての事、とそう思い口には出さないが、行動科学課の人間からは良い顔をされないのも事実だ。
「向こうだって同じ様なものでしょう?それに餌がないと分れば彼等だっていつまでもウロつく事はないでしょ」
餌ね、肉と表現しないだけかつての上司よりはマシか、愁はロバートの顔を思い出して頬を緩めた。『愁、肉を向こうに放り投げてやればハイエナ達は群を成して走って行くさ』報道関係者達と良好な関係を築く捜査員もいれば、頭からつま先まで嫌がる捜査達もいる。ロバートは間違いなく後者だ。多分、藤沢冷子も。「嫌な思いをされた様ですね」
「当然でしょ、こんな椅子に座っているんだもの。あなたはないの?」
「私は末端にいる人間ですから」あなたほどはありません、と胸中で付け加える。
「そう?まぁ、ないに越した事はないわね」冷子は溜め息混じりに言った。「じゃぁ、戻ったら電話くれる?」
「了解」
「じゃぁね」冷子はそう言って、電話を切った。
携帯をドリンクホルダーの中に入れ、愁は車線から車を途切れるのを待った。後方で信号が赤になり、車がいなくなるのを待って、車を出す。少しだけ車線に戻り、再び直ぐに路肩に戻る。緩やかに黒のセダンの後ろに付ける。アイドリンクのまま、愁は外へと出た。少々荒っぽく、だがわざとらしくならない程度にドアを乱暴に閉める。出来る限り睨む様な目で車のサイドミラーを見つめ、ゆっくりと歩き出す。
愁が自分の車を通り過ぎたあたりで、黒のセダンは逃げるように走り出した。脱兎のごとく。
以前これをやった時は名刺を渡されたな、走り去る車をぼんやりと見つめながら愁はそう思った。そいつは友人になれる程気が合う人間ではなかったが、良い仕事をするジャーナリストだった。
自分の車に戻り、愁はドアを開けた。
ヒラヒラと舞い踊るように落ちてきたイチョウの葉が、フロントガラスや屋根に色を付ける。屋根の上の黄色い葉を手に取り、愁は空を見上げた。青い空に黄色い葉が映えて美しい。歩道に植えられたイチョウは遥か彼方、終わりが見えない程続いていた。踏み潰された銀杏の香りが、辺りを漂っていた。
イチョウの葉をクルクルと回しながら、まだ大丈夫と独りごちた。日本に来て3ヵ月。まだやっていける。スーツの上から首にぶら下げたロザリオに触れると、ちゃりんっと涼しげな音がした。空をもう一度見上げ、愁は車に乗り込んだ。
*
2人目の被害者のアパートに着くと、愁は思わず黒のセダンを探した。幸い見える範囲に車はなかった。
アパートの被害者の部屋はまだブルーシートで隠されていた。そしてその横、制服警官がパイプ椅子に腰を下ろしている。彼は愁を見ると、すっと立ち上がった。
始めて見る警官だったので、愁は胸ポケットからバッチを取り出した。「捜査一課の浜野です」
彼は敬礼をし、ブルーシートを開けた。「聞いています。どうぞ」
「ありがとうございます」穏やかな表情で微笑み、愁は中へと入った。ブルーシートが彼の後ろで床に擦れ、音を立てる。バッチをポケットの中に押し込み、代わりに靴カバーと手袋を取り出す。それを両手、両足に嵌め、愁は大きく息を付いた。
“犯人の頭の中へ入れ。そして戻って来い。呑み込まれるな。引きずられるな”
ロバートの言葉を呟く。小さく、己にだけ聞こえる様に。
恐らく、犯人が被害者のドアを開けさせるのは、至極簡単に出来ただろうと愁は考えていた。物騒になった、とよく聞かれるとは言え、日本はまだ安全な方だ。合法的に銃が手に入る訳ではない。国民の警戒心もけして高いとは言えない。それにこの部屋に住んでいたのは、女性ではなく男性。尤も警戒心が薄いと思われる、若い男性。多少の事なら、誰かに頼らずとも押し返せると思っている。
『渡辺さん、お荷物をお届けしに来ました。判子、お願いします』片手にダンボール、目深に帽子を被り、作業着でも着ていれば、ドアは開く。
ダンボールのしたにナイフを隠し持ち、にこやかに微笑む。相手が判子を探す間に、部屋の中へと滑り込む。ドアを閉め、鍵を閉める。相手が気付いた時には、もう遅い。ナイフを鼻先に突きつける。口元に笑みが広がる。
