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Episode2 -3-

 「親権が欲しくて殺害。動機としては十分。安田は1人暮らし。確かなアリバイはゼロ。こっちに来て元妻を殺害。高速を飛ばして5時間。余裕しゃくしゃく」

「えぇ、本当に」

 池上はハンドルを握り直しながら、ちらりと愁を見た。「何?その気のない返事」

「いいえ。別になんでもありませんよ」

 言ってみただけよ、と池上は思った。安田が会いに来たとしたら、野口恵は家に入れるかもしれない。それに疾しい気持ちがあれば着信だって消すだろう。何と言っても彼女は浮気性なのだから、元夫と再燃したとしても何等不思議はない。そんな話は世の中に五万とある。それに親権問題を加えれば動機は十分。例えば再婚を迫って断られた。だが、悪魔で動機が十分なだけだ。刑事としての勘も経験も、安田が犯人だと告げていない。あの犯行現場がどうしても安田とイコールにならないのだ。もしも彼が犯人であるとしたら、自分は刑事として終わりだと思う。

 池上は愁を見てから、淡々とした口調で言った。「何考えてるの?」

「いいえ」目頭を揉みながら、愁は穏やかな口調で言った。「何も考えていませんよ」

「嘘吐き。目頭を揉んでいる時は事件をどっぷり考えている時」

 マッドめ、余計な事を、と愁は胸中でごちた。「マッドは池上さんに私の事を何処まで話しているんですか?」

「そんなに聞いてないわ」池上は肩をすくめた。「初めて付き合った彼女の名前くらいまでよ」

 愁は相棒をちらっと見た。「そうですか」

「で、何を考えていた訳?」

「犯人が遺体を隠さなかった理由です」

 池上はふっとある男の顔を思い出した。「処理する時間がなかった、だからそのまま置いて逃げた」ある殺人事件での、犯人の供述だ。「でも、この事件の場合は弱いかしら」

「時間はあった様に思えます」

「そうね。犯人が友人や顔見知りであれば旦那さんの職業を知っている可能性は高い訳だし、友人でなくても少し調べれば分かりそうな事だもの。犯人が野口夫妻の事をある程度していた上で遺体を隠そうとしないのであれば殺害したのは予想外の事でパニックになって逃げた」池上はそこまで言って、深い溜め息をついた。「これも弱い」殺害したのが予想外であれば、部屋は荒れている方が自然だ。

「子供が起きてきた」愁はボソッと呟く。

 池上は愁を見て、眉をひそめた。「ゾッとする」

「これも弱いですね」

「そうね・・・」池上は窓の外に視線を戻した。もしも子供が起きてきたとしたら、おそらく犯人は子供も殺害している可能性が高い。目撃者だから、という理由で子供を一緒に殺害する事はけして少なくない、恐ろしい事に。又は子供が起きてきた事に勘づいて逃げた。もしも子供が起きてきたとして、3歳の子供ならば母親の異変に気が付くだろうか。幾ら呼んでも起きない母、その時子供はどうするだろうか。3歳なら腕や手を掴んで揺する?だが、遺体は倒れていなかった。泣き叫ぶ?声をかけても反応しない母を諦めてベットに戻り再び眠る?それなら最初から起きてこなかった、という方が余程筋が通る。

「端っから隠すつもりはなかった。あるいは見せしめ」

「見せしめ?何のため?」

「さぁ」愁は肩をすくめた。

「さぁって何よ。あんたが言ったんでしょーが」

 愁はくくっと笑う。「そうですね」





                 *





 何かが崩れていく時はあっと言う間だ。高く、慎重に積み上げていった積み木が、わずかな振動で崩れ落ちてしまった時の様に。

 午前中、午後をかけて行った聞き込みでは、“良い家族”という証言しか得られなかった。それは林、山田が行った職場でも保育園、友人でも同じだった。元夫の安田以外、誰もが―両親や現夫も含めて―彼女には恨まれる要素等ない、と証言していた。

