5【緋月紅之介】
ともかく、まずは“彼”を起こさなければ授業が始められない。
これまでは、触らぬ神に祟りなしという事で、下手に関わらずに授業を続ける日々であったが、そろそろそういう訳にもいかない。
教頭からこれ以上呼び出しを受けたくなかったし、何より教師としての責務や面目というのもある。正直怖いが、目を背けるのは今日で終わりにしなければならない。
夢美は意を決した。脳内プレイリストで、ここ一番の勝負曲を再生する。
いざ、決戦の時。
「なにしてるの~、そろそろ起きなきゃだめよ~。授業、始まるわよ~」
笑顔を保ちながら、彼の肩をそっと揺する。
だが──
「グガァァァ~……グゴゴォォォ~……」
気持ち良さそうな青年のいびきが、教室中に無慈悲に響き渡る。
完全なる熟睡。反応ゼロ。
夢美の内心に、薄い絶望の靄が立ち込める。
「お、お願いだから起きて~」
「ゴゲェェェ~……ズゴビぴぴぴぴ……」
呼びかけはどこまでも空しく、返ってくるのは舐め腐ったノイズのようないびきだけ。
まるで「近づくな」と言わんばかりの不協和音。
「もう! 起きなさい!!」
と、強めの声を出してみるが、微動だにせず。
「おーきーなーさーいー!」
さらにボリュームを強めるが、反応は依然としてなし。
「うぅ……こうなったら最終手段よ……!」
ゲンナリしつつも、夢美は大きく息を吸い込み、全力で叫んだ。
「こらーーーー!! いつまで寝てるのよ!!! あなたがそんなんだと私が教頭から怒られるのよ!? これで私の教員免許が奪われるような事にでもなったら、緋月くんの事、一生恨むんだからねーーーー!!」
恨むんだからねーーーー……
だからねーー……
らねー……
教室に響くやまびこ。
その一言が、決定打だった。
「恨む……?」
──カッ!
まるで閃光が走ったかのように、彼の目が見開かれる。
あまりに突然の“覚醒”に、夢美は思わず身を引いてしまう。
「ヒッ!?」
開いた瞳孔はバッキバキ。
なのに、身体はピクリとも動かず、ただ布団の中から夢美を見つめている。
「…………」
「…………」
しばし、沈黙。見つめ合う二人。
「…………」
「…………」
「……お、おはよう、授業の時間よ……?」
意を決し沈黙を破る夢美。だが次の瞬間。
「うわぁああああああああああああ!!!!」
何か恐ろしいものでも見たかのように、絶叫と共に、素早く布団から飛び出した青年。
「きゃあぁああああああああああ!!??」
それに驚いた夢美も思わず悲鳴を上げた。教室内に二人の叫び声が同時に響き渡り、周囲の生徒たちも一瞬硬直する。
彼はそのまま臨戦態勢に入るかのように腰をかがめ──
「《《てめぇら》》ぁあ! 学校にまで来るんじゃねえってあれほど言ってんだろうがぁあ!!! 何度注意しても学習出来ねえってんなら、てめぇらの未練ガン無視して強制除霊キメっぞゴラァァァア!!!!」
なんてワケの分からない事を大声で怒鳴りだす。
「………………!??? …………!??」
意味が分からない。
そう。
この生徒こそ、先の教頭との話で挙がった校内一の問題児。緋月紅之介である。彼は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった担任の姿を見て、ようやく今の状況に気づくのだった。
「……って、先生かよ。紛らわしい起こし方しやがって。ビビったじゃねーか」
そう言いながら、何事もなかったように再び布団へと潜り込もうとする。
「……じゃ、おやすみ」
「……」
はっと我に返った夢美は、ワンテンポ遅れで反応した。
「お……驚いたのはこっちのセリフよ! 少しもらしちゃったじゃない! ……ってか起きなさいよ!!」
──夢美は深いため息をつきながら、紅之介の周囲に散らばる謎のアイテムたちを、ひとつひとつ回収していく。
「授業始めるんだから、いつまでも寝てちゃダメじゃない……あーもう……毎日毎日、学校に関係ないものこんなに持ってきて……一体何なのよこれは?」
