Episode1 -3-
―火曜日―
翌日の朝出勤すると、デスクの上にファイルとメモが置いてあった。『大阪の事件の記事。残りはメールに』
愁はファイルをパラパラと捲った。ファイルだけでもかなりの量がある。だが、事件の記事だけをコピーしまとめていてくれているのが、有難かった。
出掛けにダンボールの中から引っ張り出してきた薄手のコートを脱ぎ、無造作にコートハンガーに引っ掛ける。緩んでいるネクタイをきちんと締め、愁はドアを開け廊下に出た。
一係の部屋へ向かうと、中から田中が飛び出してきた。彼は愁を見ると、照れた様に笑った。「あぁ、残念。今行こうと思ったのに」ぽんっと胸ポケットを叩く。
「おはようございます」愁は田中の様子に、にっこりと笑った。
「おはようございます」
愁は踵を返した田中のネクタイを視線の端に捉え、ほんの少し眉をひそめた。黄色の洋ナシが沢山描いてある黒いネクタイ。今まで見た中で一番ひどい。
朝のミーティングはいない捜査員の方が多い。そもそも捜査会議ではないから、直ぐに終わる。吉沢が今日、自分の部下がどんな動きをするのか、大まかに把握する為、と顔を見る為に始めたもの。
一通り、部下達の予定を問う。愁も一係の一員の為、毎日問われている。が、予定は悪魔でも予定だった。大半の確立で予定は崩れる。
吉沢が野太い声で終わりを告げる。「解散」
捜査員達は蜘蛛の子を散らす様に部屋を出て行った。愁も彼等の後を追う様に、部屋を出て行く。
「浜野さん」
肩越しに振り返ると、田中が走って来ていた。愁は穏やかな笑みを浮かべた。「何でしょう?」
「不審人物の目撃者が見付かりましたよ」田中は彼を見下ろすと、淡々とした口調で言った。歩みを止める事なく、愁のオフィスへと向かう。「ここ1~2ケ月の間、あのアパート付近でウロウロしている若い男が目撃されています」
田中の後姿を追いながら、愁は目頭を揉んだ。「そうですか・・・」
「20代後半から30代前半、体格の良い男だったそうですよ」ドアを開ける、田中の口には煙草が咥えられ、手にはライターが握られていた。部屋の中に入ると、田中は煙草に火を点け、深々と吸い込んだ。形の良い唇から白い煙が吐き出され、彼は満足げな笑みを浮かべる。
愁が部屋の中へ入ると、田中の煙草の匂いとコーヒーの香りがした。コーヒーメーカーが音を立てている。瞬間、昨日のマッドとの会話が思い出されたが、直ぐに別の思考に支配される。「職場の方はどうでしたか?」
椅子に腰を下ろした田中が首を小さく振る。「余りにも不特定多数の人間が来る場所なので。バイトの子達に聞く限り、不審人物なら30から40人は居るとの事だった様ですよ」
「目撃者にモンタージュは?」
「今日行う予定でいます」
「職場の方の防犯カメラとモンタージュの比較をしてみたらどうでしょう?職場のカメラの映像はありますか?」正直なところ、愁には今ひとつ捜査員達の動きが判らない。常に一緒に動いている訳ではないし、国でのやり方の違いも未だに見えてこなかった。だからなるべく口を出さず、静観を決め込んでいるのだが、遺体をこの目で見てしまうと、それも揺らぐ。特に己から常に何かを見出そうとする田中の前では。きっと田中はアメリカへの研修へ行きたかった一人ではないか、と愁は思う。煙草を吸う事を口実に用もなく、この部屋を訪ねてくる事は少なくない。その時聞かれるのは大概捜査のやり方だ。どちらの国でのやり方が正しい、正しくないとは2人共思ってはいないものの、良いと思えるところがあれば真似でも何でもしたいのだ。それが例え誰かの反発を買っても、犯人を一刻でも早く捕らえる事が出来るのなら。
