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Episode2 -1-

 ―水曜日―


 窓枠に頬杖を付いて、愁はぼんやりと空を見上げた。空は12月に入ったというのに、抜ける程青い。今日はコートを脱いでもいても寒さを感じない程暖かかった。頬に当たる太陽の光が心地よく、自分が今居る場所を忘れそうになる。全て忘れて帰りたくなる。

 空と海との境界線が判らなくなるほど、青く美しい海。打ち寄せる波の音。潮の香り。海水浴客が落として行くゴミが散乱する浜辺。思い思いの水着を着て、日光浴をしている若い女性達。その女性に声をかける男達。通りに佇む、派手な服を着た女性。何処からか聞こえる怒鳴り声。悲しみと喜びを背負った子供の笑い声。十字の付いた、古い建物。太陽の光を浴びて、この世のものとは思えない程の美しさを放つステンドグラス。

 愁はワイシャツの上から、無意識に首にかけたロザリオに触れた。

「早いな」

 随分と聞きなれてきた声に、愁は振り返り、微笑んだ。「おはようございます」

「おはよう。珍しいな、こっちにいるなんて」吉沢はそう言うと、スーツのポケットから煙草を取り出した。彼の後ろで、ドアがゆっくりと閉まって行く。彼はふぅと軽く溜め息を付いて、煙草を咥えた。

「あの部屋の窓は小さいので」愁はにっこりと微笑んで見せる。「今日は良い天気ですから」

 煙草に火を点け、吉沢は窓の外へ視線を向けた。「そうだな。こんな天気の日ならここにいるのは本意じゃないな」

 吉沢に釣られたかの様に、愁も煙草に火を点けた。ほんの少し風が吹いて、愁の前髪と白い煙を揺らした。

「だが、残念な事に仕事は毎日ある訳だ」吉沢は小さな紙をスーツのポケットから取り出し、愁に差し出した。「三係が多忙で回ってきた」

 差し出された紙を受け取り、愁はそれにちらっとだけ視線を落とし、ポケットの中へ押し込んだ。「了解」

「それで、だ」大きな灰皿に灰を落とし、吉沢は愁をじっと見つめた。「何と再び人事異動だ」

「総監命令ですか?」愁は淡々とした口調で言った。冷子が関わっているとしたら―関わっていない理由が見付からない―、それは間違いなく自分が絡む。

 吉沢はにっこりと微笑んだ。「そうだな。それもあるだろう。でも、今回の事を一番望んでいるのは山下さんだ」

「山下さん?」

 彼は松本淳を逮捕する時に負傷し、全治一ヶ月と診断された。今はまだ自宅療養中だった。来週辺りからデスクワークに復帰する予定だと言われている。完治すれば職場復帰、愁はそう聞いていた。

「あぁ、今回は彼が言い出しっぺだな」煙を吐き出し、吉沢は煙草の先に視線を落とした。だが、直ぐに愁に視線を戻す。「池上を頼む、山下さんからの伝言だ」

 愁は眉をひそめた。「どういう意味です?」

 吉沢は深い溜め息を付いた。「正直、俺には今回の事がよく解らない。人事の事に関してだけ言えば、浜野と池上が新しいコンビを組む事になった」

 それは愁にも想像が容易に付いた。今の話の流れからすれば、けして読めない話ではない。

「上と山下さんの間でどういう話がされたのか、俺は知らされていないんだ。だが、山下さんは以前からデスクワークの方に異動したがっているという話があってな」

「デスクワークに?」

「あぁ、随分前に腰を強打してから、年と共にひどくなってきたらしくって。これは悪魔で俺の推測だが、池上は多少暴走するところがあって、山下さんはそれを止めてくれる自分の後釜が現れたらそうしようと決めていたんじゃないのかと思う」吉沢が太い指で灰を振り落とすと、灰皿の中で火の粉がジュッと音を立て、煙を上げた。「どう思う?」

 何をです?心中で問う。「池上さんは嫌がるでしょうね」

 吉沢はくくっと笑った。「田中からは文句が出そうだな。喜ぶのは桜井だけ、かな」


 田中は文句を言い、桜井は喜んだ。

 池上は小さく頷いただけだった。その様子から、彼女が山下から事前に話しを聞いていた事が、愁にも吉沢にも解った。池上のその目は、ほんの少し哀しげだった。

「解散」

 愁はあらかじめ部屋から持ってきていたコートに袖を通した。スーツのポケットから喫煙スペースで吉沢から受け取った紙を出し、デスク越しに池上の前へ滑らせる。「どちらが運転しますか?」

