Episode3 -2-
そこは異常な光景だった。
黄色のテープが張り巡らされ、警官が普段の倍近い人数、そのテープの中に立っていた。テープの外側には数多くのマスコミ、そして野次馬がいる。野次馬達は携帯やデジカメで写真やビデオを撮っている者、泣いている者、興味深そうに中を覗き込もうとしている者、様々だった。
野次馬達の遥か後に車を停め、池上はうんざりとした溜め息を漏らす。「今日は一段とすごいわね」
「えぇ、本当に」愁はシートベルトを外した。
「確かに衝撃的な事件なのは分かるけど」池上はシートベルトを外すと、思わず事件現場の建物を見上げた。「現場が小学校じゃぁねぇ」
私は日本に来て二度目ですけどね、と愁は苦笑した。
2人は制服警官にバッチを見せ、誘導されながら野次馬達の間を抜けていく。もみくちゃにされながら、何とか黄色のテープの中まで入ると、池上は思わずふっと息を付いた。
2人が小学校の門まで来ると、制服警官が小さく敬礼した。「現場は西側の2階、一番奥の職員室になります」
「ありがとう」池上はそう言うと、にっこりと笑った。
小学校は4階建ての古臭い建物だった。ところどころに修復の跡が見られ、何度もペンキを塗り直しているのが窺える。制服警官が言った職員室と思われる場所には、ブルーシートが三階の教室から吊り下げられていたが、隙間から明かりが漏れていた。
校庭は広く、その周りにはフェンスが張り巡らされ、フェンスにはマスコミと野次馬が群がっていた。
池上と愁はそれを気にする事もなく、昇降口から校舎の中へと入った。小さな上履きや、大きな上履きが個別になった靴箱に入っていて、床に二つ程転がっていた。
普段は小学生で賑わう校舎も、今や警官や鑑識が忙しなく動き回っていた。
「おはよう」
手すりの指紋を取っていた井上が、赤い髪を揺らして振り返った。「おはよう」
「おはようございます、井上さん」
「どう?」
「手すりの指紋の事?」井上は指紋採取用の刷毛を持ったまま、睨む様な目で2人を見た。「小学校、おそるべし、よ。私、今日帰れると思う?」
池上は苦笑し、肩をすくめた。「無理かもね」学校中の指紋を取る、それを在校生及びその保護者、教師、全ての人間と照合、考えるだけでうんざりしそうだ。
「帰れる様に無駄話はやめる。マッドが上にいるから後はマッドに聞いて」井上はそう言うと、手すりの指紋に視線を戻した。慣れた手付きで、パウダーを落とし、浮かび上がらせた指紋に採取用のテープを張り付けていく。テープを取り、保護用シールをその上に戻し、キッドの中の紙袋に入れる。井上はその一連の動きを流れる様に繰り返し、次々と指紋を採っていく。
階段の踊り場で振り返った池上が呟く様に言った。「指紋採取のスペシャリストね」
二階の廊下はひんやりとしていた。廊下の隅で警官達が何人か、2人の刑事と話している。池上と愁にはその刑事達に見覚えがなかった。2人はそれぞれ会釈をしたが、刑事達は話に夢中になっているのか気が付かない。
職員室の中は静まり返っていた。大きな窓はブルーシートに覆われている。窓の下には小さな棚が幾つもあり、中に色々な物が入っていた。真ん中にはスチールデスクが10ずつ、向かい合わせになって並んでいる。どのデスクも乱雑に物が置いてあったが、更に乱れた形跡が見られた。床には白紙のテスト、教科書、鉛筆やペンが至る所に転がっていた。その隙間を縫うかの様に、血痕が飛び散っていた。
2人が入ったドアからは一番奥、沢山の生徒の名前が書かれた黒板の下に、被害者は仰向けの状態で横たわっていた。30歳前後と思われる、紺色のジャージ姿の男性。瞼は閉じられていたが、口は半開きだった。黒い髪、顔立ちは良く、背も高い。装飾品類は何も付けておらず、首には笛がぶら下がっていた。
彼の着ているジャージは刃物によって、その肉ごと切り裂かれ、血が出ていた。右肩から胸にかけて一か所、右腕に一か所、右太ももに一か所、左の手の平に一か所、頬に一か所、長く、だが、深くはない。そして切り口は力任せに引きちぎった様に歪んでいた。室内に争った様な跡がある事から、刃物を振り回され、逃げ惑った時に避けきれずに切られたのが推測出来る。
致命傷とみられる傷は左胸、心臓を一突きされていた。解剖をしなくても現場の刑事であれば解るほど、深い傷。そこからは大量の血が流れ、ジャージをどす黒く染めている。被害者の遺体の側は血だまりが出来ていた。