長い足を組み、田中は首を振った。「いいえ、まだその報告は受けていません。まだの様なら今日行かせます」
椅子に腰を下ろし、愁は煙草とライターをデスクの上に転がした。箱の中から飛び出た煙草を1本抜き、口の端に咥える。「田中さんは行けないんですか?」
「え?」
「きっと田中さんが聞いた方がより多くの情報が出ると思いますよ」ライターを点火すると、愁の顔がほんのりと赤くなった。白く細い立ち上る煙が、絡む二人の視線の間をゆらゆらと揺れていた。
「そうですか・・・?」彼は不思議そうに笑った。そもそも田中は自分の容姿に無自覚な男だった。本来であれば、その容姿を活かした仕事でも生きて行く事も出来るだろうに。
「ファーストフードなら若い女性の従業員も多いでしょうから、田中さんが行けばより思い出してくれると思いますよ」
「はぁ・・・、じゃぁ、俺が行ってみます」
田中の表情に、愁は思わず苦笑した。あなたは警察内部に自分のファンクラブがある事に気付いていないんですか、と愁は問いたくなっていた。尤も警視庁職員の女性は田中と付き合いたいとは思っておらず、さしずめアイドルを追い掛けている心境に似ている気持ちらしい。色恋に疎い自分よりも、更に疎い田中。だが、その情報とてマッドからのものなのだから、愁が考える程大差はない。
何時もの表情に戻った田中が淡々とした口調で言う。「浜野さんは犯人がバイト先にも現れたと考えているんですか?」
「えぇ、そう考えています」常日頃から思考を言葉にするのは難しい、と愁は考えていた。特にこの手の話は。出来うる限り、穏やかな表情と声を保ちながら続ける。「殺人はメインディッシュ、付け狙うのは前菜」
ならばデザートは?
「犯人の心理、ですか?」
「1~2ヶ月、じっくりと調べあげているとすればそう考えても良いでしょう」
田中は頷くと、煙草を綺麗な灰皿で揉み消し、勢いよく立ち上がった。「よし、じゃぁ、行ってきます。他に何かあれば電話下さい。じゃ、後はラボで」
愁が返事をする間もなく、田中はバタンッとドアを閉めて出て行った。
ならば、デザートは何だ?次の標的を見つけるまでのプロセス?犯行を思い出しての余韻?
*
反吐が出る。
ハゲタカ、ハイエナ、様々な呼び名はあれど、その意味に大差はない。死肉を漁り、血を啜る。『真実を知る権利』とやらを振りかざし、時に振り回して。ペンを剣に変え、何と戦う。
記者を生業にした友人が一人、記者と知っていて友人になった者が一人。愁が個人的に知っているのはこの2人のみで、後は仕事上の付き合い。後者に良いイメージは微塵も持っていない。友人達や限られた記者達の仕事は、間違いなく尊敬に値すると思っている。彼等が熱っぽく語る仕事への情熱も、理想と現実もある程度は理解している、と愁は思う。一緒くたにしている訳ではない。記者の中にも刑事の中にも、腐りゆく人間は何処の世界にも存在するのだから。“真実”よりも“売れる”事が重要になれば、真実は途端にちっぽけなものに変わってしまう。
愁は日本に来てから、週刊誌やスポーツ新聞の類は殆ど読んだ事がなかった。読むのは新聞だけで、社会面しか目を通さない。それだけで事足りるのだ。
『ライアー』という週刊誌を、この時始めて愁は目にした。ライアーは低俗、それ以下でもそれ以上でもない雑誌だった。大阪の事件の記事だけしかない事が有難い。
