プロローグ・御挨拶
春の風が、校舎の古びた窓を震わせた。
俺——龍ケ崎弘彌は、これから通うことになる水戸市の高校の校長室にいた。
広すぎず狭すぎず、歴史の重みを感じさせる部屋。壁には数々の賞状や記念写真が整然と飾られ、奥の本棚には分厚い書物がぎっしりと並んでいる。床には上質なカーペットが敷かれ、窓際には一対の観葉植物が置かれていた。風格のある調度品の中に、時折見慣れた宮内庁関係のものが紛れているのが、俺にとっては少しばかり居心地の悪さを感じさせた。
そして、その部屋の主——校長は、俺の正面に座っている。
年の頃は七十を超えたあたり。長年の経験と気品を感じさせる初老の紳士で、静かにこちらを見つめていた。
「龍ケ崎弘彌殿」
穏やかながらも威厳を帯びた声が部屋に響く。
「——親王殿下」
その言葉に、俺は内心の動揺を隠しながら微かに眉を寄せた。
「校長先生。俺はただの高校生です。あまり気安く、そのように呼ばれるのは困ります」
俺は柔らかく微笑みながら、軽く釘を刺す。
俺の正体を知っているのは、ここにいる校長と理事長のみ。だからこそ、必要以上に特別扱いはされたくなかった。
しかし、校長は優雅な所作で湯飲みを持ち上げ、一口含んでから微笑んだ。
「そういうことにしておきましょう。しかし、私は陛下と長年の御学友。君がどのようなお立場かを知らぬわけにはいきません」
つまり、この校長は天皇陛下と旧知の仲。……それはつまり、俺の生まれについても、深く理解しているということだ。
俺は静かに息を吐き、カップの取っ手に指をかけた。
「……俺は、普通の高校生活を送りたいだけなんです」
「ええ、それは重々承知しております。だからこそ、この学校を選ばれたのでしょう?」
校長は穏やかに目を細める。
そう、俺はこの水戸の高校に進学することを決めた。中学を卒業するタイミングで身分を隠し、一般の生徒として過ごすために。
理由は単純だった。
——自由な青春を送りたかったから。
宮家に生まれたがゆえの厳格なしきたりや、制約の多い生活。それに縛られない、普通の高校生としての時間を手に入れたかった。
だが、それを正直に言うのは気恥ずかしい。
「ええ、普通の青春を送りたくて」
俺は適当に言葉を選んだ。
校長はその答えにどこか納得しているような、していないような微妙な表情を浮かべたが、深く追及することはなかった。
「……良いでしょう。学校生活を存分に楽しみなさい。ただし——」
その視線が、鋭く俺を射抜いた。
「決して、身分を明かしてはなりません」
「承知しています」
俺は静かに頷いた。
校長は満足したように微笑み、再び茶をすする。そして、ふと目を細めながら言葉を紡いだ。
「しかし、普通の高校生活というのも……なかなか難しいものですよ」
「……どういう意味ですか?」
俺が問い返した瞬間——
廊下の向こうから爆音が響障子の向こうに、気配が動いた。
ドドドドドドドドッ!!!サラリ、と風のような足音。
まるで雷鳴のような音が、校舎中に轟くそして次の瞬間、障子が音もなく開かれ、一人の少女が現れた。
「な、なんだ!?」失礼いたします」
俺が思わず立ち上がると、校長は特に動じることなく窓の外に目をやった。そして、淡々と告げ黒髪をまとめた、凛とした顔立ちの少女。控えめながらも整った制服の着こなし。その目は冷静で、まるで影のように静かに佇んでいる。
「——どうやら、新入生のようですね弘彌様、お迎えに上がりました」
窓の外を覗き込んだ俺は、そこで信じがたい光景を目にした。彼女の名前は、結城 楓。
校門の前、派手な改造を施された原付バイクが一台。俺の警護役であり、幼少の頃から仕えている侍従。そして、その正体は——
そのシートに跨るのは、一人の女子生徒くノ一。
短めのスカートから覗く太もも、黒のライダージャケット。ヘルメットを外すと、サラリと流れる長い髪。だが、その瞳はギラリと鋭く、明らかに只者ではない雰囲気を放っていた代々、宮家を影から支えてきた家系の出身で、幼いころから俺の側にいた。高校進学に伴い、彼女も同級生として入学することになっている。
「……あれが?」
「お疲れ様、楓」
「ええ。彼女もまた、新入生です」
俺が軽く手を挙げると、楓は僅かに微笑みを浮かべて一礼した。
校長の言葉に、俺は改めて視線を戻した。
「校長先生、これからも弘彌様のこと、よろしくお願いいたします」
彼女は原付を降りると、バイクのハンドルを軽く叩きながら大きく伸びをする校長は苦笑しながら頷く。
「ふぅ〜〜! やっぱ朝の風は最高だな!」もちろんです。彼が普通の高校生活を送れるよう、私も協力しましょう」
その言葉とともに、彼女は校門をくぐ楓はそれを確認すると、俺に向き直った。
——これが、俺と彼女の最初の出会いだった。
「そろそろ、お時間です。寮へ向かいましょう」
……そして、この瞬間から、俺の普通の高校生活という夢は、大きく狂い始めることになる。
「ああ、わかった」
俺は席を立ち、校長に一礼する。
「それでは、失礼します」
「うむ、良い高校生活を」
校長の言葉を背に、俺は楓と共に校長室を後にした。
そして、俺の普通の高校生活が、静かに幕を開ける。