「私よ」紙を掴んで、池上は立ち上がった。デスクの上に倒れているハンドバックを引っつかみ、歩き出す。

 愁はニッと笑い、彼女の後を追う。

 出入り口近くにあるコートハンガーから自分の黒いコートを掴み、池上は何も言わず部屋を出て行く。

「大丈夫かな・・・」

 愁の耳に桜井の呟く声が聞こえた。

「運転はずっと私」池上はヒールの音を響かせながら、至極冷静な口調で言った。

「何故です?」

「だってあんた右側走りそうなんだもの」

 思わずくくっと愁は笑う。「私を何だと思っているんです?」

「分かんない。とにかく、私。それから車は禁煙」

「了解」

 階段を軽やかに降りながら、池上は紙に視線を落とした。吉沢の難解な文字を難無く読んだが、池上は眉をひそめた。「何なの、これ?」

「三係が多忙で回ってきたそうですよ」

 肩越しにちらりと振り返り、池上はぐっと眉を上げた。「明細は?聞いてない訳?」

「そう言えば聞いていませんでしたね。まぁ、行けば分かる事ですから」愁は穏やかな口調で言う。

 紙には住所と強盗殺人?被害者一名の文字しかなかった。池上は眉を寄せ、腹立ち紛れにヒールのかかとに体重をかけて着地した。階段にカツンッと音が響く。

 愁は彼女に気が付かれない様に、小さく笑った。

 15分後、2人は紙に書かれた住所に着いた。道路にはパトカーが停まり、通行を規制する為に制服警官2人が立っていたが、野次馬は少なかった。最も平日の朝早くでは、仕事や学校で例え惹き付けられても留まる事は難しいだろう。だが、マスコミらしき人間もまだ見えなかった。

 池上は白いセダンの後ろに車を停めた。「林さんの車だ」サイドブレーキを引きながら、呟く。彼女は愁の答えも相槌も待たず、キーを抜くと、車を降りた。

 林さんとはどなたでしょう?と独りごち、愁も車を降りた。ドアを閉めると、ガチャンッとロックが掛かった。

 住宅街、まだ比較的新しいと言える、レンガ作りのアパート。アパートは101、102、201、202の4つしかなく、真ん中に階段がある。同じ作りのアパートが敷地の中に、もう一棟建っていた。

 アパートの階段の前にパトカーが1台停まっていた。パトカーの後部座席のドアは開け放たれていて、その横には若い制服警官が立っていた。彼は目の前の状況を、表情のない顔で見つめていた。その変化を見逃さない様に。

 パトカーの中には、20代前半くらいの茶髪の男性が座っていた。彼の腕の中には3歳くらいの男の子が無邪気に笑っている。パトカーの内部をキョロキョロと見ながら。男性は声を押し殺して泣いていた。

 その2人を見た時、愁はその光景に違和感を覚えた。普通に考えれば2人は親子。だが・・・。

「あの2人似てない」小さな声で池上がそれを口にする。

「えぇ」

 似ていない親子等五万といる、そんな事は2人にも分かっていた。だが、2人は余りにも違い、余りにも2人でいる事が不自然だった。抽象画の画家と具象画の画家が同じキャンパスに描いた絵のごとく。無論、今のこの時代、再婚家庭は珍しいものではなく、この2人はその可能性が高いと言える。

「何か、変・・・」愁を見て、池上が小さく顎で2人を指す。誰にも気が付かれない様に。

「えぇ」愁も小さく頷いた。「私もそう思います」

 だが、その何かが池上にも愁にも分からなかった。感じた違和感の意味が。

 101号室。ドアの横に、キャラクターが描かれている三輪車が置いてあった。そのカゴの中には、小さなバケツとコップ。三輪車の下には、錆ついたビニール傘が放置されていた。

 玄関前で池上と愁は手袋をはめた。ドアやポスト周り、インターホン等、指紋採取用の粉が付着していた。

 池上がドアノブに手を伸ばすと、ドアがゆっくりと開いた。中からスーツ姿の若い男が顔を出し、ふぅと息を付いた。彼の顔色は真っ青だった。それでも、2人を見ると、かろうじて笑顔に見える表情になった。「おはようございます、池上さん、浜野さん」

 池上はクスクスと笑った。「まだ慣れないの?顔、真っ青よ」

「駄目です」男は弱々しく首を振る。彼はそう言いながらも、ドアを大きく開け、2人に道を譲った。「吐くなら外で吐けって井上さんが・・・。少し外の空気を吸ってきます」

 池上は中へと入り、小さな声で言った。「お大事に」

 愁がドアを押さえると、男はフラフラと外へ出て行った。彼の背中を見送りながら、愁は名前を思い出そうと頭を捻った。彼が何時ぞや冷子に言われた『新入り』であり、『吐いていた若い男』であることは思い出せたのだが。