記事は大阪の事件の被害者、田部仁の恋愛遍歴で始まっていた。彼が同姓にもてた事、付き合った男の数。田部が複数の男に囲まれ、にこやかな笑みを浮かべる写真も一緒に載っていた。過去の男だという人間の話や、働いていた会社の上司の話、学生時代の友人、その殆どが彼の死を心底嘆いているとは思えない台詞を吐く。田部の死で自分の一部を失くした人間にとっては、追い討ちを掛ける様な言葉の数々。
虫唾が走る。
次のページは事件の明細。愁が目を通した記事の中で一番事細かに書かれていた上に、図まで載せていた。彼が何をされ、どう命を奪われたのか。殺害現場の様子、同じ間取りだという部屋の写真。
警察の中に腐り果てた人間がいる事と、この安田という記者が売れる事に重きを置いている、という事は記事だけで容易に理解出来る。
これだ、と愁は思った。東京の事件はこの記事を手本にしている。犯人はこれを読んだのだ。そして実行した、図の通りに、明細の通りに。だから、大阪と東京の事件は似ているのだ。関連等ないのに。
デスクの上で携帯電話がガタガタと震える。愁は電話を取ると、眉をひそめた。「はい、浜野です」
「今、何処にいるの?」
「オフィスです」
「そう、少しで良いから私のオフィスに来てくれない?今、大阪の署長と話しているの」
「えぇ、直ぐに伺います」穏やかな口調で言いながら、立ち上がる。ジャケットのボタンとネクタイを締め直してから、「では」と電話を切って、それをポケットの中に押し込める。
冷子が愁を呼び出す事はけして珍しくない。愁とマッドは一係と鑑識に配属されているが、直接の上司は冷子になっていた。総監の椅子に座り、書類や幹部達の駆け引きだけに時間を裂く事等、彼女の本意ではない。出来るだけ現場と関わっていたかった。愁やマッドはその為の、細い糸だ。
愁が総監の部屋のドアをノックすると、中から声がした。「入って」
ドアを開け、中に入り、一礼する。「失礼します」ドアを閉め、冷子を見ると電話で話している最中だった。愁は少し迷ったが、デスクの前へと歩み寄る。
「今、来たわ」ブランド物のジッポを手の中で転がしながら、冷子は愁に座る様に目配せした。「えぇ、そうよ」
愁は言われるままに腰を下ろした。
「替わるわ」冷子はそう言うと、受話器を愁に差し出した。
迷いもせず、愁は受話器を受け取り、口を開く。「替わりました、浜野です」
「清水です。お手数お掛けして申し訳ない」柔らかな、中年男性の声。
「いいえ」
「プロファイル、ありがとうございました。只、それに該当する人物が多く・・・」言い淀み、言葉を選んでいるのが沈黙となってあらわれている。
30代前半から後半、被害者に近い人物(顔見知り以上)。犯行は短絡的であり、情のもつれからなるもの。体格は被害者と同じくらい、又はそれより良い。極めて真面目であり、有職者である。学歴もあり。
沈黙は愁によって破られた。「そうですね、犯人はもしかしたら自殺を図っているかもしれません」
「え?」清水の声色が変わった。
「事件の後、被害者の周りで自殺を図ったり、未遂に終わった人物はいませんか?この犯人の場合、逃亡したりする事は考えにくいと思われます」
受話器の向こうでキーボードを打つ音が聞こえる。清水がうーんと唸り、優しげな口調で言った。「少し待っていて頂けませんか?直ぐに折り返しお電話しますので」
愁が「えぇ」と言うと、清水は電話を切った。受話器を冷子に差し出すと、彼女は眉を寄せた。
「今ので終わりなの?」
「いいえ、折り返しお電話頂けるそうですよ」
受話器を電話に戻し、冷子は淡々とした口調で言った。「何故、自殺なの?」
「さぁ?」愁は肩をすくめた。
