Episode3 -9-
「解決、万々歳」井上は両手を小さく挙げ、直ぐに下ろした。その顔はひどく不満気だ。「とは言い難いわね」
「でも、辻裕也が弟の純也を殺害した事は間違いないと思うわ。純也の顔に掛っていた白い紙からは裕也の指紋しか出なかったし、学校にあった紙とも一致しなかったんでしょう?」池上は足を組み、その上に解剖の報告書を乗せて、パラパラと捲った。見慣れた内田の字。
マッドは4人の前にそれぞれコーヒーを置いた。砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーは井上、ミルクだけ入っているのは池上、ブラックはマッドと愁。「しなかったね。学校の紙は安物で、裕也の指紋が付いていたのは高級なやつだもの。手触りからして違うもんね」
「愁、動機は何?」井上は正面に座る愁をじっと見つめる。
「悪魔で推測ですよ」愁は指を立てて見せ、デスクの上に鑑識の報告書を置いた。「恐らく辻裕也は墓場まで持って行くつもりだったのだと思います」
「動機を?」
「えぇ」
マッドは井上と池上の間にパイプ椅子を持ってきて、そこに腰を下ろした。椅子がぎしっと鳴いた。「まぁ、元々、全てが計算付くだよね、この事件」
「土曜日に辻純也を殺害、日曜日に村木美恵と最後のデート、月曜日に私と池上さんが辻家に入ったのを見て自殺。手術も前もって月曜日の午前中に速めていた様ですし」
井上がデスクの上で頬杖を付き愁を見て、ほんの少し首を傾げる。「確かにあの屋上から辻家の門がギリギリ見えたけど、2人が刑事かどうかなんて分からないじゃない?」
「私達が他に何に見えますか?」愁はくくっと笑った。「月曜日に小学校へ職員が出勤し、純也の遺体を発見、そこまでは誰にでも容易に予想出来るでしょう。父親の豊は足を骨折していて動けませんから、刑事か警官が来る事も予想はしたはずです」彼にとってそれは刑事であろうと、警官であろうと、同じ事。どちらにも大差はないのだから。
「まぁ、新聞の勧誘にだけは見えないけどさ」井上は小さく肩をすくめた。
「それに彼は最初に靴を落とし、女性の気を引いてから、身を投げています。わざわざ証人まで作ったのですよ」恐らく、彼女が一般の人よりも『死体』や『血』に慣れている看護師である事も計算済みなのかもしれない、と愁は考えていたが、口にはしなかった。
「じゃぁ、遺体の顔に白い紙を置いたのは何で?」
「指紋を残す為と純也さんの死に顔を見たくなかったのだと思われます」殺す程憎くても、裕也が死というものに慣れていたとしても、辻純也はたった1人の弟だ。
「指紋を残す為なら、エアコンのリモコンには残ってないじゃない。それにあんだけ頑張ったのに階段の手すりにも一つもなかった」手すりの指紋を採取した事を思い出し、井上はげんなりとした表情を浮かべた。あれは悪夢の様な一日だった。
「エアコンや手すりは直ぐ判明しちゃうからかな。綺麗に拭ったのは捜査を撹乱して、時間稼ぎってところかなって思うんだけど。エアコンのリモコンは解りやすい位置に置いてあったしね」マッドは長い脚を組むと、コーヒーに息を吹きかけ始めた。淹れたてのコーヒーはカップですら熱い。
「見える位置の指紋は綺麗に拭っておけば、犯人は全ての指紋を綺麗に拭いていったと警察が考える、と思ったのかもしれません。だが、犯人は自分である、と指紋を一つ残す事にしたんだと思います」全ては自分が自殺した後に判明すれば良いのだ。動機以外は全て。
「じゃ、エアコンの設定温度が低かったのは?」
「死亡推定時刻を惑わす為ではなく、腐敗を防ぐ為、と私は考えています」
「じゃぁ、凶器が出て来ないのは?」
愁はデスクの下で組んでいる腕に嵌めた、安物の腕時計にちらりと視線を落とした。「いずれ出てくると思います。あの家の何処か、あるいは時間が来れば発覚する様な場所に隠してある、と私は考えています。凶器は犯人と被害者を結ぶ、確実な物証ですからね」家全体の家宅捜査はまだしていない。令状が取れていないのと、辻豊が話せない状態の為、調べられていないのだ。
「ふーん、犯人は自分だ、って言いたい訳ね」井上は何処か納得出来ない表情を浮かべる。「で、動機は?」
「人類初の殺人事件と言われている事件を御存知ですか?」