池上は胸の前で小さく手を合わせた。後ろでは愁が目を閉じ、祈りを捧げている。
「被害者の名前は辻純也、29歳、独身。4年1組を担任してるんだって」
「おはよう、マッド」池上はマッドが差しだした、被害者の免許書の入った証拠袋を受け取った。
「おはよう、泉ちゃん」マッドは控えめな笑みを浮かべる。「田中さん達は第一発見者の人と話してるよ」
池上はスーツのジャケットの上から腕を擦った。「随分、寒いわね」そう言った彼女の口から出された息が、白い煙に変わった。
「うん。冷房が掛ってるの」マッドは頭上に設置されている、業務用の大きなエアコンを見上げる。「設定温度が最低温度になってた。今は少し上げたけどね。あっちのも最低温度だった」と反対側のエアコンを、ラテックスを嵌めた長い指で指した。
「死亡推定時刻を惑わす為かしら?」池上も吊られてエアコンを見上げる。
「うーん、どうだろう?」マッドはほんの少し首を傾げる。その理由はマッドにも推測は出来るが、自分より愁の専門だ。「でも、犯人が操作したのは間違いない気がするよ」
「どうして?」
マッドは黒板を指差す。「この溝のところにリモコンが置いてあったし、拭いた後があったの。指紋は勿論ゼロ」
「そう」池上はそう言うと、免許書をマッドに返した。「じゃ、死亡推定時刻は解剖待ち?」
マッドは小さく頷き、自分のキッドの中に免許書を戻した。「うん、正しいのは解剖してからの方が良いと思うよ。とりあえず土曜日だって事らしいけど」
「土曜日?」
マッドは小さく微笑む。「そう。お仕事熱心なのかな」君とか、君の相棒とか、僕みたいに、先生も超過勤務だったのかな、マッドは喉まで出かかった言葉を呑みこんだ。
「他には?」
「被害者の顔に白い紙がかけてあったそうだよ」
池上は不思議そうな表情を浮かべた。「あったそう?」
「うん。第一発見者は声を掛けただけで、何も触らなかったらしいんだけど、救急隊が触った。紙が動いてない事を察知して、手では触らず、ハンカチで摘まんでビニールに入れてくれたけど」マッドは珍しく厳しい顔つきをしていた。脈を取るなら、腕だけで事足りる。顔に掛った紙をどける必要が何処にあったのか、と。それだけならばまだしも、何人かの隊員が職員室に入り、ご丁寧に足跡を残してくれた。
写真は皆無なのね、そしてあなたは御立腹、と池上は思った。彼女が相棒の姿を探すと、窓際のデスクの前に居た。「そこ、被害者のデスク?」
「えぇ」愁は見ていたファイルから顔を上げた。「テストの採点をしていた様ですね」途中まで赤いペンで丸を付けたままの答案用紙がデスクの上に置いてあった。デスクの上は他のデスクと比べれば、幾分きちんと整理されている様に思える。
「他には?」池上はデスクの方に向かう。
「いいえ。財布もカードもありますし、鞄の中や机の中を荒らされた形跡もありません」
強盗の線は薄い、と池上は考えた。そもそもこの職員室のデスクの上は、その殆どが既に強盗に入られたかの様に散乱している。だが、それは元々荒れているものであり、誰かが故意にやったものではない事が分かる。一係の田中や桜井のデスクと大差はない。否、職員室の方が随分マシだ、と池上は思った。
「おはようございます」
愁と池上は顔を上げる。2人が入って来た入り口に、田中が立っていた。
「おはようございます、田中さん」
「おはよう」
田中はくいっと顎を廊下に向かって指した。「池上、ちょっと良いか?」
「えぇ」池上は軽く頷くと、持っていたファイルをデスクの上へ置き、「後は宜しく」と言って、田中の後を追って廊下へ出て行った。
デスクの引き出しの中を全て調べ終え、愁は小さく息をつく。白い煙が目の前に広がり、コートを車の中に置いてきた事を後悔したくなった。
「何かある?」
「被害者の体に残る長く、浅い力任せに引きちぎられた様な傷、荒れている部屋、飛び散る血痕」愁は視線を並んだデスクの上へ、次々と走らせる。デスクの上は本や紙、ペン等が転がっていた。
「何かが引っ掛かる?」マッドは被害者のデスクとは反対側の通路を指差す。「来て」
愁はマッドの後を追った。
マッドは田中と池上が姿を消した出入り口の方へと向かう。「そっち側のドアは建て付けが悪くて、力を込めないと開かないの。犯人はこっちから入ってる。階段から近い場所の入り口だし、血痕の形状から見てもこっちから入ってきたのは、間違いないと思う」血痕や真っ白な紙、答案用紙、ファイル、本を上手く避けながら、マッドはどんどんと歩いて行く。部屋の真ん中に来ると、くるりと愁の方へ向いた。「僕、犯人」何かを構える格好をする。