さぁ?って何よ、あんたが言ったんじゃない、冷子は心中で悪態を付く。腹立ち紛れに煙草に火を点け、深々と吸い込んだ。愁は何時も手の内を見せてくれなかった。マッドは始めから、全てをさらけ出すタイプの人間だったから、愁とは正反対だ。どうしてあの2人が友人同士なのだろう、冷子は2人が話しているのを見るたびに思っていた。
自殺、愁がそう考えたのは、皮肉にもライアーや他の記事を読んだからだった。叶わぬ恋、記事には同姓同士の恋愛について触れられていた。例えば好きになっても、その相手が彼女や妻がいたら。相思相愛になっても、今の日本の法律では結婚は望めない。理解を示す人間が増えているとは言え、まだまだ肩身は狭い。
「自殺しているとしたら・・・」
冷子の声に思考が中断された。
「無理心中って事?」
愁は再び肩をすくめた。「さぁ、どうなんでしょう」答えるには曖昧過ぎた。現場写真、セミダブルのベットの上に寝かされていた被害者の隣は、ほんの少し空いていた。恐らく犯人はその隣で永遠の眠りにつこうとしていたのではないか、と愁は考えていた。一生叶わぬ恋ならば、せめてあの世で、と。だが、何かがその場を離れさせた。隣では死ねないと。
冷子は眉をひそめただけだった。
電話が鳴り、玲子が取った。「はい?あぁ、待ってて」受話器をずいっと愁に差し出す。
「はい、浜野です」冷子の様子に苦笑しつつも、穏やかな口調で愁は言った。
「清水です。お待たせして申し訳ありません。自殺した人間ですが、居ました。只・・・」そこで少しだけ清水は口ごもった。「彼は被害者の同級生で妻帯者です。事件の3ヵ月後に“仕事が辛く、生きて行くのが嫌になった”と言う遺書を残して、飛び降り自殺しています」
「妻帯者である事は差ほど重要な事ではありません。プロファイルには当てはまりますか?」
「えぇ、真面目な性格で、体格も良く、会社勤めをしていたそうです」
庇ったのは妻か、愁はそう感じた。世間の目から妻を守ったのだろう。同姓との浮気、殺人、その上隣で死んだら全てが公になる。晒される、確実に、世間の冷ややかな目から。
愁が口を開かないのを察知した清水が口を開く。「彼だとお考えですか?」
「えぇ」
「同級生という以外の接点を探してみます」
清水がそう言うと、愁はちらっと玲子を見た。彼が身も知らぬ男の言い分を呑み込むのは冷子の人望か、はたまたプロファイルの本場で学んだというステータスなのか。愁にはそのどちらも、という気がした。「宜しくお願いします。また何かあれば何時でもお電話下さい」
「はい、その時は宜しく。冷子に替わって貰っても良いですか?」
「えぇ、では、失礼します」愁はそう言うと、玲子に受話器を差し出す。
「はい」冷子は電話に出ると、いつもの淡々とし感じではなく、柔らかな口調で話した。「えぇ、良いのよ。お互い様じゃない」
同期ね、愁は彼女の様子を視界の端に見ながら、心中でごちた。マッドなら飛びつく様な冷子の反応だが、彼は口元に優しげな笑みを浮かべただけだった。
「じゃ、また」冷子は静かに受話器を置くと、愁の方に向き直した。「助かったわ、ありがとう。彼には返しても返しきれない借りがあるの」
「いいえ。まだ犯人と決まった訳ではないので」
冷子はふっと柔らかな笑みを浮かべる。「そうね」
「ライアーという週刊誌をご存知ですか?」
「えぇ、勿論よ。日本で一番ひどい雑誌だわ」玲子は先ほどまで浮かんでいた笑みを消し、険しいとも言える表情になった。「それが何だって言うの?」
「大阪と東京の事件を結んでいるのがライアーかもしれません」
彼女は大きく溜め息を付いた。「もう・・・」
「内通者がいるようですね」愁は声のトーンを落とした。別段誰に聞かれている訳ではなかったのだが。