「彼は山田祥平、中にいるちょい悪オヤジ風なのが林正雄さん」池上が振り返り、刺々しい口調で言った。「2人共一係の人間よ」

 愁は池上に視線を移し、穏やかな微笑を浮かべる。「そうですか」

「せめて一係の人間くらい覚えたらどう?マッドが言ってたわよ。事件や犯罪者の名前、プロフィールなんかはばっちり覚えるけど、周りの人間の事は余り覚えないって」彼女はそう言って、心底呆れた表情を浮かべた。「どんな脳みそしてんの?」

 愁は苦笑してみせる。「さぁ・・・」

「まさか、とは思うけど私の名前、分かる?」

 彼女のその表情から、その質問が嫌味ではなく本気だと言う事が愁にも分かった。彼は小さく頷く。「無論、知っています」

「そう?なら良いけど」池上はそう言うと、愁に背を向け、現場へと足を踏み入れた。

 愁も池上の後を追って、部屋の中へと入った。彼の後ろで、ドアがゆっくりと閉まった。

 2DKのアパート。外観と同じで中も作りが可愛らしい。若い女性が好みそうな雰囲気だった。至る所に飾り棚があり、レンガが所々壁にセンス良く埋め込まれていた。飾り棚には何も置かれておらず、玄関は女性物のブーツやヒールのある靴が散乱していた。子供用の靴と男物の靴は一足ずつ。バスルーム、トイレ、ベットルーム、キッチンへと続くドアは全て開け放たれている。全ての部屋に繋がるのが玄関の様だ。

 池上と愁はまずダイニングキッチンの中へと入って行った。物が雑然と置かれている。家具類は少なく、冷蔵庫、ゴミ箱、小さな食器棚とレンジ台が置いてある。だが、荒らされた様な跡はない。

 ダイニングキッチンともう一部屋を仕切る襖は取り外されていた。もう一部屋の方はリビングとして使用しているらしく、テレビとこたつ、パソコン台、カラーボックス、キャラクター入りの衣装ケースが置いてある。南側の窓の側にテレビがあり、その正面にソファーが壁を背に置いてあり、被害者はそこで息絶えていた。

「おはよう」紺色のジャンプスーツを着た、赤い髪の若い女が満面の笑みを浮かべた。

「おはよう。林さんは?」

「ベットルームよ」

「そう」池上はそう言いながら、彼女の横を通り過ぎた。

「おはよう、愁」

「おはようございます、井上さん」

 井上彩乃はにっこりと微笑んだ。27歳、独身。とても小柄だが、彼女は遠くにいてもその存在がすぐに分かる。その真っ赤な髪の毛もそうだが、全てが派手だからだ。両耳に計7個のピアス。仕事中は邪魔にならない様なものにしているが、それでもカラフルな7個のピアスは目立つ。ジャンプスーツの中のTシャツは虹色、短く切った爪も虹色。その上、飛ぶ様に歩くから、加藤とマッドが付けたあだ名は“レインボーラビット”。

 井上は証拠袋に入った免許書を2人に差し出す。「被害者ね」

「ありがとう」池上が受け取り、読み上げる。「野口恵。えっと、23歳ね」

 愁は遺体の側へしゃがみ込んだ。遺体はソファーに座った状態のままで、頭だけがガックリと後ろに倒れていた。金に近い茶色の長い髪の毛が、顔や肩、ソファーに広がっている。両手は身体の脇に投げ出されていた。細く長い爪には、バラの花が立体的に描かれている。デニムのホットパンツ、チェック柄の入った黒いタイツ、襟ぐりの大きく開いた黒いラメ入りのセーター。キラキラと光る十字のネックレス、揃いのピアス、左手にはシルバーの指輪が二つ。アイラインで黒く縁取られた目は半分開き、虚空を見つめている。テカテカと光るグロスを塗った口も半開きのままだ。デニムのホットパンツとソファーには黄色い染みが出て来ていた。

 首には絞殺痕が残っていた。その痕から、手ではなく、紐などを使用した事が判る。細く、強い紐。ロープ等ではない。絞殺痕の他には、爪で引っ掻かれた傷があった。上から下に、彼女が空気を求めて付けた傷だ。

