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LINE  作者: 時演
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Episode3 -7-

 左の唇の端が切れ、血が滲み、青く腫れあがっていた。ハンカチで押さえていたが、白い生地がゆっくりとしたペースで赤く染まっていく。

「大丈夫ですか?」

 桜井は弱々しく頷いた。「はい」彼は情けない表情を浮かべ、視線をマジックミラーに移した。「油断しました」

 取調室のスチールデスクの上に突っ伏して、大きないびきをかきながら、その男は眠っていた。顔は赤らんでいて、狭い部屋はアルコールの匂いで充満していた。鉄格子付きの窓を全開していたが、その匂いは制服警官の顔を歪めるには十分過ぎる様だった。

「全く、昼間から酒飲んでるって何なの?」

 その男、小山田武雄は田中達が事情聴取に行くと、既に出来上がっていた。足元はおぼ付かず、呂律は回らない。挙句の果てに2人に絡み、大暴れ。妻や子供達は家にはおらず、田中達は仕方なく小山田を一緒に連れて帰って来たのだが、車から降りる時に再び暴れ出したのだ。止めに入った桜井は殴られ、駆け付けた職員達に取り押さえられた。そして小山田は取調室に入るなり、眠ってしまった。

「小山田は現在日雇いで仕事をしているそうです。元々左官職人で、自分の会社を立ち上げていましたが、最近になって潰れ、現在はフリーで仕事を貰っているらしいとの事です」桜井は口を開くのが痛いのか、時折苦痛に顔を歪めながら、早口で言った。「妻はフルタイムの仕事に行っているらしく、子供達は祖父母の家だとか。全て近所の方から聞いた情報ですが」

「医務室、行った方が良い。後は田中に聞くから」池上はハンカチを差し出し、「変えた方が良いわ。それ、汚いもの」と小さく笑った。

 桜井はハンカチを受け取ると、軽く頭を下げた。「ありがとうございます。田中さんは係長の所に行っています」桜井は「じゃ」と言い残して、部屋を出て行った。桜井を追いかける様にして、パタンッとドアが閉まった。

 池上は両手をポケットの中に突っ込んで、マジックミラーの中を覗きこみ、壁に寄り掛かった。「あいつが被害者を殺害したとは思えないわね」

「していませんよ」愁は淡々とした口調で言った。

 池上は顔だけを愁に向ける。「その理由は?」

「彼は右利きです」

「確かに。桜井は左を殴られているわね」

 小山田武雄が右利きである事は、疑い様のない事実。桜井は暴れた時にたまたま当たったのではなく、完全に殴れている。ただし、辻純也を殺害した犯人が左利きであるのは、現段階では可能性が高い、という事に過ぎない。辻純也の解剖は今、行われている。結果は解剖待ち。

 池上ははぁっと溜め息を落としてから、ポケットの中で握りしめていた携帯電話を取り出した。「そろそろマッドにかけても良い頃よね?」

 愁は微かに肩をすくめた。

 池上は「かけてくるわ」と呟く様に言い残し、部屋を出て行った。

 マジックミラーから正面の壁に寄り掛かり、愁は小山田をじっと見つめる。規則正しく上下に動く肩は大きく、体格も良かった。酔っていたとは言え、桜井の傷は相当ひどいものだと判断出来る。酔いから冷めた時、彼が思うのは一体何なのだろう。それが罪悪感である事を、愁は願った。

 しばらくすると池上ではなく、田中が部屋へ入って来た。「まさに、飲んでも飲まれるな、ですね」

「えぇ」

「彼は留置所に行かせる事にしました。ここに居ても、とてもあの状態では、起きそうもありませんしね。目が覚めて、頭も覚めるまで、あの独房に滞在してもらう事にします」田中はそう言うと、端正な顔立ちを緩めた。「まぁ、彼が辻純也を殺害した犯人ではなさそうですし」

 愁は小さく頷いた。「そちらの聞き込みはどうでしたか?」

 マジックミラーの横に寄り掛かり、田中は長い腕を胸の前で組んだ。「理不尽な要求をしている保護者がいるとは思えませんでしたね。辻純也は子供達に理不尽な指導をしている、その内容は筋が通っていると思えましたし」田中は真剣な眼差しを愁に向ける。「まぁ、一番理不尽な要求をしていたのが小山田さんの様ですから、酔いが覚めたら彼や奥さんに聞いてみます」

