Episode3 -3-
「モンスターペアレント?」愁は思わず呟いた。
池上は愁を見上げ、囁く様な声で言った。「理不尽な要求やクレームを付ける親の事よ」多分、と池上は小さな声で付け足した。本来、この言葉がどういう目的で造られたのかは自分には分からない。だが、そもそもモラルのない人間等、何処にでも、どの時代にもいる。親だろうが、独身だろうが、会社員だろうが、マスコミだろうが、警官だろうが、それこそ教師だろうが。
「そうですか」愁は小さく頷く。日本を離れて16年、知らない日本語がやたらと多くなっている様な気がしていた。
愁の不思議そうな表情を見て、池上は苦笑した。彼女は視線を愁から、田中と桜井、この小学校の校長と教頭に移した。
校長は50代の男性、副校長も50代くらいの女性だった。2人は刑事達の目の前のソファーに座っている。副校長は目頭をハンカチで押さえ、目を腫らしていた。校長も泣きこそはしないものの、沈痛な表情で座っていた。
「具体的にどんな事があったのでしょうか?」
校長はちらっと副校長を見た後で、視線を足の上で組んだ両手に落とした。「私は報告を受けるだけですから、明細までは存じていませんが、クレームが多かった様です。例えば子供同士の喧嘩をどうしてやめさせないんだ、あの子がうちの子の悪口を言っているからどうにかしてくれ、とか。辻先生の報告には殴られた事もあったそうですが、幸い怪我をした訳ではなかったのと、辻先生が大事にしたくないとの意向で私止まりにしています」
「親御さんに殴れたんですか?」田中は眉をひそめた。
「えぇ」校長は窺う様な眼差しで刑事達を見た。その表情は何処か不安げだった。
「その親御さんの名前を教えて頂けますか?」と桜井が落ち着いた声で言った。
「はい」校長は頷くと、ソファーから立ち上がり、自分のデスクへ戻って行った。
「他にはどれくらい、そう言ったクレーム等を言ってくる親御さんがいらしたんですか?」田中は副校長に視線を向けた。
副校長はハンカチを細い太ももの上で握りしめ、しばらく考えた後、口を開いた。「辻先生のクラスの中ではだいたい5人前後でしょうか」マスカラが涙で流れ落ち、目の下が黒ずんでいた。
それが多いのか、少ないのか、愁には理解出来なかったが、副校長の表情から恐らく多いという事が想像出来た。クレームを言う親ならアメリカにもいる。だが、違うのはアメリカが訴訟大国である事だ。クレームは進化させれば裁判になる。それがないだけ、日本はマシなのか、それとも何時までも決着が付かないままでいるのか。
「とても良い先生だったんです」副校長の目から涙がボロボロと流れ始めた。「確かにクレームを言ってくる親御さんもいましたが、辻先生の話からでは余り筋の通ったクレームではなかったですし。子供達からも人気のある先生でした」彼女はうっと声を詰まらせ、咽び泣いた。
校長がソファーに腰を下ろし、薄いブルーのファイルを田中に差し出した。「この学校のクレーム等の記録です。ですが、外部には漏らさないで頂けますか?」
「えぇ。勿論です」田中はファイルを捲った。
桜井が横から、愁と池上が彼の頭上からファイルを覗きこむ。
ファイルは1年生から6年生まで分かれ、更にクラス別に分かれていた。田中は迷わず4年1組のページを捲った。他のどのクラスより、彼の担任しているクラスのクレームの記録が一番厚かった。
田中は自分がざっと読むと、池上にファイルを渡した。