「化粧、これでも薄いんだって」

「誰がそんな事を?」

「外にいる、2番目の旦那さん」井上は外を親指で指す。「因みに、大体気が付いているだろうけど、あの子供は彼女の連れ子ね。前の旦那は彼女の実家の親が一緒に連れて来てくれるらしいよ。でも他県に住んでいるから来るのは時間が掛かるだろうけど」井上はひらひらと手を振りながら、片手でカメラを構えた。

「そう」池上は免許の写真と遺体を比べた。確かに化粧は少し薄いのかもしれない、と池上は思った。免許の方の写真はつけまつげをしていたし、唇が更にテカテカしていて、顔中もキラキラしていた。「第一発見者は旦那さん?」

「そうよ」遺体を色々な角度からパシャパシャと撮りながら、井上が答える。「ヤダ、なぁーんにも聞かないで来た訳?」

「えぇ、新しい相棒がそういう主義なの」池上は井上の邪魔にならない程度に、遺体に近付く。

 ふふん、と井上は笑った。「そんくらいで文句言ってる様じゃ先行き不安ね。まぁ、今の一係の面子の中じゃ2人はベストだと思うけど」

 そうかしら、と池上は喉まで出掛った言葉を呑み込んだ。山下も何度も同じ事を自分に言った。彼の腰の事は間近に見て来たから、十分過ぎる程理解していた。もう、彼の身体は限界だった。だから山下がデスクワークに異動したい、と打ち明けてきた時、ついにこの日が来たのだと思った。その事は淋しいが仕方がない。だが、山下は仕切りに浜野愁と組め、と勧めてきた。寄りにもよって何でアイツなのだ。何がベストなのだ。池上にはその理由が今ひとつ理解出来なかった。

「旦那は野口翔、25歳。印刷工場で働いていて、昨日は夜勤だったそうよ。朝の7時過ぎ、仕事から帰って来たら妻は遺体。子供はベットルームで寝ていたんだって。物はざっと見たところ盗られていないそうだし、玄関も鍵が掛っていたそうよ」

「窓はどうでしょう?全て内側から鍵が掛っていましたか?」愁は立ち上がると、ぐるりと部屋を見回した。

「バスルームもトイレでさえも、ね。玄関にはピッキングの跡もないから、合い鍵を持っていたか、彼女に開けてもらって合い鍵を持っていちゃった、かね」井上はカメラを自分の鑑識キッドの上に置くと、遺体を凝視した。「または旦那の勘違いか嘘」

「死亡推定時間は?」

「昨日のPM12:00~2:00。その時間にこのメイク?」

 池上はその問いに対する答えを、頭の中で探す。「これから落とすつもりだったのかも」

「子供と一緒にお風呂に入って?12時に?3歳じゃ1人で入るには危険過ぎるわ。昨日は旦那も仕事だったし。だとしたら考えられる理由は三つ。子供を何等かの事情でお風呂に入れていない。子供と一緒に入ったがもう一度化粧をし直した。風呂に入ったがそもそも落としていない。何にせよ、深夜にこのメイクは変よ」

「女が化粧をするのは他人と会う時」池上がぼそっと呟いた。

「誰の言葉?」井上はちらっと彼女を見た。

「母よ」池上は井上に免許書を差し出した。「このメイクが普段より薄いのであれば、突然の来客があったのかもしれないわ。時間がなくて何時ものメイクが出来なかった」

「ふーん、私ならすっぴんでも出ちゃうけどなぁ」井上は免許書をキッドの中に入れた。

 そりゃ、あなたならそうでしょうとも、と池上は心中で独りごちた。

 部屋の中をじっくりと見て回りながら、愁は2人の会話を聞いていた。ノートパソコン、固定電話、携帯電話はまとめて高い場所に置いてあった。パソコン台の本来であればプリンターを置く場所に。パソコン台の横にはキャラクター入りの衣装ケース、中には幼児の玩具が詰まっている。その隣には白いカラーボックス。ボックス内は三つで、その全てカゴが入っていた。

 愁は一番上のカゴを引いた。中は雑然としていて、色々な物が入っている。通帳、ハンドクリーム、子供の小さな玩具、ヘアスプレー、ペン、メモ帳、ライター、ハーレクインの本が三冊。一番上のカゴを戻し、今度は2番目のカゴを引く。「彼女は働いていた様ですね」

