Episode1 -1-
*この作品に出てくるプロファイル、科学捜査、警視庁、法律はリサーチ不足が否めません。
その辺をふまえた上で、ご覧頂ける方は宜しくお願いします。
―月曜日―
愁が現場に着いた時には、アパートの周囲は黄色のテープが張りめぐらされていた。アパートの敷地の奥では、スーツ姿の若い男が真っ青な顔で吐いていた。彼は肩で息をしながら、悪態を付いている。
『新入りが入ったわ。余裕があるなら相手してやって』出る間際、藤沢冷子に言われた言葉をぼんやりと思い出す。
余裕なし、独りごちて、愁は階段を軽やかに上がり始めた。錆ついた階段は上がる毎、崩れ落ちていきそうな音を立てる。
2階から周囲を見渡せば、遠くに知った顔が2人程見えた。
黄色のテープの周りには、携帯電話のカメラのフラッシュをたく即席のマスコミと、二組程の本物のマスコミの姿が見える。何処の国でも黄色のテープ、ブルーシート、パトカーのサイレンは人を惹きつけてやまない。それを証拠付ける様に、路地から出て来た若いカップルが吸い寄せられる様に野次馬の後ろに加わった。
カップルが制服警官に話しかけるのを見届けてから、愁は再び歩き出した。2階に部屋は五つ。一番奥、ブルーシートが屋根から吊るされ、ドアや窓を全て覆い隠している。
彼はスーツのポケットから、個別密封されたラテックス製の手袋を取り出した。袋を破り、ポケットの中に押し込み、愁は歩きながら手袋をはめた。
ブルーシートの前には、何度か顔を合わせた事のある制服警官が立っていた。彼は綺麗とも言える敬礼をすると、さっとブルーシートを開けた。「どうぞ」
「ありがとうございます」愁は呟くように言うと、少し腰を屈めブルーシートの中に入った。途端、むっとする程の匂いが、鼻を付く。
「よぉ」開け放った玄関ドアの前の何かにカメラを向けていた加藤が、顔だけを向けた。「連中ならもう行っちまったよ」
「彼らに用はありませんので大丈夫です」穏やかな声で答え、加藤が見ていた物に視線を落とした。「血痕ですか?」
「あぁ、だが古いやつだな」持っていたカメラを下げ、紺色のジャンプスーツの尻ポケットから5と書かれた札を、染みと化した血痕の横に置く。加藤は「よいこらしょ」と呟き立ち上がると、まじまじと愁を見つめた。「あー、何だ、オタク何か変わったなぁ。あぁ、メガネ、どうしたんだ?」
「ここが日本である事に昨日、気が付いたんです」さも当然の様に愁は言う。
「はぁ?」怪訝そうな顔を隠す事もなく、加藤が言った。その顔には、はっきりとこう書かれている。“オタク、アホか”「そりゃ、どういう意味だ?」
加藤 信介、58歳。この定年間近の鑑識の男は、今や目を爛々と輝かせていた。興味を持ったら地獄の果てまで、喰らい付いたら死んでも離さない男、一番腕が立つのに出世を悉く断る変人。彼を揶揄する言葉を上げたらきりがない程だ。鑑識の名物男。
自分より10センチは低い加藤を見つめながら、愁はこの小柄な男の底知れぬ魅力に惹きつけられていた。友人から聞く彼の武勇伝も、時折藤沢が口にする賞賛の言葉も、それを後押しする。
「元々、視力は良い方なんですが、日本人と言うと眼鏡と言うイメージがあるらしく、ダテでかける様になったんですよ」
「へぇー、そりゃ、災難だなぁ。老眼でいずれ嫌でもかけなきゃならんってのになぁ」加藤は自分の胸ポケットに差し込んである老眼鏡をポンポンと叩きながらも、まだじっと愁の顔を見つめている。
鑑識で一番優秀な男。
「あー、なんだ、オタク、カラーコンタクト一つ入れたのか?外したのか?前は両方黒かったよな?」
「これが生まれつきですよ」愁はにこやかな笑みを浮かべる。この質問を最後にされたのは、何年も前だ。生まれつき左目が茶色の為、右目と同じ色のカラーコンタクトをしている。幼い頃はコンプレックス以外の何物でもなかった、目。只、友人の様に青、緑という色ではない為か、なかなか気付く者はいない。丸2年、気が付かなかった友人もいるくらいだった。今日、眼鏡を外したのに気が付いた人間は大勢居る。だが、カラーコンタクトを外したのに気が付いたのは三人目。藤沢冷子と田中護、加藤。只、加藤以外の2人は毎日の様に顔を合わせている。だが、加藤と会うのは今日で二度目。一度目は簡単な挨拶をして、それから数時間現場に居ただけ。