勾玉、盛り塩、そして怪しげな鏡。
どう見ても教室には不釣り合いな小道具たちに、思わず眉をひそめる。
「オレの安眠グッズに決まってんだろ。ったく……いつもは何も言わねぇくせに、急にうるせーんだよ」
紅之介が迷惑そうに睨み返してくる。
まるで“邪魔されたのは自分の方だ”と言わんばかりの態度だ。
「い、今まで大目に見てただけです! そろそろ真面目に授業受けないと、本当に卒業できなくなっちゃうんだからね!?」
「余計なお世話だよ。んなもん、オレの人生の勝手だろうが」
「む、むむむ……!」
言い返そうとして、言葉が詰まる。
彼のような生徒を変えなければ、自分の教師人生にも影が落ちる。学校の評判だって無視できない。
でも、“まともな会話”にすら出来ない相手に、そもそも、どう向き合えばいいのか──
そんな思考を断ち切るように、教室後方から声が上がった。
「先生、もうよくないっすかー?」
「早く授業始めてくださいー」
痺れを切らした生徒たちが、次々に不満をこぼし始める。
「あ、ご、ごめん……! すぐ始めるから……!」
思うようにいかない現実に、夢美は苛立ちを覚えながら教卓へ向かった。
背後からは、教室中に漂うヒソヒソ声。
「緋月って、何考えてんだか分かんねぇよな」
「昨日、華鳥高の連中とケンカして補導されたのもアイツらしいぜ?」
「もう退学でよくね? 正直、存在が迷惑なんだけど……」
それは、ただの噂話ではなかった。
教室に充満しはじめる、紅之介への“恐れ”と“軽蔑”の気配だった。
夢美には、それがひしひしと伝わってきていた。
生徒だけじゃない。教師たちからも、彼の存在は疎まれている。
緋月紅之介。
桜城県立天萌神高等学校、二年生。
絹糸のような銀髪。頭頂部は緋色が混ざっており、その独特な見た目は、ある意味ニワトリのように、見る者の記憶に焼きつく。
華奢な体躯に見えて、その身体には密やかな筋肉が備わっており、ひとたび暴れ出せば手に負えない凶暴さを持っている。
校内では表立ったトラブルは起こさないものの、他校の不良たちとしばしば衝突し、そのたびに補導される。
派手なケンカ沙汰の噂は絶えず、今や地元では“アイツには近づくなリスト”の常連である。
だが、周囲が彼を避ける一番の理由は、実はそこじゃない。
霊感。
彼には、死者の魂……すなわち霊という存在を認知し、会話までできるという“異能”が備わっている──らしい。
誰もいない空間に向かって話しかけたり、急に怒鳴り出したりする様子は日常茶飯事であり、普通の生徒たちにとっては恐怖そのものだった。
教師間の噂によれば、幼少期に起きたある事件をきっかけに、その能力に目覚めた──との事であるが、詳しい事情を知る者はおらず、そもそも信じている者すらほとんどいない。
だが、それがかえって不気味なのだ。
人とは、未知なるものを無意識に恐れる生き物である。
未知と暴力性を秘めた彼に、誰も好んで近寄らないのは、もはや自然の事だった。
(……たぶん、いつもひとりぼっちだから、外であんなに荒れてしまうのよね)
夢美は授業を進めながら、ふと窓際の彼に目をやる。
(ストレスが溜まってるんだろうな。何とか力になってあげたいけど……幽霊とか、正直私には分からないし。どう向き合えばいいのかも……)
無意識に、ため息が漏れる。
だけど──
『どんな子供たちでも、誠心誠意向き合えば、必ず心を開いてくれるから』
母がいつも言っていた言葉が、胸の中に静かに響く。
諦めてはいけない。
彼の心に、わずかでも届く瞬間があるかもしれない。
そのわずかな可能性にすがって、夢美は自らを奮い立たせる。
──だがその一方で、紅之介はといえば。
教室の空気や夢美の覚悟など意に介さず、あくびをひとつ。
何を思うでもなく、ただ窓の外を見つめていた。
「………………」
一筋縄ではいかない現実に、夢美はまたしても深く、長いため息をついたのだった。