 ドアを開けた若い男は茶髪に白いメッシュを何本も入れ、唇に金のピアスを二つしていた。黒のスーツにワインレッドのワイシャツ、手首には高級時計。

 池上はバッチを見せた。「水谷さん、警視庁捜査1課の池上と浜野です。少しお話をよろしいですか?」

 愁はその男の顔に見覚えがあった。

 彼は一瞬、ひるんだ表情を見せ、それを瞬間にして何かを思いついた表情に変えた。「分かった、恵の事だろ?」

「えぇ、そうです」けしてあなたを捕まえに来た訳ではありません、と池上は心中で付け加える。どうせケチな事をしているんだろう、と思う。水谷は善良な市民でもなければ、頭の切れる犯罪者でもない。煙草と酒、香水に混じって、微かだがマリファナの匂いがする。池上は眉を吊り上げたくなるのを、何とか堪えた。

「あいつ、殺されたんだって?犯人は旦那?」ニヤニヤと笑いながら、水谷は言った。

「どうして旦那さんだと思われるんですか?」至極冷静な口調で池上が言う。

「あん?あんた等、刑事だろ?俺とあいつの関係知ってるから来たんしょ?」

「関係とは?」

「セフレ」

 でしょうとも、と池上は思う。

「純粋に体の関係だけですか?」愁が穏やかな口調で言った。

「純粋?」水谷はゲラゲラと笑う。「金とかって事なら何もないよ。そりゃ、セフレだけど誕生日プレゼントくらいはやった事あるけどさぁ。あいつはさ、金なんていらねぇの。欲しいのは男の注目」

「そうですか。だから、あなたが考える犯人は旦那さんな訳ですね?」

 愁を見下し、水谷はふんっと笑った。「当然っしょ。あいつ俺のダチともヤッてるし」

 はぁー?と叫びたくなるのを池上はぐっと堪えた。そしてほんの少し、後ろに下がる。

「なるほど」愁は落ち着いた口調で続ける。「あなたが知っている限りで構いません。彼女にはそう言った方がどのくらいいましたか?」

「あー?」彼は視線を右上に漂わす。「俺入れて3、4人ってとこじゃねぇのかな。なぁ、犯人絶対旦那だって。マジでさぁ、俺、そう思うんだよね」

「ご意見ありがとうございます。参考にさせて頂きます」

 ふふん、と水谷はどこか得意気に笑った。

「その、3、4人の方の名前、教えて頂けますか?」愁はにっこりと微笑んだ。

 水谷はあっさりと3名の名前を言あった。内2名に関しては携帯の番号まで。もう一人は名前しか知らないそうだが、他の2人に聞けば分かるだろうと話した。

 野口恵とは半年くらい前にナンパし、月に1、2度会っていたと言う。

「あいつは簡単に付いてきた」と彼は笑う。

 愁は丁寧にお礼を言って、彼の部屋のドアを閉めた。愁が歩き始めた時には、池上は廊下から階段へと消えていた。只、廊下に響く、彼女の足音がその心を表していた。怒り。

 分からなくもないが、と愁は思った。水谷は被害者の死を悼もうともしなかったばかりか、どこか小馬鹿にしていた。池上が怒るのも無理はない。

 アパートの外へ出ると、池上は既に車に乗り込んでいた。

 愁は軽く溜め息をついてから、車へ乗り込んだ。ドアを閉め、彼女の吊り上がった眉を見て、愁は思わず微笑んだ。

「何よ?」池上はむっとした顔で、愁を睨む様に見た。

「いいえ。池上さん、麻薬課に知り合いはおられますか?」

 池上はアパートを顎で指した。「マリファナの事?」

「えぇ、まぁ、それもありますが。彼はおそらく売人の方ですね」

「何でそんな事が分かる訳?」池上はそう言いながらも、コートの中から携帯を取り出した。この際、あの馬鹿男をぶち込めるのなら何だって構わない、と思っていた。

「唇に二つのピアスの男が、麻薬を売買しているという情報がありまして」実際には狭い路地裏に消えていくあの男の姿を見たのだ。シゲに尋ねたら売人だ、と言う事だった。あの男に間違いはない。

「ふーん」池上は納得できない、とばかりに目を細めた。

 愁はその彼女の顔を見て苦笑した。

 だが、池上はそれ以上何も言わず、携帯で麻薬課の友人へ電話をかけた。

 水谷は小物だった様だ。麻薬課でも既にその存在は押さえていたが、名前や住所までは掴めていなかった様だった。只、この後ろにいるのが最近勢力を伸ばしつつある、新手の組織でうまくいけばそれを抑える事が出来るかもしれないと言う。友人はひどく喜んで借りができたわね、と笑った。

