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第二章 長距離馬車での報告書 2

 エレンが追想に耽っているあいだにも、二頭の馬車馬がまさしく「馬車馬みたいに」たゆまず引っ張る駅伝馬車はアルビオン南部らしいよく整った街道をひた走り続けていた。


 右隣に同乗しているメアリ・マディソンは、馬車の揺れをものともせず、膝の上に黒皮の手帳を広げて何やらせっせとペンをうごかし続けている。



 マディソンは若い未亡人だ。

 言動の節々から察するに、年齢は少なくともエレンより十は上のようだが、小柄で平坦(フラット)な体つきと凹凸の少ないツルッとした丸顔をしているため、下手をすると年下にさえ見える。濃いこげ茶色の癖のない髪は艶やかで肌も滑らかで、よくみればなかなか愛らしいとさえ言えそうな容姿をしているのに、見た目にはてんで無頓着で、いつも未亡人のお手本みたいな白とグレイの縦縞の地味はドレスに身を包んで、光沢のある綺麗な髪をきっちりと結い上げている。


 エレンは初めこのやたら若い見た目の秘書兼家政婦と友情を結ぼうと勇み立って、「よろしければメアリと呼んでも?」と、申し出たのだが、心底嫌そうな顔で、「できればミセス・マディソンと」と断られてしまった。


 彼女は公私は混合しないタイプらしい。

 だが、きわめて有能なのは確かだ。


 今もその有能なメアリ・マディソンは、窓から吹き込む風と光に時折眉をしかめながらも、熱心にペンをうごかし続けている。

 何をしているのかと観察していると、不意に顔をあげ、

「ミス・ディグビー」

 と、いつもの平坦な声で呼んできた。


「な、なに?」

 エレンは家庭教師に叱られそうになった生徒みたいに跳ね上がった。


「お願いされていた報告書(レポート)です。遅くなってすみません」

「あら、今それを書いていてくれたの?」エレンは吃驚した。「ありがとう。着いてからでも十分に間に合ったでしょうに」

「ターブまで三日の旅程ですよ。そのあいだ私に昼寝をしていろと?」と、マディソンは片眉をあげた。揺らぎの少ないダークブラウンの眸がごく微かに光っている。

「あなたはまさしく神の賜物よ! ありがとう。本当に助かる」

 有難く受け取って手帳を開けば、三日前、レディ・アメリアが帰ってからすぐにマディソンに頼んだコーダー伯爵家の家族関係と、分かる限りのそれぞれの人格や世間からの評判についての報告書が五ページにわたって記されていた。


「ああー―」

 エレンは手帳を抱きしめて陶然とうめいた。

「ねえミセス・マディソン」

「何です?」

「愛しているわメアリって頬にキスをしていい?」

「嫌です」

 有能な秘書兼家政婦はにべもなく断った。




 メアリ・マディソンは、エレンの事務所に雇われる前には、成り上がり者ながら海運商人組合の大物の町屋敷(タウンハウス)家政婦(ハウスキーパー)を務めていたらしい。

 しかし、どうも噂を聞き齧るには――その大商人のドラ息子の一人に本気で恋をされたとかで――怒り狂った奥方に推薦状なしで屋敷を叩きだされたため、うら若き令嬢諮問魔術師が始めたばかりの心許なすぎる事務所の求人広告に応募してくれた、という来歴らしい。


 そういう経歴のマディソンは、タメシス近郊の中上流階級のお邸に雇われる家政婦や小間使いといった高級女性使用人や、場合によっては家庭教師(ガヴァネス)貴婦人付添女性(レディス・コンパニオン)といった勤労ミドルクラス――ここにはたぶんぎりぎりエレンも含まれる――のご婦人たちのコミュニティにそれなりの伝手がある。

 彼女はそうした知り合いへの聞き込みを重ねて、わずか三日でコーダー伯爵家の家庭内情報の調査報告書を仕上げてくれたのだ。



 その「マディソン報告書(レポート)」によれば、当代のコーダー伯爵であるロード・エドガー・キャルスメインとレディ・アメリアのあいだには三人の子供がいるそうだった。


 長男のエドガー・ジュニアは当年三十歳で、スタンレー卿という称号を持っている。

 二番目は娘のレディ・アリス二十四歳で、彼女は三年前に北部のバークリー侯爵家の次男に嫁いでいる。

 三番目が次男で末っ子のアーノルド二三歳で、これはまだカトルフォード大学に所属する学生らしい。



「――スタンレー卿という名前は、そういえば聞いたことがあるわ」

 エレンは報告書に目を走らせながら呟いた。

「でしょうね」と、マディソンが応じる。「あなたの美貌ならね。ミス・ディグビー、あなたが何と聞いているか当ててさしあげましょうか?」

「どうぞ?」


「一夜の快楽と贅沢のあとで不義の子供を産みたくなければあの貴公子にはご用心、では?」

 マディソンが明るい昼間には不釣り合いな台詞をサラっと口にする。


 慎み深いエレンは耳まで赤くなった。

「正解よ。もうちょっと婉曲な言い回しだったけれど。――わたくしがまだセルカークの実家にいて、狭い世界で社交界の蝶であった遠い昔にね――」

「そう遠くもないでしょう? せいぜい四年前では?」

「五、六年前よ。スタンレー卿は市庁舎の舞踏会だの海運商人のパーティーだのといった、あの方の社会階層からしたら下の身分の社交の場に好んで顔を出しては、若い娘に高価な贈り物をすることで有名だったの」

「最低ですね」

「最低よ。わたくしは絶対に近づいてはいけないって長兄に言い含められていた」

「賢明なお兄様ですね。コーダー伯爵家の嫡男の評判は使用人のあいだでも最悪です。次男のアーノルドさまの評判は、反対にきわめて良いようです。ところでミス・ディグビー」と、マディソンが不思議そうに訊ねる。

「この報告は今回のお仕事に本当に必要なのですか?」

「念のためにね」と、エレンは口を濁した。

 

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