「因みに髪の毛も染めていますよ。元は赤毛なので」
加藤はその言葉にニッと笑う。「イメージねぇ」足元に置いてある自分の捜査キットから、靴カバーを取り出して、愁に差し出した。
「話の糸口にさえなればそれで良いんです」渡された靴カバーを嵌めながら、愁は答えた。
“食えない野郎だな”加藤は心の中で呟き、彼を通す為一歩後ろに下がった。
「ありがとうございます」愁はにっこりと笑い、血痕を踏まない様に玄関へと入った。
玄関は狭く、靴が散乱していた。加藤がシャッターを切る音が後ろから聞こえる。僅か80センチ四方の玄関を跨ぎ、愁はキッチンとダイニングに足を踏み入れた。
愁はざっと目を走らせた。右側に4畳程のキッチンがある。カップラーメンの器、皿、コーヒーカップが流しに溢れ返っていた。何十年も貼り変えていないであろうフローリングには、空き缶や半分だけ入った焼酎の瓶、スーパーのロゴの入ったビニール袋に入ったままの6缶パックのビール、ジュースのペットボトルが転がっていた。
左側には開け放れたままのドアから、ユニットバスが見えた。
玄関から正面、桜の描かれた曇りガラスの入った引き戸が半分だけ開いていた。愁は引き戸に触れない様に、部屋へと入った。
8畳程の部屋。加藤と同じジャンプスーツを着た20代後半くらいの男が、ベランダへと続く窓の指紋を取っていた。彼は愛想良く笑った。「お疲れ様です。遺体、御覧になりますか?」
「えぇ」愁はそう言うと、部屋を一瞥する。入って左奥にオーディオ類、中央にコタツ、右側にはシートで覆われたベット。黄ばんだ壁紙には血痕。それは下から上へ、放射状に広がっていた。
「かなりひどいですよ。大丈夫ですか?」若い鑑識が再び口を開く。
「えぇ、大丈夫です」血痕を見ながら、愁は上の空で答える。
「愚問だな」同時に後ろから加藤が答えた。「さっきのヒヨっこじゃあるめーし」くくっと意地悪く笑う。
その言葉に彼は気まずそうに微笑んだ。「そうですね、すいませんでした」
「いいえ」愁はにっこりと微笑んで見せた。
若い鑑識がシートを捲りあげた。20代前半くらいの、若い男性の上半身がその姿を表す。
茶髪、ベビーフェイス、華奢な体躯。彼の周りは自らの血で真っ赤に染め上げられている。薄い布団が彼の血を吸収し、そこから溢れ出した血がベットの下に血溜まりを作っていた。むっとする、血の匂い。
彼の細く長い指には、シルバーの指輪が二つ嵌められていた。身体にぴったりとしたグレーのカットソーは、胸の下まで捲りあげられている。白い肌の腹は真一文字に切り裂かれていた。他に切り裂かれただけの様な傷が二つ。素人目にも判る致命傷となった深い傷からは、ヌラヌラと光る白く長い臓器が引っ張り出されていた。臓器に切り取られた様な形跡はない。只、外へ引っ張り出されただけの様だった。
「腸・・・」愁が呟く様に言った。
「えぇ、小腸です」若い鑑識が答えた。
愁は下半身を覆っていたシートを捲った。ジーンズを履いていたが、血でどす黒く変色している。「ジーンズは脱がせましたか?」
「そいつは俺達の仕事じゃねぇよ」何時の間にか愁の横に立っていた加藤が答える。「そんな事したらスケコマシに怒られちまう。だろう?」
その問いには答えず、愁はもう一度じっくりと、頭からつま先まで見つめた。
カメラを肩からぶら下げたまま、加藤は腕を組み、愁の言葉を待っていた。だが、彼は口には出さなかった。その代わりに声に出さず、唇だけを動かした。『似てる・・・』と。加藤の目が光る。「そう思うよな」
「えぇ、思います」今度は口に出す。「半年前、世田谷、20歳、ベビーフェイス、華奢な体躯、小腸が引っ張り出され、部屋は血の海」感情を込めずに、つらつらと並べる。
「後はレイプ痕だけだ」
「連続って事ですか?」若い鑑識が驚いた様に言った。
「断言は出来ねぇが、こいつは三件目かもしれん」
愁の眉がぐっと上がった。