池上は辻が受けたクレームの報告書を読み始めた。副校長の把握している通り、クレームを付けているのは5人。給食費を払いません、等の突飛とも言えるものはないが、確かにモラルに欠けるだろうか。『海斗くんがうちの子と喧嘩をしているから、席を代えて欲しい』喧嘩はした様だがお互い其の後は仲良く遊んでいる、と辻が横に書いている。その横に海斗くんとその子が一緒に遊んでいた、と副校長の字があった。
その他のクレームも似た様なものばかりだったが、ただ一つ。『授業が下手くそで、子供が付いていけない』と言うクレームがあった。
「このファイルに書かれている親御さん達と校長先生や副校長先生はお話になった事がありますか?」桜井が穏やかな声で聞いた。
「はい、何度か」校長が小さく頷く。
まだ止まらない涙をハンカチで拭いながら、副校長も頷いた。
「どんな印象を持たれましたか?」
校長は隣の副校長をちらりと見た。「正直なところ、余り良い印象は持ちませんでした。子供同士の事に首を突っ込み過ぎていると言うのか。勿論、我が子が可愛いのは解りますが、子供には自分で解決させる力も身につけさせなければならないと思います、親が全て口を出すのではなく」
「そうですか」話しを切る様な、些かきつい口調で田中が言った。校長の話が長くなりそうだ、と判断したのだ。今は教育論を聞いているのではない、と田中は考えていた。
桜井が一瞬にして凍りついた空気をほぐす様な、とても穏やかな口調で口を開く。「そうですよね。子供を教育していくのって大変なんでしょうね」控えめな笑みを、2人に向けた。彼等が少しだけほっとした様な表情を浮かべたところで、桜井が再び口を開く。「ところで、この辻さんを殴ったとされる花村さんとおっしゃる方はカッとなりやすそうな方ですか?」
「いいえ。そんな感じでは」副校長がハンカチでマスカラを頬まで引き延ばし、小さく首を振る。「とても優しそうな方です。殴られたとありますが、辻先生はそこまでひどくなかったって言っていましたし。その後、お二人の間で話し合いも行われていますし、一応の解決はしていますから」
*
辻医院は、被害者が務める小学校よりも大きな病院だった。L字の5階建ての白い建物。病院の後は大きな駐車場が完備されている。
医院の隣には、純和風の大きな一軒家が建ち、そこが辻純也の実家だった。被害者は3年程前に実家を出ていて、小学校の近くにアパートを借りて1人で暮らしている。
迷路の様な廊下をお手伝いの女性に案内され、2人は辻豊の待つ部屋と向かった。
綺麗な中年女性の後ろ姿を付いて行きながら、1人で玄関まで戻れるかしら、と池上は考えた。多分、無理。子供の頃、何処かで入った忍者屋敷みたいだ。だが、廊下の窓から見える中庭は忍者屋敷ではなく、うっとりする様な美しい日本庭園だった。池上に日本庭園の良しあしは解らなかったが、それでもこの家の庭園は足を止めたくなる美しさがあった。数十本ある細い竹、大きな岩、岩から溢れだす水、その岩の周りには小さな池があった。庭の中心の地面は苔で覆い尽くされ、その周りに敷かれた白い小石を浮きだたせて見せている。小石は太陽の光を浴び、キラキラと輝いていた。
女性が突きあたりの部屋の前で止まり、襖の前で声を掛ける。「旦那様、警視庁の刑事の方達が見えました」
「あぁ、入ってくれ」中から低く、無愛想な声がした。
「どうぞ」女性が襖を音も立てずに開けた。
中庭に面した部屋。井草の香りが微かにする。30畳程の部屋の真ん中に革張りのソファー、彫刻が施してあるガラスのテーブル、その下には毛足の長い絨毯が敷かれている。その他には壺、金箔がキラキラと輝く桜の絵が描かれた大きな皿、数多くの美術品がセンス良く置かれていた。壁には徳川家康の絵が数枚、飾られている。
