Episode3 -6-
「モンスターペアレントって事?」
池上は思わず引きつった笑みを浮かべる。さすがに『えぇ、その通りです』とは言えない。学校側は確かにその言葉を使ってはいたが、無論それは悪魔でも当事者がいないから使用しただけ。
「あぁ、もう」花村智子は吐き捨てる様に言った。「何て事なの」
花村家は学校から10分くらいの所に建つ、2階建ての真っ白な家だった。昨日の事件があってから、学校は臨時で休みになっている。登校は明日からで、午前中のみ。子供達のショックが大きく、カウンセラーがしばらく派遣される事になっていた。
智子は子供が中にいるのを懸念してか、ドアを閉め、そこに寄り掛かっていた。30代後半、チェニックにジーンズ、生え際が若干黒くなってきた茶色の髪を後ろに結んでいる彼女は、至ってごく普通の女性に見える。
「先生との間に揉め事があったんですよね?」池上が優しげな声で言った。
「えぇ、色々あって、うちの主人が殴りました」智子ははっきりとした口調でそう言いながらも、2人の顔色を窺う様な眼差しを向ける。そこには不安げな表情も見えた。殴った相手が殺されたのだから、刑事でなくともその先は想像出来る。「でも、殺したのはうちの主人じゃないですよ」
「何故、殴ったんですか?」
「知らないの?」智子は呆れた様な口調で言った。「散々言ったのよ?校長先生にも」そして悲しげな表情に変わった。
「どう言う事ですか?」
「夏休み明けからうちの子供がイジメを受けていたんです。ひどいかひどくないかと言われれば、ひどくはなかったんですけど。でも、うちの子はショックを受けていて、それで辻先生に相談したんです」智子は何かを思い出して、眉を吊りあげた。「先生は最初だけその相手の子に口頭で注意をしたらしいんですけど、その子が止めたのは一時だけで、結局またイジメだして」
「相手の親御さんは何と?」愁は穏やかな口調で言った。
智子は小さく首を振る。「何にも。知らされてないみたいで」
今時?と愁は思った。イジメはイジメる側に問題がある事は、既に広い範囲で知られている。イギリスではイジメが報告されると、虐めた側の親子にカウンセラーが付く。家庭内に問題がある場合が多いからだ。虐めた側の調査が厳しく、引っ越してしまうくらいだそうだ。アメリカでは加害者に矯正プログラムを受けさせる。それでも無くなりはしない。日本は文部科学省がイジメ撲滅を訴えてこそいるが、現場の教師達は根を断ち切らない主義らしい。否、辻純也だけがそうだったのだと思いたい、と愁は心底思った。
「何度も先生に言ったんですけど、取り合って貰えなくて」智子の目が悲しみに歪み、涙が零れた。彼女は手の平でグイっと涙を拭った。「私だけじゃ駄目だと思って主人と三人で話し合いをしました。でも、先生は子供同士の事だし、うちの子の口が悪いから相手の子もイジメたくなるんだって」
池上は思わず眉を上げた。学校側の説明と花村智子の説明はま逆だ。学校側の説明では花村家はモンスターペアレントであり、理不尽な要求を教師にしている、子供同士の喧嘩に口を挟んでいる、との事だった。校長はそれを疑っていなかったし、イジメがあったとは一言も言っていない。池上はどちらの言う事が正しいのか解らなくなった。目の前で涙を零す花村智子が嘘を付いている様には思えない。だが、校長も副校長も嘘を付いている様には思えなかった。ただ、子供が自殺をすると大きく報道されるイジメ問題の多くは、学校側が嘘を付くケースが多い様に思える。一体、日本の学校の中ではどのくらいの子供が苦しんでいるのだろう。どのくらいの教師や、加害者の親がその問題から逃げているのだろう。
「それで殴ったのですね?」愁はポケットの中からハンカチを取り出し、智子に差し出した。
彼女は小さく首を振った。「結構です」
愁は断られたハンカチをポケットの中に戻した。「ご子息は大丈夫ですか?」
智子は顔を上げると、「えぇ」と頷き、深く長い溜め息を付いた。「正直、彼が殺されたと聞いても泣けませんでした。嬉しくもないけど、悲しくもなかったもの」
「土曜日はどちらにいらっしゃいましたか?」