「お?知らなかったのか?」加藤はぶっきらぼうに言う。「連続とは位置付けちゃいねぇが、1年くらい前に大阪で同じ様な容姿の被害者と同じ様な手口の事件が一件ある。警察は“関連は調べている”としてるが、実際のところ証拠付ける様なもんが見つかってねぇんだ」
「そうですか」
「オタク、日本中のお蔵入り事件をひっくり返してるんじゃねぇのか?」
「いいえ」シートを被害者にかけ直しながら、愁は穏やかな口調で言った。「今の所は東京、神奈川、埼玉、千葉だけです」
「広げた方が良さそうだな」
「えぇ、そうかもしれません」そんな事が可能であるのなら、と愁は思う。日本の検挙率の良さは知っているが、それでも未解決事件は多い。1都3県でもかなりの量があった。
加藤はまだ腕を組んだまま、シートで覆われている被害者を見つめていた。ふと、沈黙を破るように再び口を開く。「大阪の事件は小腸が引っ張り出されてはいない。凶器はサバイバルナイフだったが、突き刺した傷だ。世田谷と今回とは違う」
「模倣犯ですか?」加藤と愁を交互に見ながら問う。
「それも有り得ない話ではないですね」愁はこの場には不釣合いな程の、穏やかな笑みを浮かべた。「犯行をより残忍に、と変化させているとも考えられます。連続殺人事件の犯人は犯行を繰り返すうちに手口を変化させる、これはよく知られている事でもあります。どちらの可能性も現段階では否定出来ませんね」
若い鑑識が頷く。加藤は視線だけを愁に向け、口を開かなかった。
「三つの事件の証拠を洗いなおす必要があるかもしれません。私は大阪の事件の資料を取り寄せてみます」
「そうですね・・・」ちらりと被害者を見た。
「こいつあ、マッドと俺がやる」加藤が怒気を含んだ声で言った。その目も声と同じ様に、怒りに燃えている。「おめぇは今すぐマッドと現場を変えろ」
加藤のその目に、若い鑑識は小さく頷いた。文句一つ言わない。二人にくるっと背を向けると、指紋採取用のキットをてきぱきと片付け始めた。
その後姿を見て、きっとこの手の事は今までに何度もあったのだろう、と愁は思った。先輩からの命令であろうと、上司からの命令であろうと、現場を変えられるのを望む奴は見た事がない。今まで一緒にやってきた連中なら、確実に食ってかかるはずだ。きちんとした理由があったとしても、揉める事は多い。尤も、今の加藤に反論しようものなら、返り討ちに合いそうな程、彼は恐ろしい目をしていた。
「オタクのプロファイルってやつは何時出来る?」
愁は加藤をじっと見つめた。「信じるんですか?」
「どーいう意味だ?」加藤の眉間に皺がぎゅっと寄る。
「マッドは証拠が全て、それ以上でもそれ以下でもないと言っていませんか?鑑識の方とプロファイルチームは水と油、そう言い切る人は多いですよ」無論、マッドがプロファイルを軽視している言葉ではない事を、彼の友人である愁は良く知っている。冗談めかして言うこれらの事は誰かがマッドに言っているのだ、という事は容易に想像が付く。プロファイルはまだまだ確たる地位を築いてはいない。それでも周りがどう感じ様が、どう思おうが、己の仕事をするだけ、何時もならそう思う愁だが、加藤がどう思っているのか興味があった。
「ふん」怒りに燃えた目のまま、彼は鼻で笑う。「証拠は見えるけど、プロファイルは見えねぇからか。随分と性質の悪い戯言だな」
戯言、愁は思わず微笑を浮かべた。「世田谷のプロファイルは出来ています。今日の事件が同一犯とされれば少し足すことも出てくるとは思いますが。後は大阪の資料待ちになると思います」
加藤が頷く。
「信さん」若い鑑識が自分の捜査道具一式の入ったケースを持ち、二人の目の前に立った。「では、マッドさんと交代してきます。マッドさんに伝える事はありますか?」
「すっ飛んで来いと言え」
「了解」彼はそう言うと、二人に頭を下げた。「失礼します」
「悪いな」すれ違いざま、加藤が呟く様に言った。「主任には俺から言っておく。おめぇは何も心配するな」
「えぇ、分っています」穏やかな声でそう言うと、彼は部屋を出て行った。
加藤は深く溜め息を付くと、愁を見上げた。「オタクはこれからどうする?一応、一課なんだろう?連中と合流するのか?」