「えぇ」池上から報告は受けているはずだから、愁は自分達が聞いた事は言わなかった。現場責任者は田中だ。報告は全て彼にいく。

「ですが、学校が提示した5組の親御さん以外、辻先生の印象はさほど悪いとは言えません。逆に若いのによくやっていると思う、と話す人もいましたから」

 死者を冒涜するな、の精神に則っているのかもしれない、と愁は思う。「どちらを信用しますか?」死人に口なし、とも言う。

「保護者の方を」田中は淡々とした口調で言った。「浜野さんは?」

「同じです」

 ドアの開く音がしたが、2人のいる部屋のドアではなく、小山田がいる取調室のドアが開いた。制服警官が3名入って来て、彼の周りを取り囲んだ。1人の警官が何度も小山田の肩を揺するが、彼は一向に起きる気配がない。3名の警官達は仕方なく、小山田の両腕や腰のベルトに手をかけ、引きずる様にして立たせた。中に居た警官がドアを押さえ、3名は眉間に皺を寄せながら、小山田を取調室の外へ引きずって行く。

 田中は目の端で、隣の部屋から運ばれて行く小山田を見送った。「彼じゃないとしたら、犯人はやはり兄の裕也、でしょうか?」

 98%の確率で、と内心では即答したが、愁はそれを口にはしない。「犯人であればマッドが証拠を掴んできてくれると思います」

「マッドさんは辻家と病院の捜索をし直しているんでしたね」

「えぇ。それに内田さんの解剖が終われば、証拠と共にプロファイルも出来ますし」恐らくそれは必要ないだろう。犯人はいずれ分かる。ただ、動機が分からないだけだ。

 田中は小刻みに数回頷くと、組んでいた両手を脇へ垂らした。「私達はこれから学校側と現場の保存の事で協議しなければいけないので、浜野さん達は辻裕也の周辺を」

 田中が言い終わらないうちに、ドアが開いた。「辻裕也は左利きだって。あら、田中、まだいたの?」池上がそう言って微笑んだ。





                       *





 鑑識のバンのトランクを開け、その中に座って、マッドは休憩を取っていた。

 有力な容疑者である辻裕也は35歳、独身。実家で暮らしており、部屋は昨日マッドが調べた。何もなし。部屋は書斎と寝室の二つを与えられていたが、遺書もなければ、日記の様なものもなく、犯行を裏付ける様な物証もなく、死を匂わすものもなし。本棚は医学関係のありとあらゆる本や雑誌、医療を題材にした漫画や小説があり、パソコンの履歴も殆どが医学に関してのものだった。     

 彼の生活の大部分が仕事で埋め尽くされている、マッドはそう印象を持った。誰かに似ている。

 辻裕也と仲の良い友人は皆、医者。30歳まで同じ大学の女性と付き合っていたが破局。それ以来、恋人らしい恋人はいないらしい。恐ろしい程、誰かに似ている。

 自動販売機で買ったホットコーヒーは甘く、幾分冷めてきていた。読む時間が殆どなく、常に持ち歩く事にしている、最新号の最新・科学捜査。愁がアメリカに帰った時にバックナンバーも一緒に買ってきて貰った情報誌だ。何処ぞの警察の鑑識や大学教授、その道のスペシャリスト達が毎回特集を組んで掲載されている。マッドにとってはバイブルの様なもの。

「あら、休憩?」

 マッドは本から顔を上げると、朗らかに笑った。「交代でね」

「そう。何を読んでるの?」池上はコートのポケットの中に、車のキーごと手を突っ込んだ。外は凍える程寒いのに、マッドは何故車の中で休憩しないのだろう。鑑識の紺色のジャンプスーツとジャンパー姿のマッドは、ひどく寒そうだったが、平然とした顔をしていた。

「科学捜査の本。最新号なの」マッドは雑誌の表紙を見せた。今月号は運悪くウジの拡大写真。ウジが五匹、虫めがねで拡大されている。

「楽しそうね」特にウジの特集が、と池上は思った。表紙のウジの写真の隣には死体農場からのウジの研究結果、の文字が躍っていた。今月号は死体農場に在籍する研究者の特集らしい。内容は専門的過ぎて読めないかもしれないが、表紙に書いてある見出しくらいは池上にも読めた。ウジ虫は見ただけで叫んで逃げる様な事はしないが、好んで触ろうとは思わない程度に慣れている。

「楽しいよ。新しい情報源だからね」マッドはにっこりと笑う。その目は爛々と輝いていた。「それにアメリカに帰ったら僕もこれに載るんだよ。日本の科学捜査で学んだ事と掴んだ事をメインにね」マッドは親に褒められた子供の様に嬉しそうだった。

 そのマッドの表情を見て、池上も思わず微笑んだ。マッドの笑顔は何故か吊られる。「すごいわね」その情報誌がどれくらい価値のあるものかは判らないが、少なくとも鑑識の間では価値ある雑誌なのだろう、と池上は判断した。

「シュウも日本のプロファイルの集計結果とかを載せるって言ってたよ」

 池上はマッドが持っている雑誌を指差した。「それに?」

「まさか、これは科学捜査。シュウは犯罪心理学ジャーナルって言う雑誌。どっちも最新の情報が載ってるから、見逃せないんだよね。僕にもシュウにも新しい情報は常に必要だからね」