冷子はデスクに肘を付き、組んだ両手を額に当てた。「恥ずべき事だけど珍しい事じゃないわ」
「えぇ、残念ながら」
*
珍しい面子が揃ったな、ラボの隣の会議室で机を囲む男達を見回し、加藤は思った。
捜査一課一係の田中、彼の相棒で下手すると高校生にさえ見える風貌の桜井達也。プロファイラーの浜野、鑑識からは加藤とマッド。その上何故か一係の係長吉沢と、たまたま暇していたからという監察医の内田隆士まで来ていた。
鑑識と監察医の前にはファイルとコーヒー、一係の三人は手帳とコーヒー、プロファイラーはコーヒーだけが置かれていた。
マッドが愁の隣に腰を下ろすと、田中が口火を切った。「じゃ、まず内田さんから良いですか?」
「あぁ」内田はそう答えると、ファイルを捲った。ジーパンに黒のタートルネック、左耳に金のピアス、医者と判断出来るのは、上に羽織った白衣のみ。38歳、独身。田中程ではないが、見た目もそれなりに良い。問題はその性格だが、監察医としての腕が良いので、ここにいる男達には大した問題ではない。只、加藤だけは内田を正面切って『スケコマシ』と呼ぶ。
「監察医の内田さんだよ」マッドが愁に囁いた。
「死因は腹の傷による出血多量死。一つの傷が深い。他の二つは致命傷になる様な深さはない。薬物検査にも回したが、あの体内の状態から見て何かが出てくるとは思えない。レイプ痕あり。裂傷がひどく、血が出ていたところから見て、死後におこなわれたものではない。両手首、口に軽い内出血が見られる。柔らかい物で縛られていた様な跡もあり。他に暴力を受けていた跡はない。口と気管に白い繊維有り。遺体発見の時点で死後二日経っている」
田中と桜井は何やら手帳に書き込んでいたが、他の者はただじっと内田の声に耳を傾けていた。
内田の後を引き継ぐ様に、加藤が口を開く。「口と気管にあったのはコットンだ。よくあるタイプのだな」
「タオルですか?」少し高い声色で桜井が言う。
「多分な、メーカーまで特定出来るか解らんが、あの部屋の物とは今の所一致しない」
この部屋にいる全員が同じ事を考えたが、誰一人としてそれを口にはしない。多分、そこから犯人は割り出せない。
「便器の裏に血痕があった。血液型は被害者と一致。DNAは調べ中。ユニットバスの排水溝の二つのうち一つはぴっかぴか。もう一つは大量の毛髪とカビ。玄関前に付着していた血痕の血液型は被害者と不一致。ドア、窓を含めた指紋は被害者のものが殆どだ。あの部屋を訪ねた家族や友人には提供してもらった指紋と一致しなかったのは15人。13人はドアや玄関、2人は窓やキッチン、トイレと至る所に着いていた」
「有力な証拠はなしですか・・・」桜井がぼそっと呟く。
「いや、そうでもない」加藤がニィッと笑った。「被害者の履いていたジーンズに精液が付着していた」
捜査一課の4人の男の目が瞬間輝いた。だが、愁だけはすぐさま元に戻った。椅子の上で身を丸め、目頭を揉む。ジーンズの裏に付着した精液。犯人のミス?それともわざと残したのか?大阪の事件を手本にしていればミス。だが・・・。
「DNAが出次第、データベースにかけてみるが・・・」加藤はそこで口ごもり、愁を見た。
「前科はないと思います」愁が受け継ぐ。
「だが」吉沢が始めて口を開く。「犯人が見付かれば証拠になる」
勿論、この精液が被害者のものでないとすれば。
「俺達の方は」田中が淡々とした口調で言った。手帳の間から葉書くらいの大きさの紙を取り出し、机の上を滑らせる。一枚は加藤と内田の間へ、もう一枚は愁とマッドの間へ。「目撃者に協力してもらったモンタージュです。1から2ケ月、あのアパートの周りをうろついていたそうです」
