Episode3 -8-
「純也くんとの仲?」寺西は眉をひそめた。「冗談でしょ?あいつを疑っているんですか?そんなのひど過ぎですよ、刑事さん!」その目には怒りと悲しさが見える。
どんな言い方をしたところで寺西は怒っただろう、と池上も愁も思った。他の医者や看護師たち、患者に至っても反応は殆ど同じだった。その中でも特に仲が良いと誰もが口を揃えて言ったのが、寺西という裕也の友人だった。彼は裕也とは違う医大を卒業後、辻病院に就職。裕也の方が一つ年上だった。2人の友人関係はそこから始まった。
辻裕也は真面目で優しい、腕の良い医者だった。手術の腕は抜群に良く、何度かテレビや医学雑誌にも取り上げられている程で、彼を頼って遠くの県から手術を希望する人も来る。彼の手術によって、命を救われた人が何十人もいる。院長の息子だという事をひけらかさない、嫉妬をされれば謝ってしまう様な人物。多くの人間が辻裕也をそう評価した。
「純也くんとの面識は数回しかありませんが、彼と話している時の裕也は良い兄そのものでしたよ。それに、何より」寺西はうっと声を詰まらせる。「あいつが人を殺すなんて。人の命を救いたいと医者になった、裕也が殺人を犯す事なんて絶対にない」エグゼクティブチェアの中に体を丸め、彼は涙を流した。デスクの上で頭を抱え、肩を震わせている。その表情は2人からは見えなかった。
残念だが人の良い医者が連続殺人犯になった事例もある、と愁は思う。そしてその友人達は言うのだ、彼は医者だ、人を殺すはずなんてない、と。
物証がある、辻裕也が辻純也を殺害したのは間違いない、と池上は思う。無論、確定ではない限り、事件関係者にその事は話さないが。恐らく彼らが知るのはニュースになるはずだ。「では、裕也さんの自殺の原因、思い当たる事はありますか?」池上は穏やかな口調で言った。
寺西は顔を上げないまま、首を振った。彼の目から涙が飛び散り、デスクに当って弾けた。「ない、そんなものもない」
「彼は仕事以外に、どんな友人関係があったのでしょうか?」
寺西はふっと顔を上げ、愁を見た。その顔には戸惑いが見える。話しがいきなりあらぬ方向に飛んだのだから、当然と言えば当然の反応だ。「え?」彼の目からポロリと涙が落ちた。その目は池上と愁とをさ迷っている。「いや、医大の仲間とか、高校時代のクラスメイトとかの結婚式に参加したり、飲んだとかって話は数回聞きましたけど」
「裕也さんには親しくしている女性はいましたか?」
「あぁ、最後に付き合ったのは医大の同級生だったと思います。えっと、西美奈子さんだったかな。彼女と別れてから」寺西は磨かれたデスクの端に視線を移した。そこに何かがあるかの様にじっと見つめる。数十秒、考えてから、彼は視線を2人の刑事に戻した。「ここ数年の事だったと思うけど、裕也が酔っぱらった時ポロッと言ったんです、好きな女性がいるんだけど、その人との結婚は望めないって」
「付き合っていたんですね?」
寺西は首を振った。「いや、そこまでは。ただ、報われない愛でも良い、って言っていたのが印象的で」
報われない愛、マッドなら全力で否定しそうな愛、2人は同時にそう思った。
「相手の事は解らないけど」寺西は白衣のポケットからハンカチを出して、涙を拭った。「あぁ、院長が反対しているのかな、ってその時感じたんですよね」
「お父様、がですか?」池上は辻豊を思い出した。昨日の彼は弱々しかった様に思う。二男が何者かに殺害され、その後長男が自殺すれば、参ってしまうのは当然だろうが。裕也が屋上から転落し、息を引き取ると、父親は寝込んでしまった。池上は昨日の夕方に電話を掛けたが、案内してくれた女性が言うには、辻豊は鎮静剤を投与し眠っているとの事だった。『今まで見た事がない程、落ち込んでいらっしゃって』と女性は悲しげに言った。
「院長は簡単に言えば古い感覚の男性です。女、子供は自分の言う事を聞くもの、と思っている様な」寺西はデスクの上で組んだ両手に視線を落とす。「さすがに政略結婚まではさせないでしょうが、息子が選んだ嫁が自分の気に入らない女性であればきっと許さないと思います。特に裕也はこの病院の跡取りである訳ですし」