愁は血痕の飛び散った位置から、被害者が立っていたと推測される位置で止まった。足元には本があったが、当たってはいない。
「出入り口に犯人の足跡はなし。でも、ここに一つ、血を踏んで擦れた跡がある。ここから二つ程、犯人と思われる人間の足跡が付着しているけど、靴の大きさ、メーカーは不鮮明で判別するかどうか微妙なところ」マッドは愁の前に立つと、上から大きく腕を振り下ろす。「短いナイフだとすれば、傷の形状から推測して犯人の背は被害者より高い。だけど」
「短ければ逃げられた。被害者は長い傷を負ってる」
「だとすれば長いナイフ?サバイバルナイフとか?ランボーナイフとか?」マッドはほんの少し後に下がり、愁に向かって見えないナイフを振りかざす。「でも、それでも少し短い気がする」
2人の頭の中の映像では、マッドの握ったナイフは愁に届かない。
「レイピア、サーベル、刀なんかだと長いな」
「因みにマグロの解体用の包丁も長いよ。こないだテレビで解体ショーやってたんだよ」すごかった、とマッドは満足げな笑みを、それでも控えめに浮かべた。「そもそもここは日本なんだから、レイピアやサーベルよりは刀やマグロの解体用の包丁の方が可能性は高いでしょ?」
「何処の国にも、どんな物にもマニアは存在する」
マッドは両手をあげて見せた。「はいはい、確かにね。ナイフや剣類はマニアが多いもんね。まぁ、とりあえずマグロの解体用包丁で。長さ、60センチだって」それでも小ぶりだって、マッドは心中で付け加えた。マッドは60センチの長い包丁を構える真似をする。
「だとすれば、避けきれない」マッドが振りかざした解体用の包丁を、愁は避けようと体を反らせる。だが、刃先が当たる。「被害者は後向きに逃げている。刃先を避けながら、受けながら」愁は足元の証拠を踏まないように、慎重に、後ろ向きのまま被害者の跡を追う。「ここでもう一度切られた」
マッドは真横に腕を振った。「被害者は恐らく右手でガードしたんだ。だから腕が切られていた。血痕は真横から飛び散り、壁に当たっている」壁にはそれを示す、周りを波型に囲まれた血の跡があった。「あら?僕、良い事気が付いちゃった」
「俺もだ」愁は小さく呟く。
「被害者の傷は右側に集中してる。右肩から胸へ、右腕、右足、右ばっかり。血痕からして上から下に切りつけのは間違いないから、犯人は恐らく左利き」
「長い包丁等であれば構える」愁は長い包丁や刀等を構える真似をする。「振り下ろす、だろうな」
「うん。殺陣なんかをやってればもっと違うかもしれないけど」テレビの中の時代劇俳優は、左右どちらかに偏るなんて事はない、とマッドは思う。俳優達は流れる様な動きで、まるで踊る様に刀を裁いていく。帰ったら時代劇厳選スペシャルDVDをチェックしてみよう、とマッドは頭の片隅に刻んだ。「それに被害者はデスクの上の物を手当たり次第、犯人に向かって投げたんだろうね。犯人にきっとそれが当たってる。後で指紋とかを照合してみるよ」
「傷」
愁が言う前にマッドが口を挟む。その眉はこれでもか、と上がっていた。「無論、やりますよ。傷から型を取れば良いんでしょ。ミスタースケコマシと喧々諤々やりながらやってやるさ」
「マグロの解体用の包丁であるのなら、あの切り口はない」
「切れ味の悪い包丁だってあるもん」
「面白そうな事してるのね」
2人の視線が、声の主に向かった。
池上は職員室の中に入ると、持っていたメモ用紙をひらひらと振った。「私達は被害者の父親が経営している辻医院に聞き込みだって。被害者の父親にはもう連絡が入ってるんだけど、彼は現在足を骨折していて自宅療養中だそうよ。身元確認は兄の裕也さんが来てくれるらしいけど、手術があって直ぐには来られないの。母親は数年前に病死したそうよ」
「了解」
「この後、校長や教職員の人に話を聞く予定なんだけど、学校に登校してくる子供達を帰さなきゃいけないし、親御さん達に連絡を取っているから、しばらくは無理そうなの。外は大騒ぎよ」彼女の表情が一気に暗くなった。
その言葉が持っている意味を、愁もマッドも難なく理解出来た。
ランボーナイフ・・・ 映画「ランボー」に出てくるナイフをモデルにしている
大きなナイフ。