「アリバイってやつね」彼女は落ち着いた声で言った。「家族で金曜日の夜から温泉旅行に行ってたわ。帰って来たのは日曜日よ。旅館に確認したら?」智子はジーンズのポケットから、ぐしゃぐしゃになった旅館のパンフレットを取り出した。事件が発覚した時、予め予想していたのだ、自分達が疑われる事を。
「こう言った問題は辻先生のクラスでは多いのでしょうか?」愁は敢えて感情は込めずに淡々とした口調で言う。
彼女は小さく首を振った。「知りません。あの、この問題が起きてから、私も友人とかと付き合う事が怖くなってしまって」智子の目から大粒の涙がボロボロと零れだした。
住宅街に建つ小さな喫茶店。学校側が提示したモンスターペアレントの家。
「殺してないわよ」沢木の妻は睨む様な目で2人の刑事を見た。「殺してやりたいと思った事はあるけど」
「殺意を抱く程の事をされたんですか?」穏やかな口調で池上が聞いた。
彼女はそれには答えなかった。ただ睨む様な目で池上を見た。
「あの先生はひどかったな」優しげな笑みを浮かべた夫が言った。「理不尽でさ」
妻は大袈裟な程大きな溜め息を付いた後で、捲し立てる様に話し始めた。「授業中にトイレに行きたいって言ったら、『そんなもんは休み時間に行け』と言われて、漏らした子が3人。宿題忘れた人はトイレ掃除。何か問題があると延々と怒って、何時まで待っても家に帰ってこないくらい。依怙贔屓は当たり前、体罰まではなかったけど、暴言は沢山あったのよ。『馬鹿』とか『チビ』とか。一体何時の時代の教師よ。うちの子なんてあの先生になってから、突然深夜に起きだして号泣する事もあって、本当に悩んでるんですよ」
「校長先生には?」そんな事、あの2人は一言も言っていなかったけど、と池上は思った。
「言いましたよ、校長にも、副校長にも。でも、強くは言えないんです。最近はちょっと何か意見を言うだけでモンスターペアレントって騒ぐし、それに子供を預かってもらってるんだから」
「更に怒られたり、嫌がらせされたらどうしよう、ってねぇ。その相手は子供だからね、僕達じゃぁないから」夫は喫茶店の磨かれた床を見ながら、ゆっくりと悲しそうな口調で言った。
「そんな事をしそうな教師だったんですね?」
夫婦はパッと顔を上げ、愁を見ると力強く頷いた。「絶対やりそうだった」妻が言い切る様な口調で言った。「偶然かもしれないけど・・・」そこまで口にして、彼女はその先の言葉を濁した。
「何でしょう?些細な事でも構いません。気になる事があればおっしゃって頂けると助かります」愁は穏やかな微笑を浮かべ、妻を見て頷いた。
「余りにもひどかったから先生に一言言ったんです。授業中のトイレくらい許してあげて下さいって、そしたら」彼女は夫をちらりと見てから、視線を床に投げた。「何日かプリントが入ってなかったんです。数日だけだったけど、学校行事に参加するか参加しないかとかのプリントで。子供は貰ってないって言うし、先生は配ったって言うし」
「偶然かもしれないけど、アレは困ったよなぁ」
辻先生よりに見れば偶然、沢木夫妻よりに見れば嫌がらせ、その真実は辻純也が永久にあの世に持って行ってしまった。そしてそれは、もう表面に出る事はないだろう。
池上は軽く息を付いた。とても良い香りのコーヒーが胃を刺激した。「クラスの親御さんは皆さん、同意見なのでしょうか?」今は廊下に立たせるとニュースになる。授業中とは言えトイレに行かさないとなれば、問題になるのではないのだろうか。
「いいえ、全員じゃない」彼女は弱々しく首を振った。「半分くらいです。でもその半分も、口では変だって言うけど、問題視するまではいかないんです。多分苦情を言ったのが私入れて数名だと思います」
その数名が学校側にとってはモンスターペアレントなのかもしれない、と池上は思った。もしも花村智子や沢木夫婦が言っている事が正しいのだとしたら。
「確かにねぇ、理不尽な事を言う親御さんもいるんだと思うよ。辻先生の授業が退屈過ぎて、成績が下がったって苦情を言ったって話も聞くしね」言葉を一つ一つ選びながら、夫はゆっくりと穏やかな口調で言った。まるで誰かを諭す様な口調だった。「でもねぇ、辻先生のやり方で良いのかなぁ、って。黙ったままじゃぁ、解決はしないよなぁって」
「その成績が下がったと苦情を言った方って言うのはどういう方ですか?」池上は手帳を取り出し、ペラペラと捲った。
「小山田さんって方です、その」妻は夫の方を見て、困惑した表情を浮かべた。