モンタージュ写真は一時の様な見にくさはなくなったが、それでも違和感が残る。モンタージュ写真の男は何処にでもいる優男に見えた。ごく普通の男。
田中がスーツのポケットの中から、簡易ケースに入ったDVDを三枚取り出す。「職場の防犯カメラの映像です」
「それだけか?」加藤が眉をひそめた。
「記録は一週間分しか保存しない様です。後の映像は消去してしまうそうなので」
桜井が言葉を継ぐ。「ですが、バイトの子達にこのモンタージュを見せたら、一人の子がこの男を覚えていました。その男が」長い指がモンタージュ写真を指す。「被害者の後を追い掛けていた、と」
「追い掛けて?」加藤が呟く様に言った。
「えぇ、ですからその子は2人が友人なのかと思ったそうです。只、2人が会話をしていたとは記憶していないそうです」
沈黙が8人の間に、重く圧し掛かる。
「モンタージュを公開するか・・・」吉沢が深く溜め息をつき、重々しい口調で言った。朝よりも大分濃くなった顎鬚を、大きな手で擦る。「どう思う?浜野」
「私に異論はありません」
「なぁ・・・」加藤が口を挟んだ。「大阪の事件はどうなったんだ?」
視線が吉沢や田中に飛び交っていたが、2人は口を開かなかった。どうやらまだ知らされていない様で、お互いの顔を見つめ合っていた。
「大阪に返しました」愁が穏やかな口調で言う。
「違うのか?」
「はい。大阪の事件は怨恨だと思われます。清水さんという方にその旨お伝えしておきました」
清水の名前に加藤と吉沢が反応したが、口には出さなかった。
「大阪で起きた事件が怨恨だとすると、こっちで起きたのは模倣犯ですか?」
「ライアーという週刊誌に載っている記事を手本にしていると思われます。大阪の事件はきっかけであり、犯人にとっては犯行を犯す後押しになったのかもしれません。頭の中で描き続けていた計画が偶然起きたのですから、それは驚いたでしょうね」
驚いたでしょうね、じゃねぇよ、と加藤は心中でごちた。「なぁ、何で大阪のは怨恨なんだ?随分似通ってたじゃねぇか。確かにこっちのは手本にしたのかもしれないけどよ」
一係の3人と内田が愁に視線を集める。聞きたくても、聞けなかった様だ。マッドだけはコーヒーに息を吹き掛けながら、ちびちびと口を付けていた。
「大阪と東京の被害者には共通点もありますが、違いもあります。容姿や年齢、それに同性愛か否か。又、大阪の事件には被害者の手には防御創も見られ、部屋も抵抗の跡が見られます。一方、こちらの事件では抵抗の跡は見られません」愁はゆっくりと言葉を選びながら話していた。だが、幸い誰も口を挟んでこなかった。「清水さんとお話をしていてプロファイルに該当する人物が浮かび上がりました。今、調べて頂いています」
「じゃぁ、こっちの事件で小腸が引っ張りだされていたのは何だ?」
「犯人のサインでしょう。大阪は手本ですが、こちらは自分のだ、と示す為に」
納得をした表情を見せたのは、田中一人だった。彼は頭の中で大阪の事件を切って捨てた。
田中とマッドを除く4人の表情に、愁は思わず苦笑した。信用されるにはまだ時間が必要だと思う。「もしも、大阪の事件が進展を見せ、それが公表されればこちらにも何等かの形で影響が出るかもしれません」
プロファイラーの言葉に、マッド以外の誰もが顔を曇らせた。
「影響とは?」吉沢が問う。
「例えば・・・」愁はそこで口ごもった。机の上で肘を付き、組んだ両手を唇に当てる。「次の犯行が早まる・・・」
締め切っていた窓の外から、パトカーのサイレンが鳴り響く。2台程のパトカーがサイレンを鳴らしながら、遠ざかっていく。