 遺体から愁へと視線を移し、池上は軽く息を付いた。「何処で?」

「カラオケBOXと書いてあります。不特定多数の人が出入りする場所ですね」愁は人差し指と親指で、慎重に端を摘み、カゴの中から給与明細を引っ張り出した。

「まぁ、とりあえず不特定多数より旦那からにしたら?」井上はニッと笑う。

「そうね」

 愁は肩をすくめた。『第一発見者を疑え』は確かに鉄則だ。それに配偶者も、だ。だが、この事件の場合まず疑う必要はないだろう、と愁は考えていた。何より彼の涙は不自然さを感じなかった。そして仕事をしていたとすれば直ぐに裏が取れる。こういう場合、嘘を付くのなら遊びに行っていた等の方が無難だ。勿論、仕事を抜け出し、殺害、また仕事に戻る事は、距離や業務内容によっては可能な事なのかもしれないが。

 10分後、林と山田は被害者の夫と子供と、警視庁へと戻って行った。それから更に10分後、遺体が内田の所へ運ばれて行った。

「で、どう思う?」カメラを首からぶら下げて、井上は愁を見上げた。その目は爛々と輝いていて、好奇心に満ち溢れている。

「どう、とは?」

 井上が愁の足を思いっきり踏みつけた。

「井上さん、痛いです・・・」

「で?」

「犯人は男です」

 井上の眉がぐっと上がった。「あ~ら、素敵。人口の半分が減ったわね」

「じゃぁ、もう少し減らしましょう。犯人は日本人です」愁は穏やかな口調で言う。

 池上がクスクスと笑い出した。

「さて、後は内田さんの解剖と井上さんの腕にかかっています」

「どーいう意味よ?」彼女はきょとんとした表情を向ける。

 愁はにっこりと微笑み、パソコン台を指差した。「携帯、パソコン、固定電話が子供の手の届かない場所に置いてあります。他のライター等の危険と思われる物は割と無造作に置いてあるところからみて、被害者の野口恵さんにとって余ほど大切だったのだと思われます。特に消されているアドレスやメールなどは必ず復元して下さいね。井上さんならお手の物でしょう?」

「オーケー、愁がそういうって事は消されているモノがあるって事よね」

 愁は答えの変わりに曖昧に微笑んだだけだった。


 冷たい風が吹いて、池上はコートの襟を寄せた。朝出掛ける間際に見た天気予報は、『9月並みの暖かさ』と若い男性の予報士が満面の笑みを浮かべて言っていた。朝は確かに良い天気だったのだが、たった4時間で9月から12月になった様な寒さだ。天気予報士を信用して、タイツではなくストッキングを、セーターではなく薄手のインナーにしたのが間違いだった。もう絶対にあのイケメン予報士は信用しない、池上はそう誓った。

「要りますか?」

 ぶるっと身を振るわせて、池上は振り向いた。「何を?」

 愁は使い捨てカイロを彼女に差し出した。

「ありがとう」

「ネットの予報では夕方から冷え込むって書いてあったんですけどね。もう十分寒いですね」

 池上は破った袋をコートの中に突っ込み、カイロを軽く振った。「やだ、私が見たのは一日良い天気だったのに」冷え切った指先に、ほんのり温かくなってきたカイロが心地よかった。「ねぇ、この事件、本当はどう思っているの?」

 何処の国の刑事もせっかちだ、と愁は思った。プロファイルをするにはもう少し情報が必要だ。例えば被害者はレイプされているのか、殴ったり蹴飛ばされたりしているのか、抵抗した跡があるのか、犯人は指紋を至る所に残しているのか、情報は多ければ多い程良い。「池上さんはどう感じましたか?」

「嫌な感じがした」池上はぼそっと呟いた。立ち止まり、ごく普通のアパートを見つめる。「前に何度か殺しを生業としている人間が関わったと思われる現場を見た事があるの。その時に似ている気がする。何て言うのか、無駄がなくて」

「そういう人間が関わっていると思いますか?」

 池上は弱々しく首を振った。「いいえ。でも怨恨ではないと思う」階段に吊り下げられているブルーシートが、ごく普通だったアパートに異変があった事を伝えていた。彼女はその異変に終止符を打つ為に、ここに居る。「相棒でしょ?勘でもなんでも良いから言いなさいよ」池上は睨む様なまなざしで、愁を見上げた。

 愁は溜め息を呑み込んだ。「同感です。犯人は彼女を憎んでいた、と言うよりは殺害する事を楽しんでいたのだと思います。彼女は恐怖に慄きながら殺害されたのだと思います」

「えぇ、失禁してしまう程ね。犯人は脅したのかしら?」

「あるいはニヤニヤと笑いながら首を締めたのかもしれません」美しい女が死んでいく時の表情にひどく性的な興奮を感じる、と言ったのは昔観た映画の中の台詞だったのか、それとも実際にこの耳で聞いた事だったのか、今の愁には思い出せなかった。






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