2人が部屋の中へ入ると、開けた時と同じく音も立てずに襖が閉まった。
池上は軽く頭を下げた。「警視庁捜査1課の池上と浜野です」
愁も頭を下げる。「ご子息の事、お悔やみを申し上げます」
「あぁ」ソファーに深く座り、ガラスのテーブルにギブスで固定された右足を乗せ、辻は頷いて見せた。その目は赤く腫れていた。「こんな格好で申し訳ない」力のない口調だった。「どうぞ、かけて」
辻豊は60代前半、白髪だが量の多い髪の毛、小柄だが威風堂々としている。寝巻の上にガウンを羽織り、葉巻を吸っていた。
池上と愁は辻が差したソファーへ腰を下ろした。
「息子の遺体は何時うちに帰って来れる?」
「解剖してからになりますから、明後日くらいと思って頂ければ」池上は遠慮がちに答えた。昨日の夜遅く、放火殺人と見られる事件が起き、死者が4名出ていた。今日中に内田が解剖に取りかかられるか、池上にはっきりした事は言えない。
「そうか」辻は弱々しく頷いた。
その反応は彼が医者だからだろうか、と愁は思った。我が子が解剖される事に良い印象を持つ人間は余りいない。特に日本では解剖率が低い為、宗教上の理由からでなくても嫌がる親もいる。
辻は座っている横に置いてある小さな机から、B5の紙を取った。「私なりに考えてみたんだ。純也が誰に殺されたのかを」辻は手を伸ばし、紙を2人に差し出した。
池上は一瞬だけ眉をぴくりと動かした。「恨んでいる人物に心当たりがあると言う事ですか?」とても穏やかな口調で言いながら、手を伸ばし、紙を受け取った。
辻は長く、深い溜め息を付いた。「人間生きてりゃ恨みの一つや二つ買うもんだろ?純也は裕也と違って他人に気を使う性格とは言い難かったからな。高校時代には喧嘩もしたし、大学時代には女を取った取ってないのって騒いだ事もあった。よくある青春だろう?」葉巻をガラスの大きな灰皿でもみ消し、辻はふぅと煙を吐いた。「だが、馬鹿な息子程可愛いものはない」
馬鹿な息子、よくある青春ね、池上は無表情に小さく頷いて見せた。確かに学生時代、そんな事で騒いでいた友人もいたが、事が殺人事件になれば話も変わる。池上はざっと紙に視線を走らせた。学校で教えてくれたモンスターペアレントの名前はない。主に学生時代の友人の名前だろうか。紙には5名程の名前、住所、電話番号が書いてあった。彼女はその紙を愁に渡した。
愁は彼女から渡された紙に視線を落としたが、意識は父親の方へ向けていた。
「それでも私にとっては良い息子だった。医者にはならなかったが、教師になった。妻が先だったせいか家には余り寄りつかなかったが連絡はくれていた。たまに時計やネクタイも送ってくれて」辻が声を詰まらせる。その目に涙が滲んだが、落ちはしなかった。
池上と愁は何も言わなかった。痛々しい沈黙は辻豊が二男の純也を愛していた事を示している。彼は足を骨折し、自宅療養中。真っ先に容疑者から外れる。
「私のアリバイならさっきの家政婦に聞いてくれ。その他にも家政婦はいる」辻が沈黙を破った。その声はやけに落ち着いていた。
池上は小さく頷いた。この手の会話をしてくる人間は殊の外沢山居る。二時間ドラマの影響だろうか。それとも小説か。何にせよ、『私を疑うつもりか』と怒鳴られるよりはマシだった。
ドンッ、と言う何かにぶつかった様な音に、甲高い女性の悲鳴。池上と愁は顔を見合わせた。
「何だ、今の音は?」辻が2人に向かって言う。
「事故かしら?」
愁はすっと立ち上がった。「私が見てきます。池上さんは話しの続きを」
「えぇ」
愁は辻に軽く頭を下げると、部屋を後にした。長い廊下を小走りに駆けていく。来た道を思い出しながら、何とか玄関ホールに出た。
