第九章 五月祭 2
「思い出す? どういうこと?」
レディ・アメリアが不安そうに訊く。
彼女はすでに思い出しかけている――と、エレンは確信した。
「言葉通りの意味です。――レディ、お手をこちらに」
皴深い小さな手をそっと取って、今しがた曇りを取り除いたばかりの燦水晶に触れさせる。途端、アメリアは、燃え盛る石炭にうっかり触れてしまったかのような悲鳴をあげてエレンの手を振り払った。
「マイ・レディ!」
「母上!」
ベアトリスとエドガーが同時に叫び、左右からアメリアの肩を支えようとする。
「大丈夫ですか?」
「ミス・ディグビー、母に何をするつもりだ?」
「――大丈夫よ二人とも」と、アメリア自身が弱弱しく応え、何かを決意したような目つきでエレンを見上げてきた。
「もう一度試させて」
「ありがとうございます。では、指先でこの凝石に触れてください」
「どの指?」
「どの指でも結構です」
アメリアは、今度は自分自身でそろそろと燦水晶に手を伸ばした。右手の中指と人差し指の澄んだ珠の表面に触れる。
「どうぞ、合言葉を」
促すと、アメリアは眉間に深い皴を刻んでから、聞き取りづらいほどの小声で囁いた。
「アルフレッド・デール」
途端、指の下の石が白く閃き、鏡の表面からも色味のない混じりけなしの光が放たれ始めた。アメリアが瞬きをする。
「――いつもの光と違うわ」
「こちらがこの石本来の色調です。――ターブの社交会館の図書室に残っていた文献によれると、祭典魔術師の作った〈記憶の鳥たち〉は来客に『慕わしい記憶を見せてくれた』のだそうです。わたくしは初め、〈鳥〉の眸に用いられている燦水晶がそこに映った情景を記憶しているのだと思っていました。けれど違ったのです。〈鳥たち〉が見せていたのは来客自身の記憶――」
エレンはそこで言葉を切り、深呼吸をしてから告げた。
「レディ、思い出してください。あなたがずっと忘れていたこと――無理やりに忘れさせられていたことを」
告げながら、自分自身の指を鏡の表面に添えて淡い金色の微光の形で魔力を注ぎこむ。
すると、鏡の表面から琥珀色の光の帯が立ち上った。
「うう……」
レディ・アメリアが低く呻いた。
鋭い痛みをこらえるように目元を歪めている。
エレンもこめかみを刺されるような鋭利な痛みを感じていた。
「レディ、堪えてください。あと少し、あと少しです」
アメリアの額に汗の粒が浮かんでいた。
鏡の面から立ち上る光の色が濃くなる。
天井へと立ち上る透き通った琥珀の柱のようだ。
じきにその光の帯のなかに、どこか旧い荘園邸の玄関広間のような部屋が浮かんできた。暖炉の上に大きな鹿の頭が飾られている。
「これは――」
エドガーが端正な顔を光に染められながら呟く。「どこの邸だ? 見たこともないぞ?」
「おそらくは風見鶏館です」と、エレンは頭痛を堪えながら答えた。「三十五年前までターブ郊外のウッドサイドにあったスキナー家の邸宅です」
「そうよ、風見鶏館」と、思いがけず、アメリアが震える声で応えた。「アーデンの森のなかの館――わたくしはいつもあの館の傍の別邸にいたの。アルとは昔からよく遊んだ――……」
「ミス・ディグビー、アルフレッド・デールは、ターブのスキナー家とはどういう関係なんだ?」
「彼は最後の直系のスキナー一族だったサー・リチャードの甥です。サー・リチャードの妹のエレノア・スキナーはタメシスの法廷弁護士のコンラッド・デールという人物に嫁ぎました。しかし、コンラッドが早くに亡くなったため、エレノアは息子のアルフレッドを連れて風見鶏館に帰っていました」
「そうエレノアおばさま。おばさまがいつも言っていた。わたくしはアルと結婚しなさいって。アルはそのうち風見鶏館の主人になるのだからって」
アメリアが怯えた子供の声で言う。
琥珀色の光の柱のなかの情景が変わっていた。
赤い絨毯を敷き詰めた階段を誰かが登っている。
誰か――おそらくは少女時代のアメリア・サックヴィルだ。
彼女の目に映る旧い邸の内装は何もかもが大きかった。
じきに目の前に大きな黒い扉が現れる。
扉はわずかに開いていた。
隙間から室内が見える。
記憶のなかの目の持ち主が隙間へと顔をよせる。
すると室内の真ん中の書き物机の扶持から、白いキュロットと黒い乗馬ブーツに包まれた肉付きのよい男の両足が垂れ下がっているのが見えた。
「あああああー―――!」
アメリアが鋭く叫んだ。
次の瞬間、光の柱のなかに男の顔が浮かんだ。
目を見開き、唇を開き、額から血を流した男の顔だ。
アルフレッド・デールときわめてよく似ている。