井上はブンブンと首を振った。彼女の後ろで、高い位置で結いあげた赤い髪が揺れる。「知らない。切り裂きジャック?」
「カインね」解剖報告を読んでいた池上が顔を上げずに、淡々とした口調で言った。「カインとアベル」
井上は両手で頬杖を付き、目をぐるりと回した。「あぁ、アダムとイブの息子達ね」
マッドはコーヒーをほんの少し啜った。舌がピリッと熱さにやけた。「そう。最初の人間のアダムとイブとの息子であるカインとアベルは神に捧げ物をし、アベルだけが神に称賛された。それに怒ったカインがアベルを殺害。これが人類初の殺人事件って言われてるんだよね」
「兄カインが裕也で弟アベルが純也。なら、神は父親って訳?」
「兄弟間のコンプレックスを、カインとアベルに例えてカインコンプレックスと呼びます。裕也は純也に嫉妬していたんでしょうね」
井上は眉をひそめた。「やだ。それが動機な訳?」
愁は穏やかな微笑を浮かべた。「父親の豊は純也の事を『馬鹿な奴程可愛い』と、村木美恵は『2人で将棋をしたり、株の話を夜遅くまでしていた』と言っていました。無論、それだけではないと思います。彼等は長い年月、様々な事を比較されたりしたのでしょうから」
「『塵は積もれば山となる』日本には彼の心情に当てはまる諺が存在するよね」マッドは小さく肩をすくめる。「山となって爆発しちゃった訳だ」
「裕也の人生は決まっていた、辻病院を継ぐ医者。でも純也は教師になった、それは自ら望んで?それとも医者にはなれなかったのかしら?どちらにしろ、彼には選択肢があった訳ね」池上は解剖報告書を閉じ、デスクの上に置いた。変わりにコーヒーカップを両手で包み、再び口を開く。「純也は努力をしなかった。でも、兄は永遠の努力を強いられた。」
「ねぇ、でも、それは関係ないんでしょ?裕也は親父さんに認められたかったって事だし」井上は砂糖たっぷり、ミルクたっぷりの白いコーヒーを口にした。甘く、疲れた脳を癒してくれる気がした。
「いえ、恐らく全てが関係していると思います。努力をし続けている人間が認められず、努力をしない人間が認められる、そして弟は自由を謳歌している、それが一生であれば殺人の動機としても成り立つのではないでしょうか?」そもそも動機等、殆ど無くても殺人を犯す人間は山の様にいるのだから。それは何も連続殺人犯や大量殺人犯に見られる傾向とも言えない。振られた、刺し殺す。躾の為だ、殴り殺す。むかつく、大勢で殴り蹴飛ばし殺す。
井上は自分と瓜二つな妹を思い出した。顔は双子と間違えられる程似ているが、髪の色は違う。妹はオレンジだ。両親は娘達から見ても風変わりな人達だが、妹と自分を比較したりはしなかった。だが、比較されながら育ったら、憎しみが芽生えるだろうか、両親に、妹に。「何で親父さんじゃないの?」
「何故でしょうね」愁はふぅと溜め息を落とし、デスクの上に置いた煙草とライターをスーツのポケットの中に入れた。「ですが、父親に復讐するとしたらそれは成功だったと言えるでしょう。息子2人が自分よりも先に死に、1人は加害者、1人は被害者ですから」
「それもそうだけどさ」
「凶器も恐らく父親が所有していた日本刀だと思います」大事にしている物で、大事な人を殺害。全てを父親が知る事はあるのだろうか。恐らく、警察は辻裕也を送検出来るが、動機が父親の心に触れる事はない様に愁は思う。裕也も純也もこの世にはいない。警察が調べた上で推測した動機を父親が心底否定すれば、そこで終わりだ。裁判がある訳ではない。
「カインが欲しかったのは神の称賛」マッドは悲しげな笑みを浮かべた。
愁はすっと立ち上がった。「では、私はこれで」にこやかな笑みを浮かべ、椅子の背もたれに掛けた黒いコートを手に取った。
「あれ?今日はお泊りしないの?」井上がにんまりと笑い、愁を見上げる。
「今日は予定があるので、お先に失礼します」愁は井上と池上に軽く頭を下げると、部屋を出て行った。愁の足音がした後に、バタンッとドアが閉まった。
「予定ねぇ?」井上はマッドをちらっと見た。「何の予定だか知ってるんでしょ?マッド」
「きっと警視庁の床が嫌で、今日はフカフカのベットの上で寝る事にしたんじゃないかな」マッドはにこやかに微笑み、コーヒーを啜った。
*