今時跡取りね、確かに古い感覚の持ち主なのかもしれない、池上は思わず大正生まれの祖母の顔を思い出した。だが、祖母ですら、良い家系、良い学歴、良い勤め先の人と結婚しなさい、とは言わなかった。
「裕也が直接そう言った訳ではないのですが、私自身、院長と接していてそう印象を持っています。院長は腕の良い、立派な医者です。ですが、経営者としてはワンマンで傲慢な部分があったと思います。それを補っていたのが裕也だったんです」
彼がいなきゃ働いている意味がない、と泣いて話す看護師がどれくらい居たか、と池上は思う。片手では足りない。その看護師の殆どは女性だったが、中には男性も含まれていた。人望があり、腕も良い医者、容姿もそこそこ良かった、おまけに病院の跡取り息子、とくれば言い寄って来る女性も多かったはずだ。だが、本人は報われない愛に身を投じていた。
寺西のオフィスを出ると、辻裕也のオフィスの外で紺色のジャンプスーツを着た褐色の髪の男と、20代前半くらいの綺麗な看護師が立ち話をしていた。彼女はとても楽しそうに笑っていた。
辻医院では勤続5年を超える医師は個人オフィスが貰える。差ほどの大きさはないものの、医者達は私物を持ち込んで束の間のリラックスの場所にしたり、医学書等を置いて勉強の場にしていたり、と各自様々な用途で使用している様だった。辻裕也のオフィスは個人的なものが一切なく、殆どが医学にまつわる物ばかりだった。
「報われない愛」池上がぼそっと呟いた。
愁は苦笑した。「マッド」
マッドは振り返り、2人を見つけると手を振った。「ハイ」彼は再び看護師に向き直り、小さくクスクスと笑った。また彼が何か話しかけると、看護師もクスクスと笑った。
看護師はマッドには小さく手を振り、2人の刑事には会釈をして、去って行った。
「オフィスで話しましょうか」愁は池上の肩をポンっと軽く叩いた。
池上が愁を見上げると、何時もの穏やかな微笑があった。「そうね」彼女は歩き出した愁の後を追った。マッドが先に辻裕也のオフィスに入って行く。
池上がパタンッとドアを閉めると、マッドがにんまりと笑った。「何か分かった?」
「辻裕也には想っている女性がいるそうよ」
「あら、ま。それだけ?」マッドは意地悪そうにクスクスと笑う。
池上の眉が跳ねる様に上がる。「どう言う意味?」
「今の彼女、以前先生の事が好きで猛烈にアプローチしたんだってさ。若い子って積極的で良いよね」マッドは朗らかに笑う。「そしたらさ、やんわりと好きな人がいるからって振られちゃったんだって」
池上はスーツのポケットに両手を突っ込んだ。「それで?」
「どんな人か知りたくて根掘り葉掘り聞いたら、誰にも言わないって約束で教えてくれたらしいよ。年上で、とても品のある優しい人だって」
「で?名前は?」
マッドは微かに肩をすくめる。「そこまでは知らないって。それ、調べるの、泉ちゃんのお仕事でしょ」とにこやかな笑みを浮かべた。
ラテックスの手袋をはめて、本棚の中から医学書をペラペラと捲っていた愁が淡々とした口調で言った。「彼の日常は病院と家の往復でした。酒はほどほどで友人達としか飲まない、ギャンブルはしない、インターネットも医学関係のホームページを観覧するか、病院のホームページを更新するのみ。出会う場所は限られていた様に思えます」
「まるで君の様」
愁はマッドを一瞥し、再び本に視線を戻した。「常に最新の医学を勉強し、日常の病院勤務、彼は一体何時寝ていたんでしょうね」
「きっとデスクの下で寝ていたんだわ。だってここ、警視庁の床より寝やすそうよ」
*
年上で、品があり、優しい女性。2人の目の前にいる人物はまさにそのもの。
村木美恵、42歳、小学生と中学生の子供が2人いるシングルマザー。辻家から程近いマンションに三人で暮らしている。開け放れたドアからは綺麗に整理された室内の一部と、とても美味しそうな煮物の匂いがした。