脅える目が、小刻みに震える華奢な身体が、懇願するその目がその台詞が、その全てが彼の残忍な心を煽る。
顎で中へ進むように促す。チラチラとナイフを動かせば、相手はすぐに言う事を聞く。
『助けて』
『しっ』耳元で囁く。
『金ならそこにある。財布が、タンスに通帳が』
『黙れ』恐ろしく、落ち着いた声。
ダンボールを置き、中から白いタオルを出し、口を覆う。両手首を縛り上げる。冷え切った目で見つめながら。ニヤニヤと笑いながら。
脅える目が訴える、どうぞ助けて、と。
煽る。ただ、腹の中にある、何かが蠢いている。
『お前は俺のものだ』
時間はある。あり余りほど。この下にも、横にも住人はいない。たっぷり楽しめる。レイプも、殺すのも。
一寸の狂いもない、全てが完璧な計画。
俺は捕まらない。捕まるはずがない。出し抜ける、俺ならば。揺るぎない自信。手には怪しく光るナイフ。ダンボール箱には必要なものが揃っている。ゴミ袋、タオル、ヒモ、塩素系漂白剤、着替え。
真っ赤な血。
飛び散る、壁に、ベットに、己に。生温かく、それは鼻につく匂い。
ピピピッ、無機質な音が、まだ血の匂いが強く残る部屋に響く。ポケットの中から携帯を取り出し、愁は軽く息を付いた。
瞼の裏に張り付いた残像が煩わしい。
「はい、浜野・・・」
言い終わらないうちに、受話器の向こうから明るい声がした。「ハーイ、シュウ」
手首に嵌めた時計にちらりと視線を落とす。「随分早いな・・・」
「戻ってきた?」
マッドの言葉に、愁の眉がぴくりと上がる。マッドの心配は有難い、と素直にそう思っている。
3年前、一人のプロファイラーが戻って来なくなった。彼はロバートの言うところ“引きずられた”のだ。犯人の思考に。何をした訳ではない。彼は加害者になった訳ではない。只、己の身を連続殺人犯の38人目の犠牲者として捧げたのだ。その姿を見つけた看守は、病院のベットに伏している。マッドはその現場に鑑識として呼ばれた。愁はロバートと2人でその犯人に面会をし直す為に、現場に立ち合った。
『まるで獣の様だった。口、というよりは顔中が血だらけで・・・。床も壁も・・・。口から臓器が出ていた。あいつは肉を食らっていた。嬉しそうな顔で、まるでステーキでも食っているみたいに』看守は虚ろな顔でそう証言した。
様々な事情が重なった結果の事件だった。普段であれば面会は一人では行えないし、プロファイラーの精神状態もひどかった様だ。だが、プロファイラーの家族や友人、恋人達を震え上がらせるには十分過ぎる事件だった。事実、これを機に離婚したくない、と辞めた同僚もいた。
「あぁ」愁は呟く様に言った。
「で、何が分かった?」
「プロファイルに変更はない。ひどい自信家だ」
ふふん、とマッドが笑った。「僕は良いもん、見つけちゃったよ」
「何だ?」
「おがくず」
愁は一瞬、考え込んだ。生粋の日本人であるのに、マッドの方がはるかに語彙が多い。マッドはメンサに入れる程なのだから、頭脳で勝とうと思った事はない。だが、日本語で負けるのは、何となく情けない気持ちになるのだ。それに彼は10代の頃、日本人の女性の家庭教師兼恋人にたった1年習っただけだ。後は愁の家族に聞いたり、独学で勉強したりしていた。だから、多少女性の様な言葉使いをするが、何不自由なくマッドは暮らしている。
「木の屑だよ」
「あぁ」と呟く。
「大工、家具職人、家具を売買している業者、それを運送している運転手・・・」
マッドの言葉を途中で遮る。「それは何処で見付かったんだ?」
「2つの現場の玄関だよ。だから被害者が落としたとは考えにくいと思う。世田谷の方は良い具合に量が残っていたよ。杉の木だって」
「田中さんには?」
「今、信さんが電話しているよ」
よく耳を澄ませば、マッドの近くで加藤が『おうよ』と言う声が聞こえた。「そうか」
「シュウ、これからどうするの?」
「もう戻る。ありがとう、マッド」
メンサ・・・IQが高い人(上位2%)の交流の為の団体です。