 池上は携帯をコートに戻し、愁をちらりと見てからエンジンをかけた。





                       *





 その少年はいかにもスポーツをしている、といった風貌だった。身長は愁と同じくらい、体格は華奢だったが、腕や足、肩には程良く筋力がついていた。

 彼は2人を見ると、爽やかな笑顔で言った。「こんばんは。母から聞いています」

「こんばんは」思わず池上も笑顔になった。

「こんばんは」愁は軽く会釈した。

 少年も慌てて会釈する。

「早速だけど、昨日何か変わった事とか、物音とか聞いていないかしら?」池上は出来るだけ穏やかな口調で言った。

 少年は少しだけ暗い表情になった。「下の階の人の事ですよね・・・。昨日の夜、殺されたって」彼の表情には悲しみと恐怖が入り混じっていた。

「えぇ、残念ながら・・・」

 彼は視線を落とした。「昨日の夜は早く眠ってしまったので、何も気が付いた事はありません」少年は2人の顔色を窺う。

 池上は優しげな微笑を浮かべた。「何か気が付いた事ある?」

「いいえ、あの、あの子どうなるんですか?」

「お子さんの事?」池上はそう言ってから、少しだけ戸惑った。別段事件の事に関わりがないのなら、教えても問題はないのだが。

「気になるんですか?」愁が優しげな微笑を浮かべる。

 少年は小さく頷いた。「あの子何時も泣いてて・・・。だから、えっと、あの子、お父さんと一緒にこのまま暮らすんですか?」

「え?」池上が思わず口を挟む。「泣いてて?」

「はい。うちの母が言うにはあのくらいの子はそんなもんだって言うんですけど。僕の部屋にいるとよく泣き声が聞こえてきて。それに・・・」自信なさげに、声がどんどん小さくなっていく。「お父さんとお母さんの怒鳴り声も」

 池上と愁はほんの少しだけ、視線を絡めた。「それは毎日?頻繁に?」

「はい、毎日です。たまにベランダとか玄関に放り出されてて」

「そう・・・」池上の表情が暗くなる。

「あの・・・」彼は不安そうな顔をして、2人を交互に見た。「母は子供を育てるのは大変なんだって。子供は良く泣くし、親は躾の為に怒鳴る事も多いって」

「えぇ、そうかもしれませんね」愁は安心させるかのように穏やかな口調で、微笑を浮かべたまま言う。「ですが、今はあなたの感じたままをお話して頂けませんか?お母様の話は横に置いておきましょう。それで、他にはどんな事がありましたか?」

 少年は頷いたものの、その目には明らかに戸惑いが見える。「あの、一番ひどいなって思ったのは・・・死ねって声が聞こえて・・・」

「その声はお父さんですか?お母さんですか?」

「お母さんの方です。その後、あの子の泣き声が・・・」その目が悲しみに歪んだ。子供という同じ立場での目線だ。“あの子”を自分に置き換えてみる。無論、2人は年齢も違うし、彼はもう3歳で怒られる様な事はしないだろう。だが、それでも共感する部分があるのだ。彼の母親が野口恵の怒鳴り声に共感していた様に、同じ立場で人は共感する。

「物音はどうですか?何か聞こえてきましたか?」

 少年は首を振った。「いいえ、怒鳴り声と泣き声だけです」

「そうですか。他にはどんな事を言っていましたか?」愁は淡々とした声で言った。

「“あっち行って”“あんたなんかいらない”とか」

「それは主に母親の方?それとも父親も?」池上は悲しげな目をして、悲しげな口調で言った。

「殆どはお母さんの方だと思います。でも時々お父さんも“うるせぇ、クソガキ”とかって」

 ほんの数秒、3人の間に沈黙が流れた。その数秒がひどく重い、ひどく長い。

「お子さんは実のお父さんに引き取られる様ですよ」愁はにこやかに微笑み、落ち着いた口調で言った。

「実の?」

「とても良い人そうだったわ。きっと大丈夫よ」池上は少年の肩をぽんぽん叩きながら、にっこりと笑う。

 少年は安心した様に笑った。

 愁は彼に携帯電話の番号入りの名刺を渡した。特に現夫が子供に言ったであろう、暴言を思い出したら電話する様にと。無論、事件に関する事も何か思い出したら、何時でも、と。