ホールには辻の居る場所まで案内してくれた女性が、お盆に三つコーヒーを乗せて歩いていた。「刑事さん」彼女はにこやかに微笑んだ。「どうされました?」
「外で物音がしたので少し出て来ます」何時もよりは遥かに無愛想で、早口に言う。
「はい」彼女は小さく頷くと、来た道を引き返した。「門を開けてまいります」
「御願します」愁は小さく頭を下げ、玄関を開けた。外がざわついている。何を言っているのかまでは解らないが、何かがあった、それだけは愁にも理解出来た。
遠くで門が開く、低い音がした。愁は玄関の引き戸を閉め、走り出した。玄関から門まで、苛立つ程に長かった。
幾分息を切らしながら、完全に開いた門から飛び出すと、野次馬と思われる人達が、病院の方へしゃべりながら走って行くのが目に入った。愁も迷わず病院へと向かう。
L字型に建てられた病院の中庭には、噴水とギリシャ神話に出てくる医者アスクレーピオスの像があった。アスクレーピオス像はシンボルである蛇の杖を持ち、走って来る愁を見つめていた。
野次馬が群がっていた。道路から、病院から、次々と人が集まって来る。
愁は走りながら、バッチを取り出す。野次馬をかき分けながら、大きな声を出した。「警察です。開けて下さい」バッチを掲げた愁を、野次馬達は真っ青な顔で通してくれた。中にはうっと口を両手で押さえる者、呆然と立ち尽くしている者もいる。
血生臭い、現場がそこにあった。
病院の玄関口、倒れている男はぴくりもとも動かない。周りは彼から流れ出る血で徐々に真っ赤に染まっていく。うつ伏せに倒れ、顔を横に向けている男の顔は愁からは見えなかった。男はスーツ姿で、黒髪、長身。
愁が男に駆けよる前に、病院からストレッチャーを運ぶ看護師2人、その前に白衣を翻して走る年配の男性が出てきた。
白衣姿の男性はぴくりとも動かない男に向かって、「先生」と叫んだ。
叫ばれた男は何の反応も示さない。
「死んでるの?」野次馬の中の誰かが囁く様に言った。
「先生」年配の男性は何度も叫び、彼を仰向けにした。「早く」
看護師が頷き、三人は掛け声を掛けて、ストレッチャーに男を移動した。男の身体から溢れ出る真っ赤な血が地面を染めていく。三人はストレッチャーを押して、病院の中へ消えた。
愁はバッチを仕舞うと、ぐるりと回りを見渡した。真っ赤な血だまり、片方だけ転がっている革靴、生垣に吐く若者、青ざめた顔をした若い女性、病院に戻って行くパジャマ姿の男性は今にも倒れそうだった。
愁は座り込んだまま、ボロボロと涙を流す若い女性の側へ行くと、目の前にしゃがみ込んだ。「大丈夫ですか?」
女性は弱々しく首を振った。彼女は20代後半くらいの綺麗な人で、長い黒髪を後で一つに結んでいる。女性からは消毒液の匂いがした。
「この病院にお勤めの方ですか?」スーツのポケットから出したハンカチを、愁は女性に差し出した。
「はい」擦れた声で彼女は答えた。ハンカチを受け取り、それに顔を埋め、肩を震わせながら泣いている。
「彼が誰だかご存じですね?」
「はい、辻裕也先生です」途切れ途切れな声。その声は震えていた。「病院から出たら何かが落ちてきて」
「え?」愁の眉がぴくりと上がった。
「見回したら、先生が・・・」彼女はハンカチから顔を上げ、涙の止まらない目で愁をじっと見た。「落ちてきて」
愁は思わず空を見上げた。建物の最上階、屋上はここからでは見えないが、白い手すりが見える。
辻裕也、被害者の兄、自殺?限りなく黒に近い、被害者の家族。
愁はアスクレーピオスの像に祈りを捧げた。死者さえも生き返らせる事のできる医者アスクレーピオスよ、辻裕也を救い給え、と。