パトカーのサイレンが聞こえなくなるのかを待っていたかのように、田中が口を開く。「マッドさんはどうですか?」
マッドは緊張感のかけらもない声で言った。「世田谷の証拠、調べなおしても良いかな?」
一係と加藤の心の中の声が、マッドと愁には聞こえた気がした。何処の国でもきっと変わらない、捜査権の争い。大まかに考えれば仲間のはずなのに、それは意図も簡単に一番近い敵になる。
吉沢が顎を擦る。その音が聞こえてきそうだった。「それは俺が交渉しよう」
「ありがとうございます、吉沢さん」マッドはにっこりと微笑んだ。
彼は複雑な表情を浮かべて笑う。
携帯のバイブ音がして、内田が白衣の中をまさぐる。シルバーの携帯を取り出し、画面を見ると顔をしかめた。「私はこれで失礼します」ファイルを横の加藤の前に滑らせ、彼は電話を取り、話しながら部屋を出て行った。
ドアが音を立てて閉まると、田中が口を開いた。「他には何かありますか?」
「俺はない。そのDVDを寄越せ」加藤は田中に向かって、ごつい手を差し出した。DVDを受け取ると、モンタージュ写真の上に置く。
田中が一通り、男達に視線を送る。が、誰もそれには答えず、最後に視線を送られた吉沢が口を開いた。「俺はこれからモンタージュ公開をする方向で上と話してみる。後の事は任せたぞ」彼は隣に座る田中の肩をぽんっと叩き、加藤に一礼し、「じゃ」とだけ言い残して部屋を出て行った。
吉沢が部屋を出て行くのが合図だったかの様に、田中と桜井、加藤が席を立つ。3人は座ったままの愁とマッドを気にする事もなく、部屋を出て行く。
「シュウ」
視線だけを、愁はマッドに向けた。
「端折りすぎだよ、さっきの説明」
「そうか?」
コーヒーをごくりと飲んで、マッドが眉をひそめる。「田中さんしか納得してなかったよ」
「彼以外は俺をまだ信用していない。だから仕方ない事だと思う」
なに、冷静に分析してんのさ、と口に出そうとしたが、マッドはその言葉を呑み込んだ。浜野愁という男は何時もこうなのだ。出会ったときから今に至るまで。それに田中以外がまだ信用していない、というのは真実だとマッドも感じている。マッド自身も加藤以外の鑑識仲間に信用されている、と感じた事はなかった。まだたった3ヵ月だ。だから仕方のない事ではある。だが、少し寂しいと思うのも事実。
「なぁ、マッド、どう思う?」机の上で肘を付いたまま、目頭を揉む。愁が事件を考え始める時の癖。
その様子を見て、マッドは苦笑する。何処に行っても、愁は事件に捕らわれるんだね、と思いつつ口を開いた。「大阪のは捕まりそうなの?」
「恐らく」
プラスチックのカップに入ったコーヒーを飲み干して、マッドは何時もの優しげな声で言う。「ねぇ、シュウは部屋を何日置きに掃除する?」
目頭を揉んでいた手で頬杖をついて、愁はマッドを見た。「前回、何時したのか覚えてない」
あぁ、そうでしょうとも、とマッドは思った。「聞いた僕が馬鹿だったよ。昨日の被害者もマメに掃除していなかったみたいだよ」マッドはふふんと笑う。「床にいっぱい残ってた訳」
「証拠が」2人は同時に言った。そう、つまりは犯人も掃除をしていかなかったという事になる。
マッドはにっこりと笑い、再び口を開いた。「世田谷の事件の証拠とも比較してみるよ。きっと見付かる。エドモンド・ロカールもそう言っている」
エドモンド・ロカール・・・科学捜査の祖。犯人、犯罪現場、被害者の間で、
どんな微細なものでも、常に物体が交換される、
と科学捜査の基本的な原則を定義した方です。