 2人は重い足取りでアパートを出て、車に戻った。

 愁がドアを閉めると、池上が口を開いた。「彼女は被害者でもあるけど、加害者でもある訳?」

「えぇ、そうらしいですね」

 池上は彼をちらっと見た。「ねぇ、野口の暴言なんて聞いてどうするの?暴言くらいじゃ警察は動かないわよ」

「そうなんですか?」

「えぇ、残念ですけどね。日本では精神的な虐待での逮捕者が出るなんて現時点では稀でしょうね。それどころかまだまだ虐待についての法律は甘いのよ。子供を大事にしない国に未来なんてないのに、この国の役人達は何をちんたらしているんだか」池上は吐き捨てるように言った。綺麗事じゃなく、痣だらけの子供の体を何度も見た池上は心底思う。

「そうですか。ですが、どちらにしろ安田さんには話しておかなければなりませんし」ひどく冷静な口調で、愁は眉ひとつ動かさないまま言った。

「えぇ、そうね」彼は知らなければいけない事が山積みね、と池上は思った。元妻が殺害され、その妻が息子を虐待。もしかすると現夫も。彼はどう受け取るだろうか。否、安田より息子の将来が心配だ。2人はうまくやっていけるだろうか。

「心配ですか?2人が」

 池上はハッと顔を上げ、愁を睨んだ。「私の心を読まないで」

「読んでいません」そんな芸当はありません、と心中で付け加えた。だいたい車のキーをそんなに強く握りしめていたら、殆どの刑事なら何を考えているのかくらい分かるだろう。その表情は暗く、悲しげで。

 ふんっと言ってから、池上は車のエンジンをかけた。





                     *





 PM8:05

 昼間留守だった近所の住人、友人の聞き込みを、ようやく2人は終えた。

「残りは明日ね。後一軒で今日は終わりにしましょ」缶コーヒーを一口飲んでから、池上は呟く様に言った。一体明日は何人の友人、知人に話を聞く事になるのだろうか。その中から重要な話を聞けるのは何人いるのだろう。浮気相手とは2人会えた。その2人が口を揃えて言う。『彼女は常にちやほやされていたい女』一方、虐待の話は出て来なかった。野口恵のいわゆるママ友は、彼女は子供を叩く事が多かったとは言うが、それが虐待とは結び付かなかった様だ。自分達も彼女程ではないが子供を叩く事がある。だからあの少年の母親の様に、母親の立場に共感している様だった。

 車のドアに寄り掛かり、何時間ぶりかの煙草を吸いながら、愁はふぅと煙を吐き出した。「えぇ」

 コンビニの味気ない食事。便利でそこそこ味も良い。なのに満たされない。同じ弁当でも、家で食べたいと思う。池上は溜め息を付いた。後一軒回ったら、家に帰って熱いお風呂にでも入ろう。

 携帯のバイブ音がして、2人は顔を見合わせる。

「私じゃないわよ」

 愁はコートのポケットから携帯を引っ張り出した。見慣れない番号。躊躇する事もなく、彼は電話に出た。「はい、浜野です」

 彼が話しているのを横目に、池上は車の中へと戻った。温かいコーヒーをちびちびと飲みながら、足首をグルグルと回す。骨の鳴る音が聞こえた。

 助手席のドアが開いて、愁が滑り込む様に乗り込んできた。彼はバタンッとドアを閉めると、シートベルトに手をかけた。「内田さんの電話番号知っていますか?」

「えぇ、知ってるわ。でも、何で?」

「安田さんから電話がありました。子供の体に無数の痣があるそうです」

「なっ・・・」池上の顔が悲しみに歪む。

「私は井上さんに電話を、池上さんは内田さんにお願いします」

 池上は小さく頷くと、携帯を取り出した。

 30分後、4人は安田の宿泊しているビジネスホテルで落ち合った。安田はとても悲痛な顔をしていて、今にも泣きだしそうだった。

 子供は既に眠っていた。セミダブルベットの中央に寝かされている。その眠っている表情は、とても愛らしかった。

「すいません。起こした方が良いでしょうか?」

「いいえ。診るだけなので、このままで大丈夫ですよ」内田は淡々とした口調で言った。

「写真撮らせて下さいね。それからあのパジャマって昨日着てたやつ、なんて事はないですよね?」井上がキッドの中からカメラを取り出す。

「いいえ、そこのスーパーで今日買いました。何も子供のものはなかったので」安田は狭い部屋の端に置いてある、スーパーのロゴ入りの大きな紙袋を差した。

 井上はその紙袋を見て、小さく頷き、内田の後ろに立った。

 内田はかけられていた布団を剥がし、子供を起こさない様に慎重にパジャマのボタンを外していく。肌着を捲りあげると、内田は舌打ちした。「事件とは関係ない。この痣は数カ月および数日経っている痣だ。どういう事だ?」

