第九章 五月祭 3
「誰だ、この男は?」
エドガーが呟く。
「サー・リチャード・スキナーです」
エレンは目眩を堪えながら答えた。「彼は今から三十五年前に死にました。早くに妻を亡くして子供がいなかったため、スキナー家の財産は甥のアルフレッド・デールがすべて相続しました」
「ああ、あああ……」
アメリアが両手で顔を覆ってその場に崩れ落ちた。
同時に光が消える。
「マイ・レディ!」
ベアトリスが慌てて両膝をつき、アメリアを抱き寄せる。「しっかりなさってください!」
「ミス・ディグビー……」と、アメリアが震える声で呼ぶ。「それじゃ、アルなの? アルが遺産のためにリチャードおじさまを殺したの?」
「いいえレディ、ご安心ください」と、エレンもぐったりと肘掛椅子に座り込みながら答えた。エドガーが林檎酒の杯をとってまずエレンに渡し、次にアメリアにも差し出す。
「大丈夫かいご婦人方。気付けにブランデーは?」
「大丈夫ですわ卿。――レディ・アメリア、三十五年前にサー・リチャードを殺したのは、おそらくは妹のエレノア・デールです」
「エレノアおばさまが?」
「ええ。彼女は未亡人として風見鶏館に戻って以来、兄のサー・リチャードに子がいない以上、生家の財産を継ぐのは当然息子のアルフレッドだと信じていたのでしょう」
「そうね。いつもそう言っていたわ」と、アメリアが椅子にかけ直しながら頷く。「実際その通りだったし。放っておいても間違いなく相続できるのに、彼女はどうしてお兄様を殺そうなんて思い立ったの?」
「急に大金が必要になったのか?」
「いえ、これはターブの社交会館の儀式長から聞いたのですが、サー・リチャードはちょうどその頃、女性画家のグラディス・フェイトンとの再婚を考えていたのだそうです。ミス・フェイトンは長年さる大貴族の家で家庭教師を務めていた女性でしたが、その――つまり、あまり祝福されない子を産むことになって、それなりの額の養育費を貰って生家に帰っていたのだそうです」
「グラディスなら覚えているわ」と、アメリア。「インクみたいに真っ黒い髪の綺麗な人だった。でも、わたくしは絶対に話をしてはいけないと乳母から言いつけられていた」
「私生児の母親ではな!」と、エドガーが肩を竦める。「しかし、確実に子を産めることは間違いない。それでエレノア・デールは、兄が正嫡の後継ぎを得ることを恐れて、再婚される前に殺害したんだな?」
「ええ。あくまでもわたくしの推測ですけれど。そのあとの諸々の不手際を考えるに、計画的な犯行ではなく、口論の挙句の衝動的な撲殺だったのではないかと思います」
「じゃ、わたくしはリチャードおじさまが殺されているところを、偶々見てしまったということ?」
「そうではないかと思います」
「なあミス・ディグビー、その殺害を、なぜ君はエレノア・デールの犯行だと考えるんだ? 三十五年前なら、息子のアルフレッドだって十代の後半だろう。彼がやったという可能性は?」
「そちらの線は薄い――と思います。レディ・アメリアが不運にもサー・リチャードの殺害現場を目撃してしまったあとで、母親のエレノアに頼まれてアルフレッドが忘却の術をかけたのだろうと、わたくしは推測しています。術は永続するものではありませんから、レディ・アメリアがターブへ来るたび、毎年ずっとかけ直し続けていたのではないかと」
「――でも、わたくしが十八のとき、此処へはもう来られないと打ち明けたのよ」と、アメリアが肩を落として囁いた。「素晴らしい婚約が調ったから、あなたとはもう会えなくなったって。そしたらアルが鏡をくれた。毎年必ず、一度は顔を見せてと――」
そこまで口にしたところで、アメリアがまた両手で顔を覆ってむせび泣き始めた。
「ひどいわ。ひどい。あんまりよ。アルフレッド! アルフレッド! あの人はわたくしが好きだから、愛しているから顔を見たいのだとずっと信じていたのに……!」
ベアトリスが横からその肩を抱いて慰めにかかる。
エドガーはしばらく所在なさげに泣きむせぶ母親を眺めていたが、じきにため息をついて立ち上がると、エレンの右肩に手を添えて囁いてきた。
「ミス・ディグビー、少し散歩でもどうだ?」
「なあ、さっきの話の続きだが」
邸宅前の並木道をぶらぶらと歩きながらエドガーが訊ねてくる。
「君が犯人はエレノアだと言うのは、母に対する思いやりかい?」
「いえ、もちろん根拠はありますわ。――例の鏡を利用してレディ・アメリアに遠隔操作で忘却術をかけ続けていたとして、もしアルフレッド自身が犯人だったら、今年に限ってかけなかった理由がありませんもの」
「じゃ、エレノアが犯人だったら?」
「理由が見つかります。――卿はどう推理なさいます?」
「挑戦か。受けてやろうじゃないか」と、エドガーが面白そうに笑い、しばらく考え込んでからポンと手を叩く。
「分かったぞ! 去年から今年のあいだにエレノアが死んだんだろう?」
「ご名答。―-ミスター・デールが去年ようやく結婚なさったという話は覚えていらっしゃいます?」
「ああ勿論」
「実はそのお相手こそが、そもそもの惨劇の発端となったグラディス・フェイトンの私生児のミリセントなのですけれど、エレノア・デールはその結婚に最後まで大反対していたのだそうです」
「他人の結婚に反対し続ける一生を送った婆さんなのだな! 全くはた迷惑な」エドガーが舌打ちをし、心配そうに邸を省みた。
「――母は立ち直れるかな? いつも春には泣いたり笑ったり不安定な人だったが」
「きっと大丈夫ですよ。慰めてくれるお友達も傍にいるようですし」と、エレンはできるだけ明るく請け合った。「初恋に破れた女の子は大抵泣くものです」
小首をかしげて告げると、エドガーは眉をあげ、妙に不安そうな声音で訊いてきた。
「……君も泣いたことが?」
「秘密です」
エレンは笑って答えた。
春風に乗って薄紅色の林檎の花びらが舞っている。