「いいえ」愁はにっこりと笑った。「私はもう少しここに居させて頂きます」
「帰る時には声をかけてくれ。バスルームに居る」言いながら、加藤は部屋を出て行く。
「えぇ、分りました」愁は加藤の背中を見送りながら、頷く。バスルームなら時間を取るだろう、と考えた。世田谷の事件と同一犯であるのなら、犯人はバスルームで血を洗い流しているはずだ。そして、その後ご丁寧に掃除をしている。塩素系の漂白剤をたっぷり使って。世田谷の事件ではバスルームから目ぼしい証拠は見つかっていなかった。加藤なら何かを見つけてくれるだろうか。
愁は狭い部屋をぐるりと見回した。とても殺風景な部屋だ。テレビ、テレビ台、カラーボックス、コタツ、ベット、後は封をしたダンボールが五つ。コタツの上には半分程コーヒーが入っているコーヒーカップ、雑誌が二冊、テレビのリモコン。
ベランダへと続く窓から見える風景は木々と、前の家の壁だけ。女性ならばまず借りない部屋だろう、と愁は思った。2階の角部屋、窓から見えるのは木々と壁。北側には月極の駐車場があった。プライバシーは確保出来るが、犯罪者には好まれる。大通りからは離れ、街灯も少ない。おまけにこのアパートには空室が目立った。一階は101、103、2階は201とこの部屋205しか入居者がいない様だった。ドアのポストに水色のテープが貼ってあった。
「浜野さん」
玄関から聞こえた声に、愁は振り返った。ガラス戸の隙間から知った顔が見えて、玄関へと向かう。
愁の姿が見えると、田中護はその端正な顔立ちを緩めた。29歳、独身。長身で、モデルの様にすらっとしているが、けして華奢な訳ではない。刑事を生業としている以上、武術にも長けていた。おまけに東大卒だ。頭が切れ、仕事も出来るが、他はからっきし駄目な男。ファッションセンス、コミニケーション能力、皆無。
「聞き込みは終わりですか?」愁は穏やかな口調で言う。
「いえ、他の連中がまだやっています。浜野さんが入って行くのが見えたので被害者の情報を、と思って」田中はそう言いながら、スーツの胸ポケットのから手帳を引っ張り出す。ペラペラと捲り、目当てのところで指を止めると、愁の答えも聞かずに話し始める。「被害者は渡辺裕士、23歳、フリーターで9時から5時までファーストフードで働いています。昨日と今日出勤しないのを不審に思ったバイト仲間がアパートを訪ね、実家に連絡。実家から通報となった様です。バイト仲間によればとても良い奴だったそうです。恨みを買う様な奴じゃないと」
愁は小さく頷いた。
「世田谷のと似てますね」
「えぇ、そう思います」
「何かアドヴァイスは?」
「世田谷のプロファイルは覚えていますか?」
田中は頷くと言った。「えぇ、大体は」手帳をぱたんと閉じ、胸のポケットに押し込める。
「もしもこの事件が同一犯であるのなら、犯人は被害者を1~2ヶ月、調べていると思われます。容姿は勿論ですが、住居周辺や生活の事まで。その上で被害者を選んでいると思われます。もしも目撃者がいるのであれば、この調べている期間が一番可能性が高いと思います」
「了解」
「現場の責任者は誰ですか?」
「俺です。鑑識は信さんです」
「明日か明後日、もう一度、今度は独りでここを訪れたいのですが、構わないでしょうか?」
「えぇ、大丈夫かと思います。信さんにも確」
田中が言い終わらないうちに、バスルームから加藤が叫ぶ。「俺はかまわねぇよ」
「だ、そうですよ」
「ありがとうございます」にっこりと微笑んで、時計をちらっと見る。PM2:05。「私はもう戻りますね。今なら大阪の事件を調べられそうですし」
田中は何の感情も表さずに頷いた。「了解」
少しだけ開いていたバスルームのドアが大きく開く。片手に証拠の何かが入った袋を持った、加藤が顔を出す。「オタク等、明日の6時にラボに来い」
「ラボ?」大きな目を更に大きくして、田中が驚いた様に言う。
愁は小さく笑った。
「おう、格好良いだろう?」何処か自慢げに加藤は言った。「マッドがあのごちゃごちゃとした部屋の事をそう呼ぶんだ」
「何か見つかりましたか?」