 3人の視線が池上と愁に向いた。

「これは殴られたりした痣なの?」池上が怒気を含んだ声で言った。

「あぁ。腕には強く掴まれた様な跡もある」子供の腕や背中を診ながら、内田はハッと顔を上げる。「虐待か?てっきり事件絡みかと思っていたが・・・」

「ぎゃくたい・・・?」安田は大きく目を見開いて、内田を見つめた。

 内田は子供を井上に任せ、安田の傍に歩み寄る。「おそらく間違いはないと思います。痣は1、2カ月前のもの、1、2週間前のものがあります。3歳くらいであればよく転びますし、痣も多いかもしれませんが、普通の生活をしていれば上半身に何個もの痣は出来ないでしょう。それに殴られたり、抓られたりといった様な痣なので」

「あぁ・・・」安田は小さく呻き、涙を流した。

 その涙は後悔の涙だ、と池上と愁は思った。自分が離婚をする時に、親権を取れなかった事に対する涙。

 安田は年に数回子供と会っていたが、虐待については全く気が付かなかった様だ。尤も会ったとしても泊まった訳でもなく、公園や動物園に2人で出かけただけ。服を着ている状態では気が付く事は難しいだろうと思われる。

 子供は彼にとてもよく懐いていて―野口恵と翔が虐待をしているのなら当然だが―、警察が許すのであれば明日にでも連れて帰りたいと安田は言った。落ち着いた場所で、早く普通の生活を送らせてあげたいと。

 池上は201号室の少年が聞いた、暴言の内容も伝えた。安田は涙を流しながら、小さく頷いていた。

「あの、彼を捕まえられますか?」

「えぇ。彼自身が暴力行為をしていたかどうかは分かりませんが、止めなかった責任があるので。ですが・・・」

 安田は弱々しく頷いた。「分かっています。大した罪にはならないのでしょう?でも、僕は息子を傷つけた恵も野口も許せない」

 私も許せない、許せるものですか、と池上は思った。

 井上はシャッターを切りながら、隣にいる愁に囁いた。「ねぇ、愁の相棒、火傷しそうな程燃えているわよ」

「知っています」愁はにっこりと微笑む。「今日は帰れそうにありませんね」

「あら、カワイソ」井上は呟く様に言った。全ての痣の写真を撮り終え、彼女はサイドテーブルにカメラを置いた。ベット脇に跪き、子供の肌着を着せていく。そっと、慎重に。指先に触れる、子供の肌はとても柔らかく、温かかった。このまま触れていたい、と井上は思った。ほのかに香る石鹸の匂い、それに混じって汗の匂いもする。井上はそっと痣に触れ、どうぞこの子がこれからの人生を幸せに生きていけます様に、と祈った。


 内田と井上が帰った後、2人は同じビジネスホテル内に居る、野口翔の部屋へと向かった。階下へと降りるエレベーターの中には、他に誰もいなかった。

「ねぇ、さっき安田さんに何渡していたの?」池上は目的の階のボタンを押した。ゆっくりとドアが閉まる。

「友人の名刺です」

「友人って?」

「大学時代の友人が2年ほど前から日本で暮らしているんですよ。一種の転勤みたいな形なんですが」

「ふーん、それで?」

 愁はにこやかな笑みを浮かべた。「彼は犯罪心理学を学ぶ事に嫌気が差して、犯罪を起こさせない様、子供の心理学へと転向しました。そこで気が付いたそうです。子供を変えようとするのではなく、まずは大人が変わろうと。そして親の為のワークショップを開いている団体に所属し、2年前日本へ派遣されました。彼なら子供の心理にも長けていますから、きっと2人の力になってくれると思います」






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