高層ビルの最上階、普段なら絶対に入らないレストラン。腰の高さから天井まで、一面がガラス張り。そこからは東京の夜景が一望出来る。店内にはカップル達がグラスと手を重ね、夜景と相手に酔っていた。他にはビジネスマン風の男性が数名、食事を楽しみながら仕事をしていた。
愁はすらっとした黒いスーツ姿の男に、ガラス張りの前のテーブル席に案内された。真っ白なテーブルクロスが掛ったテーブルに、座り心地の良い椅子。テーブルの上にはバラの絵柄が描かれた灰皿が一つと、赤いバラが差してある一輪ざしの花瓶。
胸ポケットから煙草とライターを取り出して、愁は軽い溜め息を付く。本来ならこんな場所で、時間を過ごしていたくはない。男物と女物の香水が入り混じり、アルコールと煙草の匂いがそれに負けじとレストランの中を漂っている。それをうち消す様に煙草を一本取り出し、口に咥え、火を点けた。
アメリカから持ってきた中で一番高いスーツ、一本だけ持っている有名ブランドのネクタイと靴、数回しか着た事のないコートはすらっとした男が持って行った。初めてスーツを着た新入社員の様にやけに着心地が悪い、やけに居心地が悪い。
東京の夜景に目を奪われる事はないが、ただ何処に視線を置いて良いのか分からず、愁は窓の外をぼんやりと見ていた。紫煙を燻らせながら、ただじっと。
二本目の煙草を灰皿で揉み消したところで、店内が小さくざわつき、待ち人が来た事が直ぐに分かった。愁はざわめきを追い掛けるように、視線をゆっくりと待ち人に向けた。
愁を案内した男を後ろに従えて、冷子は小さく手を振る。パーティー帰りなのが一目で分かる、ブルーがかった黒いワンピースのドレス、肩が大きく開き、歩く度に太ももの半分が見えてしまいそうなスリットが入っている。冷子の耳でトパーズのビアスが揺れ、胸元にも同じデザインのネックレスが光っていた。彼女がテーブル席の間を歩くと、両脇の男性がちらっと視線を送った。
その視線の理由が彼女自身にあるのか、それともライアーにあるのか、愁には分からなかった。 愁は立ち上がり、頭を下げる代わりに手を差し出した。
冷子はその手を取って、にこやかに微笑む。「ありがとう」
「いいえ」愁は穏やかな微笑を浮かべる。冷子の手は驚く程冷たかった。
すらっとした男が椅子を引き、冷子は愁の手を取ったまま、椅子に腰を下ろした。「ありがとう」2人に向かってではなく、愁に向かって微笑む。
男が小さく頭を下げ、2人の元から去っていく。
愁は椅子に座り、ぐっと身を乗り出した。「連れて来ましたか?」囁く様な声で言う。
「勿論よ」彼女も身を乗り出し、妖艶に笑った。
テーブルの上で2人の手が重なる。
「大丈夫なの?」
「何がです?」
「想い人」
愁は穏やかな笑みを浮かべる。その目に一瞬、哀しみが過った。「あなたこそ」
冷子は肩をすくめただけだった。
愁はすっと手を引っ込め、スーツのポケットの中に手を突っ込んだ。ポケットの中からカードを取り出し、テーブルの真ん中に置いた。「お望みの最上階です」
「そう」小さなバックから煙草を取り出して、冷子はカードキーを一瞥する。
私の一か月分の給料のおよそ半分が吹き飛びました、愁は喉まで出かかった言葉を無理やり呑み込む。
2人を案内してきた男がメニューとグラスに入った水を持って、テーブルの前に来た。彼は頭を下げ、グラスを2人の前にそれぞれ置く。彼の視線がカードキーに止まり、直ぐに反れた。男がメニューを広げ、差し出す。
「任せるわ。彼にはベジタリアンメニューをお願いね」冷子はにこやかに笑い、メニューを軽く押し返した。「それと料理に合うワインもお願い」
「かしこまりました」彼は再び頭を下げ、メニューを持って下がって行った。
煙草に火を点け、溜め息と同時に煙を吐き出し、冷子は窓の外に視線を向けた。見慣れた景色。何時もと相手は違うが、景色は同じだ。否、新しいマンションが増えたかしら。「ここは煙草が吸えるから好きだわ」冷子はそう言うと、にこやかに微笑んだ。
Episode3 ・・・END・・・
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泣いて喜んでおります。
Episode4ですが、
恐らく時間がかかると思います。
それではEpisode4も宜しくお願いいたします。 時演