「私がですか?」
「違うんですか?」
美恵は小さく首を振った。「いえ、あの、どう言ったら良いのか」
池上は思わず愁を見上げたが、彼は美恵を優しげな目で見つめていた。
「そんな、あの」彼女はわっと泣き出した。顔を両手で押さえ、肩を震わせ、ただ泣いている。
愁は彼女の指の隙間にハンカチを滑り込ませた。「彼を想っていたのですね?」ひどくゆったりとした、優しげな声。
美恵はハンカチを手の中に収め、涙を拭うと、微かに頷いた。「はい」風の音にすら消えてしまいそうな、弱々しい声で答える。涙は後から後から彼女の頬を濡らして落ち、コンクリートの地面に円を描いた。
「彼があなたを想っていた事に気が付かなかったのですね?」
「はい」少し落ち着いた声だったが、ハンカチを握る手は小刻みに震えていた。涙は彼女の意思とは関係なく、落ち続けている様だった。「そんな事一言も」一息でそう言い、彼女は再び声を詰まらせた。流れ落ちる涙でアイラインが滲み、目の下が黒ずんでいた。
「恐らく言えなかったのでしょうね」
美恵は愁をすがる様な目で見上げた。辻裕也が一言も彼女に言わなかったその理由は、美恵にも痛い程分かった様だった。美恵は小さく頷いた。「そうかもしれません」その悲しげな表情は、儚げで、今にも何処かに消えてしまいそうだった。
想いを伝えてもいない相手に心のうち等話すだろうか、池上はハンカチで溢れ出る涙を拭う彼女を見つめた。辻裕也が殺人を犯した理由や自殺した理由を、村木美恵が知っているとは思えなかった。ただ、寺西が言った『報われない愛』がひどく痛々しかった。そして彼女が次に知る辻裕也の姿は、ニュースの画像になるだろう。
池上は美恵が落ち着くのを待ってから、話しを再開した。「辻家で働きだして何年になるんですか?」
「5年です。離婚してからですから」
「辻さんのご家族はみな、仲が良かったと思われますか?」
美恵は2人を交互に見ると、戸惑った表情を浮かべた。「どう言う意味です?」
「殺人事件なので、様々な事を聞かねばなりません」愁は穏やかな口調で言った。「深く考えずに、思ったままにお答え頂けますか?」
美恵は小さく頷いた。「はい。純也さんは年に数回しか帰って来ませんが、仲が良かったと思います。勿論男性同士なので、ベタベタとした仲が良い、ではありませんけど。純也さんが帰って来ると皆さんでお食事を取ったりしていましたし。特に純也さんと旦那様はお2人で将棋をしたり、株か何かのお話をされていたりして遅くまで話していて寝不足だと旦那様がおっしゃっている事もありましたから」
「そうですか」池上は淡々とした口調で言った。
「裕也さんはお二人が将棋をされていたりする時は何をしていらしたんですか?」
「お仕事を。普段からお食事をされても病院へまたお戻りになる事も多くて」
辻家には村木美恵を含む計5名の家政婦、1名のコックが居た。美恵以外の人間もまた同じ様な事を言っていた。辻裕也が弟の純也を殺害する動機が見えてこない。2人は仲の良い兄弟だった。性格は違うが、争いをする様な2人には見えなかったそうだ。
父親の豊は寺西が言った通りの人物の様で、傲慢な部分があったが、それでも仕事を辞めたくなるほどではなかったらしく、どこそこの家の主よりはマシだと言った意見も聞かれた。
「そうですか。裕也さんと個人的なお付き合いはありましたか?例えば食事に行ったり、など」
「5回だけ、ですが」数える程しかない思い出、美恵の目が悲しみに揺れた。「映画の趣味が同じだったので、御一緒させて頂きました」
「それは何時の話しですか?」
美恵は愁を見上げた。「日曜日です」ポロポロと落ちる涙は、何時までも止まらない気さえしてくる。
「誘ったのは裕也さんですね?」
「えぇ。普段は子供がいるので平日なんですが、どうしても日曜日に、と」彼女は涙を拭き、小さく頷く。「そう言えば」
変わった事は?の質問を、池上は呑み込んだ。
「裕也さんは最後に『さようなら』と。何時もなら『また明日』か『月曜日に』と言うのに」