愁に視線を移し、小さく頷いた。「トイレの便器の裏に少量の血痕。後、このユニットバスには排水溝が二つあってな、一つは掃除された形跡がなかった。だが、場所が場所だけに何かが出てくるとは考えにくい。バスタブの中で血を洗い流した、と考える方が極自然だと思う」
「そうですね」田中が頷く。
「では、その続きは明日6時にラボで」
「あぁ、じゃぁ、俺も聞き込みに戻ります。信さん、又戻ってきますから」
「おう」
2人は加藤に一礼をし、部屋を出て行った。
愁と田中の後姿を見送りながら、加藤は軽い溜め息を落とした。田中と浜野愁ならば、この犯人を見つけ出せるかもしれない。自分が知っている刑事達の中でも、田中はダントツに良い刑事だった。生きている中で言えば、藤沢冷子に次ぐ。現役の刑事ならば日本では一番かもしれない。田中ももう少し人望に厚けりゃ出世くらい訳ないのに、と思う。尊敬して止まない、冷子の足元に転がり込めるだろう。
一方、三ヶ月前から捜査一課に仲間入りした浜野は加藤にとって、“食えない野郎”以上でも以下でもなかった。至極冷静な癖に、人と接する時には常に穏やかな笑みを浮かべ、やけに丁寧な言葉で話す、それは誰に対してもだ。最初見た時は何処ぞのサラリーマンが現場に紛れ込んできやがった、と思った。
真っ黒な髪の毛、銀のフレームの眼鏡、ノーブランドのスーツ、磨かれた革靴。中肉中背のこれと言った特徴のない顔立ち。
もしその隣に冷子が歩いていなかったら、何人かの警察官が彼を追い出していたはずだ、と加藤は今でも思っている。
なるほど、日本人のイメージを崩さない形をしていた訳か、先刻の会話を思い出して独りごちる。
冷子がアメリカと捜査官、鑑識の交換研修をやる、と唐突に言い出した時、加藤は憤激した。珍しく彼女が鎮座している部屋まで怒鳴り込んだくらいだ。捜査官達の方は知らないが、鑑識に限って言えば万年人手不足だった。アメリカに研修に行く三人は誰も彼も優秀な若手。只でさえ、シフトは58歳の加藤にとって体にムチ打つ過酷さだった。アメリカの鑑識に研修に行く事がこの三人にとって、否、日本の警察にとって大きくプラスになる事は十二分に解っている。それでも我慢出来なかったのは、日本から捜査官2名と鑑識3名が行くのに、アメリカから来るのが捜査官―実際、蓋を開けたらプロファイラーだった―1名、鑑識1名だったからだ。舐められている、と激昂してしまった。どういうこったぁ、と息巻く加藤に、土地の広さが違うんだから仕方ないじゃない、と玲子は淡々と言い放った。それでもまだ怒りをぶちまけ続ける男に、鑑識に新しく人材を入れると冷子が約束した。
だが、今思えばあの人数の交換で仕方なかったのだと納得せざる得ない。マッド・カーペンターは当初聞いていたよりもずっと優秀で、あの三人が働いていた以上の働きをする。マッドから学ぶ事は正直加藤でさえ多かった。鑑識の誰もが今やマッドから常に何かを学ぼうとしている。裁判制度を追いかけた今、日本の鑑識がアメリカの鑑識に追いつかなければならなくなる日も近い。その猶予は一体どれくらいだろう?加藤は口にこそ出さないが、常々そう考えていた。その事を見越した上での冷子の判断なのかは分らないが、今回の交換研修は成功だと思える。そう思った加藤は冷子にぎこちなく詫びた後、一か月分の小遣いをはたいて酒を奢った。
捜査一課の方に配属された浜野の動きは良く解らないが、それでも加藤の耳にはよくその噂が流れてきたし、友人であるマッドも時折彼の話を口にした。プロファイラーである浜野は未解決事件のファイルが詰まった部屋と、プロファイルのデーターを取る為に拘置所と刑務所の面会室とを往復しているらしい。現場にあわられるのは一課の課長と冷子がこの事件は長引く、と判断した時。
正直なところ、プロファイルに関する知識がそれ程ある訳ではないが、浜野が田中や冷子に劣らず腕の立つ刑事である事は加藤にも良く解った。彼等はどんなに凄惨な現場を見ても眉一つ動かさず、犯人の痕跡を探す。そしてその糸を必ず手繰り寄せる。それがどんなに細く、頼りない糸でも、あの三人なら・・・。
バスルームの中へ戻りながら、加藤は眉を上げた。否、俺とマッドを含めた5人だ。