 池上はゆっくりと首を傾げ、マッドの持っている雑誌をじっと見つめた。

「どうしたの?あれ?ウジ嫌い?」マッドは慌てて雑誌を後ろに隠した。

「好きではないわ」池上は上の空で答えた。だが、まだマッドが隠した雑誌を目が追っていた。

「泉ちゃん?」

 池上は彼の隣にドサッと腰を下ろした。車がガクンっと下に沈む。車の中は異臭がした。魚が腐った様な匂い。その匂いに負けまいと消臭剤の匂いがしたが、腐った様な匂いの方が圧倒的に勝っていた。「辻純也のアパートには教育関係の本が一冊もなかった。実家にはあったけど、彼は頻繁に帰っていた訳ではないし、何年も前に家を出ている。教育熱心な先生なら、常に情報を求めるわよね?教育界だって新しい情報があっても可笑しくない」

「そうだね、教育熱心な先生なら、ね。でもね」マッドは隣に座った池上を優しげな目で見つめる。「こないだテレビでやってたし、被害者の職場の先生が言っていたんだけど、殆どの教師が新しいものを学ぶ様な時間がないそうだよ。現状やっている事が精一杯で、講義とかにも参加出来ないんだって。それに学校のデスクには数冊、教育学が載っている冊子みたいなのが置いてあったよ、皆のデスクにもあったやつだけどね」

「それは学校で配られたやつかしら?」

「多分ね」だって殆どの先生のデスクの上に置いてあったもの、とマッドは思った。それだって、開いてみた後がある人もない人もいたし、最新刊だけ無くなっている人もいた。辻純也は開いた後だけはあった。読んだかどうかは本人に聞かなければならないだろう。「それに辻純也は土曜日の日にも休日出勤しているよ」

「そうね、でもそれならあなたもしているし、私もしてるわ。それに超過勤務の上に勉強もしてる」池上はマッドが隠した雑誌を取った。「でも、辻純也は教育の本ではなく、財テクの本を読んでいたのかも」それが悪い事だと、池上が思っている訳ではない。教師にもプライベートな時間は必要で、教育関係の勉強ばかりをしろとは思わない。ただ、何もないのが、まるで教師と言う仕事をおざなりにしている様で何処かふに落ちない。

「それは我々の義務ではないでしょうか?」車の前方から愁の落ち着いた声がした。

「何時からそこに居たの?」

「先ほどから」マッドの横から顔を出した愁が穏やかな微笑を浮かべる。手には缶コーヒーが二つ。そのうちの一つを池上に差し出した。

「ありがとう」池上は受け取ると、両手で缶を包んだ。少し熱い缶は冷えた指先を温めるのに丁度良かった。「義務って何の話?」

「犯人を捕まえる為の義務、だよね。犯罪は日々進化してる。犯人は指紋を気にしだし、DNAを気にする様になった」マッドは池上が膝に乗せている雑誌を指差した。「なら、次はウジ虫かも」

「なら、教師は?」

「教師は子供を預かります。けして学業を教える為だけの職業ではない、と私は思っています」愁は缶コーヒーを軽く振り、缶を開けた。「私の恩師が特殊な持病を持っていました。始め、本人や家族もそれに気が付かなかったそうです。担任の教師もまた同じでした。彼は恩師を怠けもの呼ばわりし、親御さんにまでそう言ったそうです。ですが、同僚の教師がその持病を指摘し、更に専門の病院を教えてくれたそうです。恩師はその事を一生感謝し切れないと言っていました」時代は日々変化し、病気も日々進化し、発見されている。こないだまで親の育て方や本人の怠け癖と言われていた行動が、今は病名が付いている。そしてそれはどうやって知識として得る事が出来るのだろう。

「辻純也は前者の方だと言うの?」

 愁は肩をすくめた。「さぁ、どうなのでしょう」

「でも、それが正しくとも動機にはならないわね」

兄である裕也が、弟の職務怠慢―だと仮定して―を気にして殺害などはしないだろう。まず、それが分かったら、説得するくらいはするかもしれないが。少なくとも彼はきちんとした教員免許を取っているのだから。

 携帯のバイブ音がして、マッドが慌てて胸ポケットをさぐる。「僕だ」ターコイズブルーの携帯には、シルバーのMの文字のストラップ、雫型のクリスタルガラスのストラップ二つがぶら下がっている。「もしもし?」

 池上はマッドから取り上げた雑誌に視線を落とした。中をペラペラと捲る。一部の英語がどう頭を捻っても、理解出来ない。どうやらこの雑誌は一般向けではなく、悪魔でも鑑識や警察関係で働く人間用。身分証がないと購入出来ず、捨てる際には十分に注意を、との注意書きが目立つ。

「了解」マッドは電話の主に向かって言い、電話を切った。「辻純也の顔に掛っていた白い紙に裕也の指紋が二つ出たって」






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