夫は彼女を見て、口を開いた。「そうだなぁ、カッとなりやすいかと聞かれればそうだと思うよ。刑事さんはそう言う事聞きたいんでしょ?」
えぇ、その通りです、と池上は心中で答えた。学校側が教えてくれたモンスターペアレントの名前、小山田と言う文字を見つけた。田中達が聞き込みに言っている。
「旦那さんの方が良く喧嘩するって」妻はためらいがちに口を開いた。「警察沙汰になった事はないみたいだけど、PTAとか自治会でも相当揉め事を起こしてるらしくって」
「悪魔でも噂だけどねぇ」
沢木夫婦のアリバイは、家で過ごしていたとの事だった。確かなアリバイはなし。
車に乗り込むと、池上はハンドバックを後部座席に投げた。「ねぇ、どう思う?」
「どうとは?」愁はバタンッとドアを閉める。
「さっきの話。どっちがモンスターだと思う?辻純也、それとも花村智子、沢木夫婦?」
「モンスターは辻純也を殺害した犯人でしょうね」
*
小学校から車で30分、辻純也が住んでいるアパートは築10年だが、立地も良く、綺麗だった。
「ここの家賃、幾らだか知ってる?」2人が部屋に入るなり、井上が嬉々とした声で言った。「なぁーんと、18万円。教師って素敵な職業ねぇ」
「彼の場合、教師だけの収入ではないのでは?」愁はぐるりと部屋を見まわした。リビングダイニング、キッチン、その他に部屋が1つ。大きなテレビに最新型のノートパソコン、革張りのソファー、部屋はモデルルームの様だった。
「ちぇっ」と井上は舌打ちした。「何で解る訳?辻純也は財テクマンだったみたいよ」ラテックスの手袋をした手で、ダイニングテーブルの上に置いてある2冊の通帳を広げて見せた。「残高、3000万」
「すごい」池上が通帳をマジマジと見つめた。
「株にFX、それからついでにアフリエイト」リビングから続くドアを指差す。「寝室にはその関係の本がたくさん置いてあった。教師の収入なんて遥かに越してるわね」
「じゃぁ、何で教師を続けているのかしら?」
井上は池上を見て、首を傾げる。「何でかしら?子供が好きだから?教師という職業に誇りを持っているから?物を教えるのが好きだから?でも、嘘臭いと思う?」
「嘘臭い?どう言う意味?」
彼女は通帳をテーブルに戻し、池上を見てニッと笑う。「田中達がモンスターペアレントに会ってきたの。でも」と黄色のマネキュアを塗った人差指を立てて見せた。「意見が真っ二つに割れたのよ。学校側から苦情を言ってきたと提示された人達は、辻先生は理不尽な事を言う教師だと言ってた。でも、他の人達は良い先生だと言って涙を流した。さて、どっちが本当?」
「恐らくどちらも、ね」池上は部屋を見回した。「田中達は?」
「小山田さんのおうち」
池上は小さく頷いた。
「あら、愁がいなくなった」井上は首からぶら下げたカメラを外し、テーブルの上へ置いた。「折角、プロファイル聞こうと思ったのに」キッドの中に手を突っ込んで、井上は不満そうな声を漏らす。
「解剖がまだなんだから無理でしょ。解剖は今日やるの?」
ふふん、と井上は笑った。「プロファイル、少しは詳しくなってきた訳?解剖は今やってるんじゃない?」
「そんな訳ないでしょ」池上はそう言って、寝室に向かった。ドアは開け放れていたが、愁の姿は見えず、他の鑑識のジャンプスーツが動くのが見えただけ。ドアから中を覗くと、10畳ほどのスペースにセミダブルのベット、デスクの上にデスクトップのパソコン、こちらも開け放れたままのクローゼット、大きな本棚があった。クローゼットの中には教師らしくジャージが数点、ノーブランドのスーツ何着かあったが、ブランド物のスーツも数点あった。
愁はしゃがみ込んで、本棚を調べている様だった。
「ねぇ、何かあった?」
「そうですね」愁は立ち上がると、振り返った。「相当、勉強していたみたいですね、財テク関係の本がぎっしりです。後は話題になった本やミステリー等の小説」
「それだけ?」
愁は池上を見下ろした。「教育関係の本は一冊もありませんね」
池上は肩をすくめた。「実家にはあったわ。結構な量があったと思ったけど」
「えぇ」確かに本棚を埋め尽くす程に教育の本があった。児童心理学から子育ての本まで、大きな本棚を覆い尽くす程に。
「何が言いたい訳?」
「いいえ」